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[8]戦況の悪化と旅行の奨励

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 石原巌徹はインフラの整備が必要と認識しており、それによって曲阜訪問がより簡便かつ快適になると考えていた。そのために交通機関や宿泊施設の充実を提案したのだった。

 かれの提案した割引旅行切符は、余暇旅行を促進するために、当時、旅行会社がよく用いた常套手段である。

 しかし、当時の旅行手段を知悉していた石原が、観光客がもっとも一般的に選択しやすい遊覧バスを考えていないのは不思議である。遊覧バスならば、ガイドがずっとバスに乗りつづける乗客に、各地の名所について、いとも簡単に、しばしばイデオロギー性に満ちた台本どおりの説明を吹きこむこともできたはずである。

曲阜の孔子の墓碑曲阜にある孔子の墓碑
 それはまた、乗客が家に持ち帰るメッセージを紡ぐうえでも、とりわけ効果的な方法だったにちがいない。

 石原はまた、おみやげを買わせるという、ごくふつうの動きとも一線を画している。

 曲阜訪問者に無料と思われる記念章を配ることで、かれは帝国のどこの史跡にも見られない気前のよさのほどを示そうとしている。

 聖蹟であろうがそうでなかろうが、人気のある名所では、さまざまなめずらしいおみやげが並んでいたけれど、手に入れるにはそれを買わなければならなかった。

 帝国全土の観光施設で旅行客が楽しみにしていたのが、記念スタンプを押すことだった。スタンプ自体はたいてい入り口のあたりに置かれており、だれかに押してもらうだけで、ただ同然といってよいものだった。

 観光客は小冊子や板、絵葉書(奉天の絵葉書に押されたスタンプは前掲の写真を参照)、購入した記念品などにスタンプを好きなように押してもらった。記念スタンプ用の記念品は、たいていさまざまな場所が挙げられ、テーマ別、地域別に分けられていて、旅行者にすべての場所を訪れて、全部のスタンプを集めるよう誘う仕掛けになっていた。

力の構造を正当化

 石原もまたどうすれば曲阜を会議や大会の場として活用できるかに苦慮していた。

 運動施設をつくれば、さまざまな競技が開かれて、野外にも大勢の人が集まってくれるかもしれない。ここで石原は、明治神宮外苑や奈良県の橿原神宮外苑(橿原神宮は、紀元前660年にここで即位したとされる神武天皇を祭っていた)のような施設を思い描いていたのかもしれない。

 橿原神宮とその外苑は、紀元二千六百年記念式典を前に厳かに拡張整備されていた。このふたつの神宮は、当時の歴史遺産の光景としては、かならず訪れるべき場所であって、ここではさまざまな会議や集会、体育祭などがおこなわれていたのである。

 石原の提案は、植民地当局者が通例とした介入をやめて、これらの史跡を地元大衆に向けた大々的な教育キャンペーンの場として活用するよう求めていた。

 にもかかわらず、歴史遺産の保全という基本分野においては、石原の計画は、帝国全体のパターンを踏襲している。日本の植民地当局者は、多かれ少なかれ現地に依存しながら、旧時代の遺跡を保存しつつも、自らの利益を忘れることはなかった。

 つまり、そのさいには、現存する力の構造を正当化するという文脈を構築することがつけ加わったのである。

 曲阜の史跡は、儒教にとっても東アジア文明の歴史にとっても大事な場所であり、紀元前660年から始まったとされる天皇家の歴史とも密接にからんで、とりわけ重要なものであることはまちがいないとされていた(石原自身ももちろんそう考えていた)。

 石原の提案に政府が反応したという形跡はどこにも見あたらないし、かれの論文を読んで、中国人であれ日本人であれ、大勢の観光客が曲阜を訪れる気になったという証拠もない。タイミングが実にまずかったのである。

 この論文が発表されたのは1942年5月で、太平洋戦争の重要な転機となったミッドウェー海戦のひと月前だった。こうした事態によって、日本軍が中国での泥沼の戦争から抜けだすことはますますむずかしくなり、中国戦線は膠着状態に陥ってしまうことになる。

