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なあなあの原子力体制を問う(2)――審査という儀式

三島憲一

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

形式は整っている

 もちろん、原発建設のさまざまな基準、審査は日本でもとても厳しい。環境アセスメントも、推進者の目から見れば「ながながと」「必要以上に徹底的に」なされている。地元との対話も今では丁寧に、時間をかけて行われている。安全にもさまざまな配慮が技術的にも、政治的にもなされている。全体のプロセスはヨーロッパ諸国よりも厳しく丁寧な場合すらあるかもしれない。

 しかし、こうした複雑な審査基準やプロセスも、建設工事を遅らせることはあっても、走り出したら止まらない、の原則通りで、退却させたことはない。ごく初期の段階で地元の了解が得られず、電力会社が建設を諦めることが、ようやく最近になって何件かあったようだが、それまでは、こうした複雑な手続きは、すべて「儀式」であった。

 特に住民との対話がそうであるし、それ以外の調査や審査も、結論は大体が事前に決まっていた。反対の自治体は、さまざまな補助金の約束でおとなしくさせられる。関係者の暗黙の了解の前に、筋論を唱えたり、「あり得ない」大きさの地震や天変地異を論じる者は、「変わり者」でしかない――「ああいう奴が出てくると迷惑なんだよな」。人に迷惑をかけることは、この社会では最もいけないことのひとつだ。

連日のように開かれる経産省原子力安全・保安院の西山英彦審議官の会見
  この閉じた環のなかで、「日本の原子力技術は世界一」「原発はジャンボ機が墜ちても安全」といった神話、いやデマを当事者たちも確信しながら流布させてきた。実際には国会でも、専門的知識を有する議員から疑義が発されたことがなんどもある。たとえば2006年3月には衆議院予算委員会の分科会で、大学で原子力工学を専攻した共産党の吉井英勝委員が、大地震の際の津波による破壊とそれに伴う熱の上昇に憂慮を表明している。
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