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人生も政治も変える「対話力」――都知事選にみる「対話的民主主義」

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

「対話」と「会話」の違い

 筆者は、最近、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)を刊行した。筆者は対話型講義の定着と発展に向けて努力してきたが、その過程で、今の日本人には対話の場が乏しく、良い対話の経験が少ない人が多いことに気づいた。これは人びとの孤立・孤独を招き、様々な心の病や無縁社会をはじめとする社会問題も招いている。また、対話の必要性に気づいても、対話とディベートはやり方や効果が全く違うにもかかわらず、混同している方も少なくない。

 そこで、対話型講義だけではなく、対話一般についてもその思想や技術(アート)を説明し、人びとが対話力を身に付けて幸福な人生を送り、仕事を発展させることができるようにしたいと思ったのである。

 そもそも、「対話」とは何だろうか? 一般には「対話」と「会話」は区別されずに用いられているが、思想的にはこの2つを区別した方がいいだろう。多くの日常のコミュニケーションでは、相手と世界観・人生観が異なったり、様々な意見の対立が存在しても、それらに深くは立ち入らず、いわばそのような相違は脇に置いて話を進めることが多い。これが「会話」であり、このような会話や雑談は、円滑な生活を送る上で不可欠である。

 これに対して、「対話」では、価値観・世界観などの相違や、意見の対立があることを認めた上で、正面から話し、それらに関するお互いの考え方が深まることを目指す。

 「会話」「雑談」と違って、「対話」とは他者との深いコミュニケーションを目指すものである。だから、対話により自分とは異なる他者の思考に接することで、私たちは改めて深く相手を理解して、自分の考え方を深めることができ、人格的な発展を行うことが可能になるのである。

 人生においては、家庭のようなプライベートな場で「対話」は重要だし、仕事の場でも「対話」は取引を成功させたりイノベーションを可能にするために必要不可欠な役割を果たす。これらの場では、しばしば「会話」と「対話」とは相互に入れ替わるので、機会を逃さずに「対話」を試みることによって、他者とのめぐりあいを生かし、幸福や成功の鍵を手にすることができる。

 具体的には対話力は、聴く力・傾聴する力、思考する力・応答する力、話す力・語る力、振り返る力などからなる。恋愛・家庭などのプライベートな生活でも、このような対話力は大きな意味を持つし、教師、ジャーナリスト、アナウンサー、カウンセラー、医師、弁護士、政治家などのような、いわば「対話のプロ」から、私たちは対話力を学ぶことができる。

 このような対話についての考え方は、ソクラテス以来の「対話の哲学」に立脚しており、今日の政治哲学ではサンデルらのコミュニタリアニズムの考え方と関連する。コミュニタリアニズムでは、文化が異なる人びとの間でも、対話によってお互いを深く理解することにより、お互いを承認して、共に生きていくことを目指すのである。

政治における闘争的ディベートと対話

 対話は、もちろん政治においても民主主義の質を高めるために決定的に重要である。プラトンが「弁論術」を批判して「対話法」を提起したように、「雄弁術」や「闘争的ディベート」と本来の「対話術」とは思想的にも実践的にも異なるのである。

 「朝まで生テレビ」が大きな反響を呼び、政治に新風を吹き入れたように思えた時期があった。思えば、現在、都知事選に出馬している舛添要一氏も、「朝まで生テレビ」によく出演していた。自民党政治が続いた55年体制では、親分―子分関係に基づく利益誘導政治が跋扈し、政治において議論が重要な役割を帯びていなかったから、このような形であっても、テレビで政治家たちも加わって熱気を帯びた議論をするのは新鮮だった。

 このような新しい流れは、自民党の一党優位体制に一度は終止符を打ち、政権交代を実現させたとも言えよう。民主党や様々な新党の政治家たちの中には、このような闘争的議論において頭角を現した人も少なくはない。

 しかし、民主党政権が崩壊し、自民党政治に戻った今、「朝まで生テレビ」におけるバトルのような闘争的議論には人びとはあまり惹きつけられていないように思える。思うに、あのような闘争的議論が長時間にわたると、見ている方はとても疲れてしまい、その割に実りが少ないように感じられるようになったからであろう。

 「対話力」という観点からすれば、ここには重要な真理が存在する。

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