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過信のあまり、妻・金慶喜氏と甥・金正恩氏の「猜疑心」を甘く見た――「聖骨」になれなかった張成澤

小北清人 朝日新聞湘南支局長

 少し足を引きずり、ひな壇の中央に座っていても、どこか虚ろな、表情の乏しさでした。まるで前夜の深酒で、二日酔いに苦しんでいるかのようでした。12月17日に平壌(ピョンヤン)で開かれた故・金正日(キム・ジョンイル)総書記の死去から2年の「追悼大会」に出席した金正恩(キム・ジョンウン)第1書記(30)の姿です。

 この日の北朝鮮はどこかおかしかった。北朝鮮メディアは、正恩氏が妻や幹部らを引き連れ、金正日氏の遺体が安置される「錦繍山(クムスサン)太陽宮殿」を参拝したと報じましたが、いつもなら参拝時間にも触れるのに、「17日」と伝えただけ。朝鮮半島では昔からの風習として、「死者の霊を呼び入れるため、命日の前日に祭祀を行う」ことになっています。北朝鮮でも同宮殿への参拝は深夜午前0時に行われるのがもっぱらでした。

 ところが今回、映像を見る限り、正恩氏らは17日の明るい時間に参拝しています。これはどう見てもおかしい。深夜に参拝できない何らかの事情があったのか?

 追悼大会のひな壇には、2012年12月の大会で見られた金王朝ロイヤルファミリーの「いつもの顔」がありませんでした。正恩氏の叔母、金慶喜(金敬姫、キム・ギョンヒ)書記と、その夫で党行政部長の張成澤(チャン・ソンテク)氏です。

 5日前に「天下の大逆人」として処刑された張氏。約40年にわたり権力のそばにいた彼の不在は、いまだ血なまぐささが残る平壌の粛清事件を思い起こさせるものでした。

2013年12月16日、平壌の錦繍山太陽宮殿広場で開かれた金正恩・第1書記を「決死擁護」することを誓う朝鮮人民軍将兵の集会。朝鮮中央通信が配信した2013年12月16日、平壌の錦繍山太陽宮殿広場で開かれた金正恩・第1書記を「決死擁護」することを誓う朝鮮人民軍将兵の集会。朝鮮中央通信が配信した
 金慶喜氏は数日前に死去した老幹部の葬儀委員会名簿の6番目に名前があり、政治的に健在であることがわかっています。この日の不在は、追悼大会に出られないほど持病が悪化したか、張氏の粛清で自分に向けられる「好奇の目」を意識し、出席を自粛したものとみられます。

 「正恩体制の後見人」「政権ナンバーツー」と呼ばれた張成澤氏の粛清は、「恐怖政治の代表格」北朝鮮の怖さを改めて思い知らせるものでした。

 12月8日の朝鮮労働党拡大会議で「反党・反革命の宗派(派閥形成)行為を犯した革命の敵」と弾劾された末に逮捕・連行、そのわずか4日後に死刑判決が言い渡され執行。連行の瞬間や、手錠をかけられ軍事裁判の場に引き出される写真まで公開されました。

 ある脱北者はこういいました。

 「一生出られない政治犯収容所に送られれば、生殺しも同然だ。あそこは生き地獄だからね。それならむしろ、一度に息の根を止められた方が、本人には幸せだったかもしれないよ」

 北で生きた人でしか言えない、怖い言葉です。

 北朝鮮で放映される記録映画から張氏の姿は編集で消され、ネットの北朝鮮メディアのホームページからは張氏についての記事が次々消されています。彼は「北朝鮮に存在しなかった人間」にされようとしています。

 一方、北京や瀋陽からは、北朝鮮の貿易会社や食堂の関係者が次々と本国に戻されています。北京の北朝鮮大使館を拠点に日本のビジネスマンと接触していた「李応哲(リ・ウンチョル)」という幹部(日朝関係者の間では知る人ぞ知る存在です)がいますが、彼も平壌に召喚されました。当局による査問と調査の範囲はかつてない規模になるとみられます。

 ですが、叔父を血祭りにあげ、さらし者にした金正恩氏とすれば、

 「どうだ俺はすごいだろう。若いからといって俺を見くびるんじゃない」

 と己の絶対権力を大声で内外に誇示したい気持ちなのかもしれません。張氏処刑の残虐さが国際的にどう見られているか、彼はよくわかっていないようです。

 張氏粛清は、故・金正日総書記の追悼期間中に起きました。北は2012年の追悼期間ではミサイル発射を強行しています。「亡き将軍さまへの貢ぎ物」。おそらく北は、あえて12月の追悼期間に照準を合わせ、粛清劇を演出したのでしょう。「革命の敵から金王朝を守った偉大な正恩同志。亡き父のため、これほどの親孝行を果たした息子がこの世のどこにいようか」という扇動ロジック。

 不穏な予兆はありました。この10月に訪朝した在日関係者らに、北の当局者らが、

 「張成澤が金正恩元帥さまに、もっと高い地位が欲しいと要求したが、断られた」

 と話したというのです。

 内容も内容ですが、異様なのは張氏が「張成澤」と敬称抜きで呼び捨てされていたことです。「政権ナンバーツーでロイヤルファミリーの一員」の張氏を、呼び捨てなど普通なら恐ろしくてとても言えるものではない。しかも一人だけでなく末端幹部まで「あいつはもう終わりだ」と吐き捨てるような調子で口にしたというのですから。

 「ひょっとして……と思いつつも、あの張氏にまさか……何か起きるなど、とても信じられなかった」

 と在日関係者は言います。

 正恩体制における「後見人」張氏の存在は、それだけ大きなものでした。

北京を訪れたときの張成沢・朝鮮労働党行政部長(当時。右から2人目)=2012年8月13日、北京空港 北京を訪れたときの張成沢・朝鮮労働党行政部長(当時。右から2人目)=2012年8月13日、北京空港
 張成澤氏は1946年、清津(チョンジン)生まれ。金日成(キム・イルソン)総合大学卒業後、党活動に入り、金正日氏の側近として、特に経済分野で長く活動しました。

 とりわけ注目されたのは、2011年12月の金正日総書記の死後、スタートした金正恩体制での実力者ぶりです。党行政部長、党政治局員、国防委員会副委員長など8つの要職を兼ね、絶大な権限をふるいました。

 「改革開放派」筆頭とも呼ばれ、中国と太いパイプを持つことでも知られました。2012年8月に正恩氏の「名代」として訪中したときは胡錦濤主席、温家宝首相(いずれも当時)と相次いで会談、国賓待遇を受けています。

 その張氏がなぜ67歳で「大逆罪」で処刑されるに至ったのか。いまだ謎は多いのですが、かつて張氏のもとで北の工作活動にも従事し、いまも北の内部事情をよく知る元幹部A氏はこう指摘します。

 「妻の金慶喜氏が

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