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100万人、10万人、10人――アルジェリアでのテロからひと月

高橋和夫 放送大学教養学部教授(国際政治)

 アルジェリアで日本人10名が殺害された痛ましい事件から1か月が過ぎた。少し落ち着いて、状況を振り返ってもよい頃であろうか。

 アルジェリアの現代史は痛ましい。1950年代から1962年まで戦われた独立戦争では、100万人がフランスに殺害された。アルジェリア人は殺されても殺されても戦い続け、ついに独立を達成した。独立当時の人口が1000万程度であるから、人口の1割を失った計算になる。その犠牲の凄まじさが想像できる。

 独立闘争を指導したFLN(民族解放戦線)は独立後には権力を独占した。しかし権力の独占は腐敗を生みがちである。勇敢に民族解放闘争を戦った組織が、人々が、自然現象でもあるかのように、腐敗していく。中国の共産党が、ベトナムの共産党が、そうした例である。アルジェリアも例外ではなかった。それでもアルジェリアの経済は、何とか回っていた。石油と天然ガス資源に恵まれていたからである。

 ところが1980年代に石油価格が急落した。背景にあったのは世界的な景気の後退であった。いずれにしろ、エネルギー収入に依存するアルジェリア経済を震撼させた。

 外貨準備の不足に直面した政府は、緊急輸入制限を実施した。これが、庶民の生活を直撃した。貧しい人たちは食糧の入手にさえ苦しむようになった。生活苦に、そして政権の腐敗に怒った庶民が立ち上がった。1988年、アルジェリアの主要都市で暴動が発生し、FLNの事務所などが襲われた。

 政府は改革を約束し、民主化を進めた。そして自由な選挙がアルジェリアで行われるようになった。まず1990年の地方選挙でFLNが惨敗し、イスラム政党が躍進した。そして国政レベルの選挙でもイスラム政党の圧勝が予測されていた。アラブの春は、チュニジアで始まる20年も前に隣国のアルジェリアに来ていた。

 しかし20年後のチュニジアやエジプトと違うのは、軍の動きであった。この段階で軍がクーデターを起こし選挙を中止して実権を掌握した。1992年のことである。

 しかも欧米の民主主義国家は、こぞってアルジェリアの軍事政権を支持した。日本も、その軍事政権支持者の長い列に加わった。民主主義は良いがイスラム政党が勝つのは受け入れないという一貫性を欠いた不思議な議論がまかり通った。

 今度はイスラム主義者たちは政治闘争から武装闘争へと方法を変えた。アルジェリアは以降10年に及ぶ血みどろの内戦に突入することになる。この内戦で10万人が倒れた。

 21世紀に入るころには、内戦に疲れた国民は安定を求め、情勢はようやく沈静化へと向かい始めた。石油とガス価格の上昇がアルジェリア経済への追い風となったのも幸いした。

 しかし、武装闘争を

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