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小党乱立の愚――政党政治を危うくする「選挙互助会政党」

薬師寺克行 東洋大学社会学部教授

 総選挙の公示を前にメディアで盛んに民主党の離党者による新党合流や、新党間の政策調整、合併騒動が報じられている。衆院解散時の政党数は15に上る。これは戦後日本政治を振り返ってみても異常に多い数字だ。そして、その大半が郵政民営化や消費税増税など個別の政策について所属していた党の方針に反対して自民党や民主党から離党した人たちによって作られている。

 総選挙を前に「第三極の結集」というかけ声のもと各党が活発に合従連衡を模索しているのは、自分たちの当選可能性を少しでも高めるためでしかない。そうした行動は新党がにわか作りの「選挙互助組織」でしかないことを示しており、とても肯定的に評価することはできない。

 戦後の総選挙を振り返ると、自民党と社会党が誕生した1955年以後、主要な国政政党は自社両党のほか社会党が分裂してできた民社党、創価学会を母体とする公明党、戦前からの政党である共産党など4~5の政党の時代が70年代まで続いた。

 この均衡を破ったのが1976年に河野洋平氏らがロッキード事件を機に自民党を離党して結党した新自由クラブだった。当時、新党の結成は並大抵のことではなく、当初は河野氏とともに一緒に離党することを確認した仲間が党内からの説得工作などで次々と脱落していった。河野氏は「最後は1人になってもやる」というほど決死の覚悟での離党だったという。その後、菅直人氏ら市民運動家らによる社民連も登場した。

 次に新党が相次いだのは1993年、自民党竹下派の分裂や宮沢内閣による政治改革が不発に終わった直後だった。自民党を離党した武村正義氏らが新党さきがけを、小沢一郎氏らが新生党を結党、それに既存政党の枠組みの外で日本新党も登場した。それでも93年の総選挙の政党は9だった。

 これらの新党は選挙に当選するための政党ではなく、スキャンダルが続いたにもかかわらず政治改革に消極的な自民党を否定することに力点を置いていたところに特徴がある。

 一気に新党が増えたのは衆院に小選挙区比例代表並立制が導入されてからだ。小沢氏を中心とする非自民勢力が政党の合併や分裂を繰り返したほか、自民党を離党した渡辺喜美氏らのみんなの党も登場し、政党数は8~11と多い状況が定着した。

 一方、参議院選挙を見ると少し様相が変わる。1980年までは衆院とほとんど同じような政党数だったが、82年にそれまでの全国区に代わり拘束名簿式の比例代表制が導入されると政党数が一気に11に増えた。以後、参院選では特定の政策課題(シングル・イッシュー)を掲げる小党が生まれては消え、政党数は多い時で13を数えた。つまり衆参両院とも選挙制度に比例代表制が導入されてから新党が増えていることがわかる。

 小党増加の理由をいくつかあげてみる。

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