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「元老」連合は、危機から国家を救えるか(下) ――――都知事選から「新しい日本」へ

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

そもそも東京オリンピック開催は可能だろうか?

 筆者は、前稿(「東京オリンピック開催に見る日本の戦前と戦後――靖国参拝と国際的孤立」)では東京オリンピック開催について、戦前の幻のオリンピックをあげて、今もその危険がないわけではないことを指摘した。

 仮に近隣諸国との武力衝突が2020年までに起こってしまえば、オリンピック開催が困難になってしまう。開催自体はできたとしても、1980年のモスクワオリンピックで、ソ連のアフガニスタン侵攻に対してアメリカや日本をはじめ50ヶ国近くの国が参加をボイコットしたように、東京オリンピックで中国ないし韓国などが参加を辞退する可能性もありえないではないだろう。

開明的「元老」の登場――党派を超えた連合

 このように「戦前」と今の類似性を考えると、にわかに政治の前面に再登場した細川氏や小泉氏の姿は、戦前における親欧米的・開明的な「元老」を思い出させる。ファシズムへの潮流が現れて政権を窺(うかが)い始めたころ、その権力掌握をしばらくの間押しとどめたのは、当時の唯一の元老・西園寺公望だった。

西園寺公望西園寺公望
 西園寺は、名家出身ながら欧米的な開明派の立場をとり、立憲政友会の総裁となって桂園時代において政権を2回担当した。その後は、静岡県興津の坐漁荘などで隠遁生活を送りつつも、「最後の元老」として政権誕生の鍵を握り、政党内閣の成立に寄与した。

 そこで、軍ファシズムが勃興したとき、そのような勢力に大命を降下させて政権を組織させることをよしとせず、そのような政権の成立を遅らせた。張作霖爆殺事件(1936年)についての処罰にあたって、時の田中義一首相を叱責し、5・15事件や2・26事件の後なども、なるべく穏健な首相が誕生するように尽力した。

 ただ、西園寺の努力も時流を逆転させることはできず、後継者として望みを託した近衛文麿は首相として日中戦争を止めることができなかった。それに失望した西園寺は、反対を続けた日独伊三国同盟成立直後の1940年に没し、その後、日本は一直線に戦争に突入していったのである。

 細川氏は肥後細川家という血筋であり、この開明的元老にたとえることができるような風格を持つ。しかも、西園寺が政党内閣実現への過程で大きな役割を果たしたように、かつて自民党政権を崩壊させて細川連立内閣を形成し、小選挙区制中心の政治改革を実現した。

 その意味において、現在の選挙制度や政治システムへの変革をおこなった責任者でもある。

 首相辞任の後、細川氏は政界を離れて陶芸家となっていた。これも、西園寺のような元老が政界を退いた後で隠居生活を送ったのと似ている。しかし、ただならぬ今日の時局を見て危機感を持ち、自ら出馬する決断をしたのであろう。田母神氏は元自衛官なので、戦前とのアナロジーは、よりリアリティを帯びるように思われる。

 小泉氏と細川氏は、もちろん首相時には政党が異なっており、かつては対立していた。それにもかかわらず、引退後に党派的対立を超えて動くのは、まさに「元老」の特色であろう。

 西園寺も、立憲政友会からの首相になったわけであるが、元老となってからは、政党を超えて国家のために政治に関わったのである。同じように、細川氏も小泉氏も、かつての党派を超えて、日本のために「元老」として連合することにしたのであろう。

 小泉氏といい、細川氏といい、首相経験者なので自民党や安倍首相といえども一目置かざるを得ないだろう。そのような人々があえて発言したり都知事選に出馬したりして、日本政治に一石を投じなければならなくなるほど、現在の日本政治には危機が進行しているのである。

 このような問題提起は、上述のような政治状況において価値が大きいと思われる。しかし、「元老」は

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