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[10]再び、震災と鉄道を考える(下)――沿線の成り立ちを知ってから住むところを決めよう

聞き手=WEBRONZA編集部

原武史さんインタビュー 聞き手=WEBRONZA編集部

◆関東大震災で起きた人口移動◆

――過去の地震と復旧・復興に学ぶとすると、どのようなケーススタディーが可能でしょうか。阪神・淡路大震災や関東大震災では、どのような反省や教訓があったのか。阪神では山陽新幹線の復旧に約4カ月かかりましたが、その反省を生かして東北新幹線は50日で復旧したとされます。高架式の支柱に鉄板を巻くなど耐震性を向上させたことで、支柱の破断など致命的な損傷が皆無だったそうです。関東大震災ではどうだったのでしょうか。

 鉄道省が管轄する線(いわゆる国有鉄道)については前回触れた通りで、震災が起こった日の午後にはもういくつかの線で運転を再開させていました。翌日には宮内大臣の牧野伸顕が、翌々日には秩父宮が、それぞれ日光から日光線、東北本線を経由し、列車で帰京しています。復旧に時間のかかった東海道本線ですら、10月末には復旧している。震災の大きさの割には、驚くべき復旧の早さだと思います。都電の路線網は関東大震災以前にほぼ完成されていたので、基本的にはそれをなぞって復旧させた形です。

 震災のあと、東京の西側に鉄道網が拡大します。これは、東京の人口の重心が、本所、浅草など東側の下町から豊多摩郡や荏原郡など西側の(新)山の手に大きく移ったためでもあります。江東区や墨田区は震災後の延焼で焼け野原になったので、まだ郡部だった地域に多くの人が移り住んだわけです。そうした地域に新しい住宅地ができて人口が増えたことで、昭和初期までに現在の小田急や東急東横線、京王井の頭線、西武新宿線、南武線が走るようになった。田園調布や成城学園、国立といった計画的な住宅地ができてゆくのもこのころのことです。

――東京の人口は、震災で減ったのではなく増えたのでしょうか。

 震災で死者が出て激減し、大阪市に抜かれますが、1932年(昭和7)に人口が激増した豊多摩郡、荏原郡、北豊島郡を合併して大東京市となり、日本一の座を奪回します。

――今回の震災が関東大震災や阪神大震災と違うのは、大幅に人口が減っている過疎地で起きたことだと思います。関東大震災では、都市が西側に拡大しましたが、これは政府主導だったのでしょうか。

原 いえ、民間主導です。例えば、田園調布は渋沢栄一のつくった田園都市会社の開発。成城は成城学園という私立学校が主導しました。国立は箱根土地という堤康次郎の会社が開発しました。他には自由学園や玉川学園も私立学校主導です。震災後に後藤新平が提唱した帝都復興計画も有名ですが、これは住宅地の整備ではなく都心の再開発を目的としたものです。唯一といっていいと思いますが、東武が内務省都市計画課の小宮賢一の設計を採用した常盤台(現・ときわ台)のケースがありました。

 しかし、すべてがうまくいったわけではありません。小田急は林間都市(今の東林間・中央林間・南林間)の開発に失敗していますし、箱根土地も大泉学園と小平学園(現・一橋学園)の開発は失敗しました。堤康次郎は中央線のイメージを上げたけれど西武線のイメージを上昇させることはできなかった、という話は前にも触れましたね。

――沿線開発やイメージ向上は、なかなか意図してできるものではないんですね。

 やはり関東大震災後は、特に中央線沿線の町が急速に開発されていきます。国立を除けば、はっきりした都市計画的な動きがあったわけではないのですが、例えば荻窪には近衛文麿の荻外荘が建ち、結果として別宅から本宅になった。2・26事件で暗殺される教育総監の渡辺錠太郎も荻窪に住んでいましたし、同じ2・26事件で処刑される北一輝は、中野に住んでいました。国立には元朝鮮総督の宇垣一成の邸宅がありましたが、駅前には「国威宣揚」と書かれた宇垣筆の碑が今も残っています。また阿佐ヶ谷には「文士村」ができるなど、文化的な沿線イメージができていく。こうした動きは関東大震災後のことです。

