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韓国次期大統領・朴槿恵の「絶望と希望」――父娘2代の物語

小北清人 朝日新聞湘南支局長

 60歳。未婚。選挙にめっぽう強いことから、人呼んで「選挙の女王」――。

 12月19日に投開票された韓国大統領選で当選した、保守系与党セヌリ党の朴槿恵(パク・クネ)氏の横顔です。翌20日朝、彼女はソウルの国立墓地にある両親の墓に当選を報告、静かに黙とうをささげました。

ともに殺害された父母が埋葬されているソウルの国立墓地「顕忠院」で大統領選当選を報告する朴槿恵氏=2012年12月20日

 国立墓地は、わたしもたびたび訪れたことがあり、そのたびに心洗われる思いがする場所ですが、彼女の両親、故朴正煕(パク・チョンヒ)大統領夫妻の墓には人が絶えることがありません。土まんじゅうが2つ並んでいるような大きな墓の前に立っていると、気が付けば、後ろに誰かしら新たな参拝者が現れるのです。

 陸軍少将だった1961年5月に軍事クーデターで政権を掌握、63年の選挙で大統領に当選した朴正煕氏。彼は朝鮮半島が日本の植民地化にあった戦前、満州国軍官学校で学び、成績優秀のため日本の陸軍士官学校に進んだ人です。戦後、新設の韓国軍に入り、朝鮮戦争では情報将校として北朝鮮と戦いました。政権奪取から18年にわたり国を統治し、世界最貧国だった韓国を高度成長に導き、「祖国近代化の父」と呼ばれています。

 クーデター直後に来日した朴氏が、岸信介元首相(戦前の満州国の設計者とされる人物です)らと会い、

 「自分は明治維新の志士のつもりで頑張るつもりだ」

 と発言したことはよく知られています。朴大統領はその言葉通り、「近代化」実現にまい進しました。いまの大韓民国の基礎を作ったのは彼といっていいでしょう。

 その長女が、こんど、父子二代で大統領になる朴槿恵さんです。

 わたしは、1999年11月、政界入りして間もない彼女にインタビューしたことがあります。日本外務省の招きで来日した彼女に京都のホテルで会いました。ちょうど故朴大統領の20回忌で、彼女は47歳でした。

 「私心を持たず、国の発展のために何としても目標を達成する。評価は後世に委ねる。これが父の信念でした。京釜(キョンブ)高速道路、浦項(ポハン)製鉄所(現ポスコ)の建設、日本との国交正常化、みな反対の渦の中で実現させたことです。父の信念を受け継いでいきたい」

 彼女は落ち着いた口調で、淡々と語りました。

 そして、父が死んでからの歳月を、こう振り返りました。

 「父のことが歪曲されて伝えられ、近くにいた人たちも弁護しようとしなかった。苦しく、つらく、生まれてこなければよかったと思いました。けれど長女の私が父の名誉を回復しない限り、死ぬに死ねないと決心したんです」

 彼女は両親を凶弾で亡くしています。母の陸英修(ユク・ヨンス)さんは1974年8月、日本の植民地時代からの解放を祝う式典中に撃たれました。北朝鮮の指令で、左傾した在日韓国人青年が大阪の派出所から短銃を盗み、別人の旅券で韓国に潜入、式典会場に潜り込み銃撃したのです(文世光=ムン・セグァン=事件)。

 フランスに留学していた槿恵さんは急ぎ帰国、母の血まみれの民族服を洗いました。彼女は母に代わりファースト・レディー役を務めることになります。

 その5年後、彼女はまたも血染めのネクタイとワイシャツを洗い、嗚咽します。今度は父の番でした。「文世光事件」を機に大統領府の警護室長が交代したのですが、新室長が専横に走り、KCIA(韓国中央情報部)部長との軋轢が激化。デモ取り締まりのやり方を巡り対立した末、憤激した情報部長が会食の席で朴大統領と警護室長を銃撃しました。「私は大丈夫だ……」と言い残して崩れ落ちた大統領の頭にも情報部長は銃撃を加え、大統領は絶命します。61歳でした。

 そのとき、槿恵さんは27歳。父の死を知らされ、

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