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古代ペルシアのキュロス大王は、イスラエルのイラン攻撃を防ぐか

高橋和夫 放送大学教養学部教授(国際政治)

 2013年、大英博物館が所蔵しているキュロス大王の円筒印章がアメリカに貸し出される。3月から12月にかけて、ワシントン、ニューヨーク、ヒューストン、サンフランシスコ、ロサンジェルスの5都市で展示される。この円筒章は、2010年から2011年にかけてイランに貸し出され、100万人以上の観客を集めた。現在はオリジナルを大英博物館が所蔵し、コピーがニューヨークの国連本部に展示されている。そのオリジナルが大西洋を渡る予定だ。

キュロス大王の教えを刻んだ円筒章=2011年1月、イラン・テヘラン

 このキュロスの円筒章とは何だろうか。それを語るには、時間を2500年以上も遡(さかのぼ)る必要がある。紀元前6世紀の新バビロニア王国(前625年~前539年)のネブカドネザル2世(前605年~562年)が、エルサレムを攻略し住民をバビロンへと強制移住させた。紀元前586年のことであった。

 ユダヤ教の聖書(旧約聖書)、詩篇の137篇の第1節は語る。「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」(『聖書(口語訳)』(日本聖書協会、1992年、878ページ)。

 そして、ユダヤ教徒の囚われていたバビロンを、紀元前539年に、アケメネス朝ペルシア帝国の創始者のキュロス大王が攻略した。そして、その翌年、バビロンで囚われていたユダヤ人たちを解放した。

 この解放に関しては、「旧約聖書」が証言している。日本聖書協会の『聖書(口語訳)』(1992年出版)から、もう一度引用しておこう。

 「ペルシア王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である」(「エズラ記」第1章第2~3節、651ページ)

 クロスとはキュロスのことである。古代の言語の研究が進み、どうも古代のペルシア人はキュロスではなく、クロシュと発音していたと研究者たちは考えるようになった。聖書のクロスとの訳語は、こうした最新の言語学研究の成果を踏まえたものであろう。ここではキュロスというよく知られた名前を使おう。

 計算してみるとネブカドネザルのエルサレム攻略から、キュロスのバビロン攻略の翌年までの期間は48年間である。この期間がバビロン捕囚として知られる。

 さて聖書の記述を裏付ける発見が1879年にあった。バビロン陥落の翌年、つまり前538年に作られた円筒印章が発見された。これはキュロス円筒印章として知られる。ユダヤ教徒への直接の言及はないものの、人々の信仰の自由を保証する内容のキュロスの勅令(王様の命令)が刻まれている。これが、世界最初の人権に関する宣言として知られる。

 この円筒印章を根拠に、イラン人は、自由と人権を重んじる概念を生んだのは自分たちの祖先であると主張する。自由という概念は、古代ギリシアの都市で花開いたとされる。しかし、それは奴隷制度の上に立脚した一部の市民による民主主義であり自由にすぎなかった。古代アケメネス朝ペルシア帝国は、より多くの人々に信仰の自由を保証していた。キュロスの円筒印章は、現代のイラン人の自負と誇りの根源の一つである。

 キュロスの勅令を受け、多くのユダヤ教徒が帰郷し、エルサレムの神殿を再建した。しかし、同時に帰郷しなかったユダヤ教徒も多かった。当時の世界最大の都市の一つであったバビロンの魅力は強い磁力で人々を引き付けたであろう。バビロンはパレスチナと並ぶユダヤ教徒の生活の中心であり、したがってユダヤ教の歴史では大きな役割を果たした。

 その後、バビロンが廃れ、メソポタミアの中心としてバグダッドが発展する。ユダヤ教徒たちはバクダッドに移り、ここでも繁栄を楽しんだ。20世紀に入りイスラエルが成立するまでは、この地のユダヤ教徒はイスラム教徒やキリスト教徒と平和に共存していた。20世紀初めのバクダッドの人口の3分の1はユダヤ教徒であったと考えられている。今となっては、想像するのも困難な事実である。

 このキュロスの下でアケメネス朝という広大な帝国を建設した人々はペルシア人であり、現在のイラン人は、その子孫を自認している。現在の地名で言えば、エジプトからパキスタンを支配した空前の大帝国であった。

 これほどの帝国の建設と保持を可能にしたのは、同帝国支配下の人々の信仰と財産と生活を保証したからであった。それまでのオリエントの支配者たちは、被支配者を虐殺し奴隷化した。そのため人々は必死になって抵抗し、征服されても反乱を繰り返した。帝国はできたが、ある程度よりは大きくならなかった。また長続きしなかった。

 それに比べると、キュロスの統治の手法は際立っている。キュロスは、支配下の人々の信仰には介入しなかった。税金を払い兵士さえ供給すれば諸国の自治を認めた。この信仰と安全を保証するという寛容な政策は革命的でさえあった。諸国は、巨大なペルシア帝国と戦うよりも、その支配下に入り安全と繁栄を享受する方を選んだ。

 商人にとっては、巨大なマーケットへの参入は途方もない魅力であったろう。ペルシア人たちは、駅伝制度や銀行制度の原型とも言える貿易のインフラを整備して、帝国全土に繁栄をもたらした。

 ペルシア帝国の拡大は、その強大な軍事力ばかりでなく巧みな人道的な統治の成果であった。まさにキュロスは中東の政治に革命をもたらした。人々の宗教への寛容と包容というのは、後にイスラム帝国の支配者たちが引き継ぐ政策であった。なぜならば、これこそが巨大な帝国に多種多様な人々をつなぎとめておく唯一の現実的な政策であるからだ。キュロスが大王として記憶されるゆえんである。

 ちなみにイラクという国家が成立したのは第一次世界大戦後である。この国をデッチあげたのはイギリス帝国主義である。このイラクという国には、生い立ちの人工臭が、いまだに付きまとっている。サダム・フセインは古代のバビロニアの帝王の後継者を自認して考古学を政治に利用した。しかし、それはイラクという国の歴史の頼りなさの裏返しの心理的な反映であった。

 さて1948年にイスラエルが成立すると、ユダヤ教徒がそのイラクから移民した。イスラエルには数十万のイラク系の市民がいる。逆にイラクのユダヤ人社会は、ほぼ消滅した。

 しかし消滅前のバグダッドのユダヤ教徒の一部はインドのムンバイへ拠点を移し、ここからイギリス帝国主義の拡大に乗じて中国へと進出した。上海に拠点を置き、財を成したサッスーン(沙遜家族)一族などがよく知られている。上海には今でもサッスーン一族の建設した巨大な和平飯店(サッスーン・ハウス)が現存している。2010年の上海万博に備えて内装が改められ、現在は北米資本のフェアモント・ホテルが経営している。

 また同じくバグダッドにルーツを持つユダヤ教徒で、最初はサッスーンの下で働き、それ以上の経済的な成功を収めたカドーリ一族(嘉道理家族)もいる。カドーリ一族は、香港の豪華ホテルであるペニンシュラホテル(半島酒店)の経営で知られる。21世紀に入ってからは東京の有楽町にも

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