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テヘランのイギリス大使館はイラン政治の舞台

高橋和夫 放送大学教養学部教授(国際政治)

 テヘランのイギリス大使館が「学生」たちに襲撃され、イギリスは外交団を引き揚げた。イギリスは、「学生」は単なる学生ではなく、イラン政府に動員された若者たちと見ているようだ。イラン外務省は事件に遺憾の意を表したものの、ラリジャニ国会議長は若者の怒りを当然視するような発言をしている。国際的には強硬派で知られるアフマドネジャド大統領も、ラリジャニと比べると弱腰に見える。

長崎の爆心地を訪れたイランのラリジャニ国会議長(中央)=2010年2月

 ラリジャニは、それほどの超強硬派である。2013年の次の大統領選挙への野心もあるだろう。2005年の大統領選挙ではラリジャニはアフマドネジャドと争って敗れている。また、だんだんと国際的な経済制裁がイラン経済に実質的な打撃を与え始めている。国際的な緊張を高めて国民の不満をそらそうとの心理も政権の一部では働いているのだろうか。

 1979年のアメリカ大使館占拠事件を思い出す。当時は、革命イランの新しい憲法をめぐって議論があった。大使館人質事件はホメイニ師が演出したものではなかった。しかし同師は、これを利用した。危機感の中で行われた国民投票で、最高指導者つまりホメイニ師に権力を集中させる憲法が批准された。これによって現在のイスラム体制が成立した。

占拠されたイランの米大使館=1980年4月

 このイギリス大使館には筆者も行った経験がある。壁を越えての襲撃ではなく、駐テヘランのイギリス大使の招待を受けての正面からの訪問であった。広大な敷地の一角に大使公邸があり、そこでの夕食会に参加した。

 2002年に国際会議でテヘランに滞在中のことであった。イギリス大使館は、テヘランのバザールの近くにある。その敷地は、南北に約260メートル、東西に180メートルというサイズである。サッカーのピッチでも縦68メートルで横105メートルしかない。つまりサッカーのピッチが二つすっぽり入って、まだ余りが出る広さである。

 20世紀の初頭にイラン国民が憲法を求めて立ち上がった際には、シャー(国王)の弾圧を避けるために多数の市民がイギリス大使館に避難するという事件が起こった。その時に大使館の敷地に入った市民の総数が実に1万4000人に達したとの記録が残っている。大使館の広さが想像できよう。

 館内は木々がうっそうと茂り、都心にあるとは思えないくらいである。実は、この大使館は日本にも無縁ではない。

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