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北で粛清された「半島の舞姫」が蘇る――崔承喜の生と死

小北清人 朝日新聞湘南支局長

 70年以上前に録音された貴重な音源から、柔らかなソプラノの歌がはっきり聞こえてくる。そして、彼女が独自に作り上げた舞いを華麗に演じるその映像――。

 日本と朝鮮半島の関係を考えるとき、極めて興味深いCDとDVDのセットが11月下旬、発売されました。タイトルは「伝説の舞姫 崔承喜の芸術世界」(キングレコード)。

 崔承喜は「チェ・スンヒ」と読みますが、戦前の日本では「さい・しょうき」と日本風に呼ばれ、とても有名だった人です。1911年、日本による朝鮮植民地統治が始まった翌年に朝鮮で生まれ、15歳で当時の著名な独創的舞踊家・石井漠(東京・目黒にある「自由が丘」の名付け親だそうです)に弟子入り。彼女独自の舞踊芸術をつくりあげ、川端康成など多くの文学者や知識人から賛辞を受けました。日比谷公会堂での新作発表会は大変な人気で、その美貌もあって文房具、化粧品、菓子の宣伝モデルにも起用され、広い層から人気を得ました。

崔承喜

 1935年には自伝的映画「半島の舞姫」に出演、監督は作家の今日出海氏(後の初代文化庁長官)です。当時の彼女の人気ぶりがわかろうというものです。

 発売されたCD(全15曲収録)には、映画「半島の舞姫」のため彼女がレコーディングした2曲「郷愁の舞姫」「祭りの夜」が収められています。作詞はどちらも西条八十。「郷愁の舞姫」はこの映画の主題歌ですが、彼女は日本語で、

 「夢やぶれて 涙おもし白き衣 哀しき胸 うたいつつ旅ゆく」

 などと歌っています。同映画の挿入歌「祭りの夜」も日本語。CDで彼女はもう一曲、「イタリーの庭」を歌っていますが、こちらは朝鮮語です。「イタリーの庭」のレコーディングはコロンビアレコードのソウル(当時は京城といいました)支社で行われましたが、当時はどの日本の大手レコード会社も朝鮮支社があり、朝鮮人向けに朝鮮語のレコードを制作していたのです。

 欧米でも数多く公演し、盛名を高めた彼女ですが、第二次世界大戦勃発、中国での日中戦争が本格化するなか、中国各地や当時の満州、朝鮮などで日本軍への慰問公演を行うようになります。日本の敗戦も、彼女は慰問先で迎えています。

 が、日本の敗戦に伴い、朝鮮が「解放」されるや、彼女の運命は一変します。

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