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こんなに日本を誉めていて大丈夫か?

愛国心は批判と不可分

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

 愛国心を喚起する教育、故郷の山河を愛する教育を叫ぶ声が高い。

 それに日本礼賛の新聞記事や書籍も氾濫している。温泉や海や山や谷。日本の味覚、日本人のやさしさ、治安のよさ、交通の便利さ……。

 でもこんなに手前味噌で誉めても大丈夫だろうか?

 手前味噌で行くと、簡便でおいしい食事が低賃金労働に支えられて手に入るコンビニも、絶望的低賃金にもかかわらず笑顔を絶やさない介護福祉の現場の方々も、その施設の所有者の巨大な収入も、コンクリートで固めた河も、駅前広場の空を縦横無尽に横切る電線も、2時間に1本しかない地方の鉄道も、地方と言えば地方都市のシャッター通りも、そのどれもが日本の、日本人の柔軟性と我慢強さのいいところなのだろう。

 原発難民に援助をケチるのも、本人たちの自立を考えた当局の思いやりのあらわれで、みんな日本のすばらしさらしい。

 かつては終身雇用制が日本的な良さとして賞賛され、現在では、硬直した制度の柔軟化が説かれているのは、ちょっと不思議だが、きっと両方とも日本のいいところなのだろう。

 飲み屋で、自分の健康法、自分の仕事の仕方、自分の商談術を自慢している、本当はかならずしも有能ではなさそうな部長さんに周囲が辟易しているのを見かけることがあるが、それと同じで自慢はあまりみっともいいものではない。

 特に思い込みのナルシシズムは、それこそ日本の「伝統」に合わない。思い込みで現実と願望を取り違えるのは、子供と官僚とかつての参謀本部の特性にとどめておきたい。

愛国心と「自由」「平等」「博愛」

 ところで、本題の愛国心だ。

 愛国心にも色々な意味があるが、近代的な愛国心のひとつの起源はフランス革命だ。王や貴族の支配を倒した市民たちが、「自由」「平等」「博愛」の標語に結集したときに「愛国心」という言葉が生まれた。

 つまり、王や貴族は国際的につながっている。ヨーロッパの王家や名門貴族の多くがおたがいに親戚だった時代だ。彼らは、自分たちの贅沢を守るために、それぞれの国民や領民から好き勝手に搾り取っていた。

 それに対して立ち上がった、それぞれの土地の人々、ようするに市民、そして庶民たちの意思表示が愛国心だった。ただ自分の生まれたところや国が好きというのとは、わけがちがう。批判の力でひとひねりしたものが愛国心なのだ。

 なによりも自由が、そして平等が中心だ。博愛というのは、現在ならば、福祉や年金などのさまざまな制度を通じた社会的な相互の連帯だ。

 とすると、今の日本は、当時の愛国者なら絶対に愛せないだろう。

 なによりも自由が乏しい。情報や報道の自由は、パリに本部のある「国境なき記者団」の発表によると2015年は61位で、韓国、香港とほぼ同じだ。日本のエリートが張り合いたがるヨーロッパの中心的な国々からかぎりなく離されている。

 2000年代は、常時ひと桁と上位にあったのに。秘密をもっていそうな人は愛せないのと同じに、こんな国は愛せないし、ヨーロッパの多くの人々からも好きになってもらえないだろう。

 平等もいささか問題だ。フランス革命のときにはとりあえずは身分制社会の撤廃、そして平等な権利が求められていた。だが、現在では機会の平等が重要だ。

 ところが現在の日本は、たしかに身分制はなくなったが、実質的には、親の職業や収入が決定的な格差を生んでいる。自由民主党の国会議員の3分の1は、世襲議員と言われている。これはもう身分制社会だ。封建時代の殿様の世襲と変わらない。「安倍長門守晋三」、「麻生筑前守太郎」と言った方がよさそうだ。

安倍晋三首相。左は麻生太郎財務相世襲の二人
 親から巨額の財力となによりも政治的資産を世襲している。専門家の議論では「再封建化」とも言われている。お武家様の社会だ。

 そういう位置から「誰でも努力すれば報われる社会」などと演説されても、「どこの星の話?」と思われてしまうだけだ。

 もちろん、かつてのように年貢の露骨な取り立てはない。「再封建化」ではもっと巧みに、領民の血税を還元させるシステムが発達している——たとえば有力領民は、賜った補助金の数パーセントを領主様に献金することもある。

 だがこの殿様たちは意外と気が弱く、「すまねえ、人生は生まれと運だ。我慢してくれ

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