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[5]日本はアメリカから離れろ

オリバー・ストーンのメッセージ

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

オリバー・ストーンに群がらないで

 映画監督のオリバー・ストーンと歴史学者のピーター・カズニック、それにカナダ在住のノリマツ・サトコ氏らの一行が沖縄入りしたのに合わせて、僕も夏休みを切り上げて那覇に向かった。彼らの沖縄での動きを取材するためだ。

 案の定、それまでの広島→長崎→東京(実はそれ以前に韓国の済州島訪問があった)の超過密スケジュールで彼らは疲れ切っていた。広島、長崎ほどではないにせよ、たくさんの報道陣(ビデオやスチールカメラ、リポーターら)に包囲されながら移動する様子は、まるでハリウッドスターに群がるパパラッチの構図そのものだった。

来日中のオリバー・ストーン氏は常に報道陣に囲まれた=撮影・筆者来日中のオリバー・ストーン氏は常に報道陣に囲まれた=撮影・筆者
 そして僕自身もその一人であったのだ。

 僕は曖昧なスマイルを顔に貼り付けながら、オリバーに「僕らはパパラッチにはなりたくないんです」と言い訳のような言葉を投げていたのだが、気がつくと僕の傍らで等距離を保っていたはずのカメラマンは、カメラの接近戦に加わっていた。あの状況ではカメラマンはそうなってしまう。

 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は僕の好きな作品のひとつだ。

 あれは実質タランティーノの作品だと言う人もいるが、僕はそうは思わない。『サルバドル』と通底するメイン・ストリーム・メディアへの批判的認識があるからだが、それが最新の長編ドキュメンタリー『もうひとつのアメリカ史』にもつながっている。

 彼らは那覇空港からすぐさま沖縄国際大学へと向かった。ちょうど9年前のその日、米軍ヘリが墜落炎上したその場所である。折しもキャンパスでは事件を風化させないという趣旨の集会が開かれていた。

 オリバーは不機嫌そうだった。ちょっとだけ言葉を交わした。「あのシルバー・グレイの髪の男性は覚えているよ。5年前に亡くなったんだってね。残念なことだ」。オリバーは故・筑紫哲也のことを覚えていた。何度かインタビュー番組がつくられていたし。

 続いて一行は普天間基地の野嵩ゲートに向かうことになっていた。僕らは先回りしてゲート付近で待機していたのだが、なかなかやって来ない。ゲート前では少数のアクティヴィストたちが「米軍は沖縄から出ていけ!」とハンドマイクで叫んでいた。

 このゲート前には先の参院選挙の投開票日の夜に抜き打ちでフェンスが増設されていた。とにかくわずか6~7人の一団に対して、みるみる沖縄県警の警備の陣容が膨らんでくるのだった。40人くらいになったか。誰の指令なのだろうか。取材を続ける、というより、オリバー一行を待ちかまえている僕ら報道陣に対しても、道路(公道)上で立ち止まるな、この線から内側に入るな、と色々と注文をつけてくる。よく見ると、僕らの息子世代のような幼さの残っている顔立ちの若い警官である。

 いつまでたってもオリバー一行が来ないので、ここでの撮影は仲間の琉球放送に任せて、僕らは次の訪問先、佐喜眞美術館へと向かう。

 佐喜眞美術館には僕自身も特別の思いがあった。丸木位里・俊の「沖縄戦の図」が常設展示されている。その日のために石内都の「ひろしま」の写真作品も展示されていた。福島の原発被災地の写真もあった。

 館長の佐喜眞道夫さんはオリバー一行にじっくりと鑑賞してもらいたいと導線まで考えていた。訪れたオリバー一行はさすがにこれらの作品群には立ち止まらざるを得なかった。特に「沖縄戦の図」の前では立ちすくんでいた。

 沈黙の時間を破ったのは、残念ながら、スチールカメラマンが作品とオリバーの間に入って来て、フラッシュをたいて写真をバシャバシャ撮り始めたことにもよる。僕は何だか出来たばかりの瘡蓋が剥がされるような思いがしたが、これもまた僕らの現実なのだ。

 琉舞や沖縄民謡による歓迎のもてなしもあった。自然な笑顔が浮かんでいた。会場で開かれたレセプションには僕の見知った人々の顔がたくさんあった。沖縄での招聘先である琉球新報の松元剛さんは本当に大変だったろうと思う。あれだけの個性が強い監督のアテンドとなると本当に気苦労も多かっただろう。後日聞いた話では、沖縄訪問前では日本の懐石料理はほとんど受け付けなかったとか。けれども味の濃い沖縄の肉料理は口にあったようだ。

 翌日のオリバーの表情はかなり変わっていた。

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