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[5]持っているのに使えない権利

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

未来の中東戦争、そして東アジア戦争に日本は参戦するのか?

 具体例を考えてみよう。安倍晋三首相は、当初の会見(5月15日)では、日本人の母子らが乗った米艦船のパネルを示して、自衛隊は守ることができないから主に日本人を守るために集団的自衛権の行使が必要だ、と強調した。そして、政府としては限定的な集団的自衛権行使を検討するとした。

 しかし、国会での初の議論(5月29日)で安倍首相は、朝鮮半島有事の際に日本人が乗っていなくともアメリカの艦船を守ることや、米国以外の艦船も自衛隊が守ることはありうる、とした。さらに、地理的にも、自衛隊を中東・ペルシャ湾岸のホルムズ海峡に機雷除去やタンカーのために派遣することを想定している、と明言した。

 つまり、安保法制懇の報告書で主張されているように、地理的にも限定はなく、「地球の裏側」でも自衛隊を派遣する可能性はあるということである。

 仮にアメリカが撤退した後に、イラクやアフガニスタンで強硬な反米政権が成立し、逆にアメリカでも9・11後のネオコンのような考え方に基づく好戦的政権が成立したとしよう。この時、何らかの偶発的衝突事件をきっかけに、その反米政権がホルムズ湾でアメリカのタンカーや日本人を乗せたアメリカ艦船を攻撃したと仮定しよう。

 その偶発的衝突事件はアメリカから引き起こしたという疑いが起こって、国連では有効な決議が行えないとしよう。その場合でもアメリカは軍事力で反撃しようとし、同盟国である日本にも軍事的な加勢を求めてきたとする。時の日本政府はそれに応えて、上記の諸条件を満たしていると考え、自衛隊による集団的自衛権行使を決断する、としよう。

 この時、その反米政権は日本を攻撃しているわけではないのに、日本から先に、その国家に対して、宣戦布告なしに戦闘行為を開始することになる。その国家が自衛隊に反撃すれば、ここにその国家と日本との間に「戦争」が開始されるわけである。

 同じような仮定事例は、東アジアでも考えられるだろう。未来に中国や北朝鮮などの国家で、極端に好戦的な反米政権が成立し、アメリカでも軍事的志向の強いタカ派政権が成立したと仮定すれば、同じような事態は起こりうる。

 アメリカとそれらの国家の間で武力衝突が起これば、日本はそれらの国家から攻撃されていなくとも、アメリカの要請に応えて、集団的自衛権行使の要件が満たされていると判断して、自衛隊で武力行使を行うことがありうる。それに対して、その国家は反撃して実質的な「交戦状態」に入ることが論理的には起こりうるだろう。

 これは、宣戦布告なしに、日本が東アジアでその国との間で事実上の「戦争」を開始するということになる。ひとたびこのような戦闘を開始してしまえば、短期的には小戦争で収まったとしても、中長期的には再び大戦争に発展しないという保証はない。

 一般国民には、このような事態を望む人は多くはないだろう。逆に言えば、このような事態は憲法上禁じられていると考えられているからこそ、これまで日本政府は、集団的自衛権行使は憲法上、許されないと解釈してきたのである。次に、集団的自衛権に関するこの公定解釈を検討してみよう。

集団的自衛権に関する公定解釈

 政府の公定解釈は、個別的自衛権に限定して自衛力を認めるものだから、自衛隊は日本列島の防衛に目的を限定された「専守防衛」のための実力ということになっている。逆に言えば、日本が攻撃されていないのに、他国を防衛という大義名分のもとに攻撃するという「他衛」は憲法上、許されない、と斥けてきた。だからこそ、戦後の日本は、他国での戦争に本格的には参戦しなかったのである。

 このような公定解釈は1950年代から存在し、すでに1954年には自衛隊は集団的自衛権を行使できないと政府は答弁しており、前述のように1960年の安保改定時にも、岸内閣は他国での武力行使という意味における集団的自衛権の行使を否定した。そして、1972年には田中角栄内閣が社会党議員の質問に対して、次のような「資料」を提出してこの解釈は確定した。

 それによれば、主権国家である以上、国際法上、当然に日本も集団的自衛権を持っている。憲法も「自国の平和と安全を維持しその存立を全くするために必要な自衛の措置をとること」を禁じてはいない。

 しかし、平和主義を「基本原則とする」憲法は「自衛のための措置を無制限に認めている」わけではない。それは「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権限が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限の範囲にとどまるべきものである」。

 だから、憲法のもとで「武力行使が許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」としたのである。

 つまり、政府は、国際法上は日本も個別的自衛権・集団的自衛権を持っているが、平和憲法の制約により、個別的自衛権のみを行使することができ、集団的自衛権は行使することができない、とした。この公定解釈を「個別自衛権行使容認、集団的自衛権行使禁止」論と呼ぼう。そして、集団的自衛権に関しては、「国際法上は保有しているが、憲法上は行使できない」(国際法上保有、憲法上行使不可)というのである。

「持っているけれども使えない権利」という政治家たちの批判は正しいか

 「日本は集団的自衛権を持っているが、行使はできない」というこの論理は奇妙だとして批判されることがある。

 安倍首相自らがその著書で、「権利があっても行使できないーーそれは、財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての“禁治産者”の規定に似ている」とし、「権利を有していれば行使できると考える国際社会の通念のなかで、権利はあるが行使できない、とする論理が、はたしていつまで通用するだろうか」(『新しい国へーー美しい国へ 完全版』文春新書、2013年、136頁)と書いている。

 また、自民党幹事長・石破茂氏も、「『持っているけれども使えない権利』などというものが本当に存在するのだろうか」という批判をその著書であげている(『日本人のための「集団的自衛権」入門』、新潮新書、2014年、71-72頁)。

 しかし、このような政治家たちの批判は、

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