――今回、太平洋側の東北3県に文化人が移り住むということは難しいでしょうね。

 首都機能が移転でもしない限り、無理でしょう。しかし仙台が、東北全体の政治、経済、文化の中心であるのは、震災後も変わらないと思います。例えば、南三陸町の中心にある志津川は、震災前は仙台まで快速で1時間20分で出ることができる町でした。東京で言えば通勤圏です。ところが気仙沼線がいつまでたっても復旧しないので、逆に陸の孤島になってしまっている。

――そう考えると、鉄道の復旧と道路の復旧は対照的に思えます。東北道から太平洋に向かって枝分かれする釜石道と相馬に向かう東北中央道は、10年以内に優先的に全通させるという報道もあります。

 原発事故のエリアを除けば、高速道路で復旧していない場所はほとんどない。ところがJRなどの路線が不通のままでもなかなか問題にならない。恐らくJR東日本が最も復旧させたいのは仙石線でしょう。仙台から多賀城、塩釜、東松島を通って、宮城県下第二の都市である石巻に至る通勤路線ですからね。現在、仙台から高城町まで開通しましたが、石巻までの間が津波で大きな被害を受けて何キロにもわたってレールや駅舎などが流されました。矢本~石巻間の線路だけがかろうじて復旧しましたが、架線は復旧しないためディーゼルカーが走っています。

JR仙石線野蒜(のびる)―陸前小野駅間に残されたままの車両。線路は雑草やススキの穂に覆われている=東松島市

――何もさえぎるものがない海沿いの平地ですから、津波対策を考えれば内陸に路線を移さなければならない場所です。

 実は仙石線は当初、宮城電気鉄道という私鉄が敷いた路線です。その名の通り、東北では珍しい電気鉄道で、それを国が買収しました。元々が私鉄ですから駅間距離も短い。東北は基本的に電気が交流なのに仙石線は直流です。

――なるほど。仙台駅の構造も、仙石線は地下ホームで東北本線などと直角に交わる形ですね。理由がわかった気がします。

◆植民地も島は狭軌、大陸は標準軌◆

――連続インタビューで何度か触れた標準軌と狭軌の違いは、どう考えればいいんでしょうか。もちろん、レール幅が広い方が大きな車両を高速で走らせることができる。それ以外に先進国のイメージだとか、あるいは世界標準なので鉄道インフラを売り込む際のコスト面も有利なのでしょうか。

 日本の鉄道は、JRの在来線や東急、東武、西武、小田急、相鉄、名鉄、南海、西鉄などの私鉄が狭軌で、新幹線が標準軌です。でも、標準軌の私鉄も阪急や阪神、京阪など、関西を中心にいくつかあります。関東でも、京急や京成は標準軌。他にも、狭軌と標準軌の中間にあたる1372ミリという中途半端な京王線の古い車両が、狭軌に当たる山梨の富士急行線や島根の一畑電鉄で余生を送っています。つまり線路幅が違っても、車両を改造すれば別の線で走らせることができるわけです。

――軌間が混在している問題は、電力会社の送電網が、50キロヘルツと60キロヘルツで東西に分断されて統一できない状態と似ていないでしょうか。

 明治初期に、大隈重信が英国人技師のアドバイスを鵜呑みにする形で、狭軌を採用しました。英国側から見れば植民地サイズでいいじゃないか、と馬鹿にしていたわけです。1067ミリで敷設した新橋~横浜間以来、ずっと狭軌でした。だから、前にも触れたように近代化が進んでくると、後藤新平と原敬の対立が生まれた。つまり、大陸につながる東京~下関間をすぐに広軌化すべきだ、いや、地方のローカル線を充実させるべきだ、という論争です。結局、原敬の率いる政友会が勝ってローカル線の延伸を優先させた。鉄道広軌化計画はいったん挫折して、戦後の東海道新幹線でようやく実現したわけです。

 ところが、

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