孟子ゆかりの地を訪れる喜び

 1942年半ば、内地では日本人の観光旅行が急激に落ちこんでいった。しかし、10代の娘をつれて、孟子に関連する聖蹟を訪れた、ある日本人男性が1943年3月に短い旅行記を書いているのをみると、儒教の史跡の魅力は、日本人の中国専門家や、その近辺に駐留する兵士の枠にとどまっていたわけではないことをうかがわせる。

 さらにまた、戦争中も帝国の観光旅行が日本の内地の旅行よりも、ずっとあとまでつづいていたことを想起させる。

 野上増美は南満洲鉄道(満鉄)に勤務していた。したがって、かれが孟子の史跡を訪れた記事を『観光東亜』に掲載したのも、さほど驚きではない。

 野上は旅行記の最初に「聖地曲阜の存在は誰もが知る処であるが、聖地鄒県(すうけん)のある事を知る者は少ないようである」と書いている。

 曲阜を訪れるなかで、野上は孟子が生まれた鄒県を訪れる必要があると確信した。かれは曲阜と鄒県を伊勢神宮の内宮と外宮の関係になぞらえており、その点では石原の論文との親近性を示している。

 野上は中国人が儒教の理念を実現できなかったなどと非難しているわけではない。だいたいにおいて、かれが記したのは、学校で教えられた孟子にからむさまざまな逸話にちなむ場所を訪れたときの感動だった。

 野上はまた前もって何の連絡もしなかったのに、孟子74代目の末裔が自分を迎えてくれたことに驚いている。かれは74代目の秘書が、地元の日本軍当局者を賞賛して、日本軍はどんなことがあっても亜聖廟(孟子廟)や孟子の一族に危害を加えるようなぶしつけなことはしないと話したと記している。

 野上がこの話を書いたのは、「日本は正義の国です」という愛国的なレトリックを強調するところに話をもっていきたかったからである。こうした民族主義的な言及はともかくとして、野上の旅行記は、戦時下の日本で人びとがどれほどつらい目にあったかという通例の描写とは対照的に、日本人観光客が1943年に鄒県を訪れるのがどれほど喜びであったかを物語っている。

 帝国は場合によっては1943年後半にいたるまで、日本人にその方法、手段を含め、ほとんど限りない旅行の機会を与えた。しかし、戦時のそのころになると、観光旅行を勧める雑誌は、振り返ってみると、まるでファンタジーの様相を呈しはじめていたように思える。

 そもそも旅行雑誌の寄稿家が、帝国が崩壊の危機にあると感じていたとするなら、かれらが自分たちの書く文章に旅行できる機会をほのめかしたりはしなかっただろう(当時の検閲を考慮すると、わざとそうしていたとも考えられるが、そう疑うと、今日、なかには不信感なしには読めない文章もいくつかある)。

 たとえば、1943年4月号の『観光東亜』には伊藤長太郎の「共栄圏の厚生旅行」という一文が掲載されており、そこには驚くべきことに帝国全域にわたる4カ月の旅が提案されている。だが、当時、これを実際に完遂できた人などいるだろうか。

 ここで紹介された旅行には、フィリピン訪問も含まれている。フィリピンは1941年12月に太平洋戦争が開始されたあと、日本が管轄下においていた。旅は大連を出発して南京に戻るというもので、汽船汽車は1等、ホテルは一流の風呂付き一人部屋である。

 それはあたかも観光旅行界の面々が、状況の変化などお構いなしに、旅行奨励の義務を黙々と果たしつづけていたかのようにみえる。とはいえ、個人が余暇旅行を企画し、それを実行する機会は、そのとき、ますます失われようとしていたのである。  (訳・木村剛久

 本稿は2014年夏に国際日本文化研究センターから刊行された雑誌「Japan Review」27号に掲載されたケネス・ルオフ氏の論考、Kenneth Ruoff, Japanese Tourism to Mukden, Nanjing, and Qufu, 1938-1943 を著者の許可を得て訳出したものです。ページの都合上、<注>は割愛しました。原文、<注>および参考文献についてはhttp://shinku.nichibun.ac.jp/jpub/pdf/jr/JN2707.pdfをご覧ください。