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「ムロ、お前もアメリカ人になれ」――二極分化するアメリカで

室 謙二

「ムロ、お前もアメリカ人になれ」とアメリカ人の友人に言わたことがあった。1972年だったから、もう40年も前のこと。まだ20代で東京に住んでいた頃で、そんなものになれたり、なれなかったりするものなのか、と驚いた。

 日本人にとっては、日本に生まれて日本に育ち、その国(日本)の人間(日本人)であるのが当たり前だが、しかしアメリカでは、アメリカ・インディアンをのぞいて、みんな他国からアメリカ大陸にやってきた人々である。だからお前もアメリカに来て、いっしょにアメリカ人になれ、という言葉も可能なのである。日本とアメリカでは、国の作り方が違う。

 その言葉を聞いてから20年以上たって、私はアメリカ国籍をとってアメリカ人になった。それは友人に言われたからではない。

 さてアメリカ人になるとしたら、どういうアメリカ人になるか? アメリカには人種も、歴史も文化も異なった人が住んでいるから、そのなかのどのアメリカ人に自分がなりたいのか、と考えることができる。もっともそんな意識を持たなくてもいいけど。

 するとまわりからは、日系新一世と思われるかもしれない。私は東京にいた時もあまり「日本人」ではなかった。いまから考えると、私の両親の家は、あるカタチの非日本的/反日本的環境であったので、ここまでやってきて日本人と思われるのもしゃくにさわる。それで非日本的日本人と非アメリカ的アメリカ人でいくことにした。

 この非日本的日本人とか非アメリカ的アメリカ人は、私の発明ではなくて、歴史家アイザック・ドイッチャーの『非ユダヤ的ユダヤ人』(岩波新書)から借りた考えだった。ドイッチャーによれば、非ユダヤ的ユダヤ人こそがユダヤ人をユダヤ人たらしめる存在で、彼ら彼女らこそが、狭いユダヤ人性から離れて(あるいはそれを否定して)ユダヤ性をグローバルに拡大して、そのことによって歴史の中で新しいユダヤ人性を作ってきたということだったが、そんなことは日本人で可能だろうか?

 日本の歴史と文化を、非日本的日本人が作ってきた、とはあまり言えない。日本はいっかんして、非日本的日本人をそとに押し出してきたように思う。

 私は、アメリカにやってきたときに、まだ持っていた「日本人性」を脱いでしまおうとした。

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