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安保法で日本人は「一億総勉強社会」時代に入った

東郷和彦 京都産業大学教授・世界問題研究所長

今の時点で総括することが重要だ

 安保法制を承認した国会が終了し、問題は、「その先」になにが起きるかにかかってきた。安倍政権は早くも「一億総活躍社会」という経済と社会生活に重点を移した政権運営を図り始めたようである。

 しかし、昨年七月に安保政策の転換を図ることを閣議決定してから今国会で成立した諸法案と、これに反対する国民運動から、私たちはいかなる結論をひきだし、何を考えなくてはいけないのか、今の時点できちんと総括しておくことは、とても重要なことだと思う。

安保関連法案に反対する国会前での抗議集会では、多くの人が夜遅くまで声をからした=2015年9月18日

 私自身は、今回の安保法制改革を基本的に支持しており、これに従った政策がこれから取られていくことに賛成している。そうであればこそ、どうして反対運動がこれほど盛り上がったのか、法案の採択に相当数の国民から強い批判がでたのはなぜか、この批判のエネルギーを持ってこれから考えなければいけない真の問題は何か、是非考えておかなくてはいけないと思う。

 これほど強い批判がでた一つの大きな原因は、法案の構成が余りにも複雑で、何を決めたかが解らなくなってしまったことにあったと思う。少なくとも、2014年の閣議決定「国の存立を全うし、国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」では、三つの柱が明確にたっていた。

 第一は「武力攻撃に至らない侵害への対処」である。これは、武力攻撃を受けるには至らない事態でも海上保安庁と自衛隊が切れ目なく連携し、また、米軍に対する武力攻撃にいたらない侵害に対しても自衛隊が有効に協力していこうという話である。

 第二は「国際社会の平和と安定への一層の貢献」である。これは、国際連合の下で行われる自衛隊の後方支援の活動を一歩拡大し、(1)自衛隊が行動する「非戦闘地域」をあらかじめ固定するのではなく、「現に戦闘行為を行っている現場」ではない地域として、若干柔軟に考えることと、(2)いわゆる「駆けつけ警護」等の場合に武器使用の範囲を若干拡大しようというものだった。

 第三が「憲法9条の下で許容される自衛の措置」であり、これこそが、集団的自衛権の行使を条件付きで認めようとするものだった。

法案準備段階での国内外の重要な動き

 さて、この閣議決定を基礎に法案の準備をしていく中で国内的、対外的に重要な動きがあった。国内的には、15年3月20日の与党協議会で、「国際社会の平和と安全のために活動する他国軍隊への支援活動」(二本目の柱)に関して、これまでのように、アフガニスタンに派遣される部隊への後方支援「テロ特措法」(01年)とか、イラクにおける「復興支援法」(03年)とか、個別法によって対応するのではなく、いわゆる恒久法によって対応しようということが決められたのである。

 対外的には、15年4月27日に新しい「日米防衛協力のための指針」が採択された。前回の指針は97年に合意され、それを受けて日本では、安保条約の目的を実施するために活動する米軍に対する後方支援を規定する「周辺事態法」が99年に成立していた。今回の防衛協力の指針は、日米協力の範囲を地理的にも内容的にも拡大する部分があり、これへの対応の必要性が生じたのである。

 以上の経緯を踏まえて出来上がった法案は、10本の法律改正を一括した「平和安全法制整備法」(以下「整備法」)と一本の新規制定法案「国際支援法」(以下「支援法」)という二本の法案となった。

 私なりにこのわかりにくい内容を整理すれば、整備法第一条となった自衛隊法は、これらすべての修正をおりこんだ複合改正を行われることとなった。第二条の国際平和協力法は、第二の柱の相当部分をうけもつとともに、「支援法」とあいまって今後の国連平和協力の実施の要となることとなった。

 第三条は、旧防衛協力の指針に基づく「周辺事態法」を修正し、新防衛協力の指針に基づく「重要影響事態安全確保法」に変更するものとなった。そして、第五条から第九条までの五つの条文が、集団的自衛権の解釈変更によって生じる事態(「存立危機事態」という新しい定義が生み出された)への適応の必要性から主に改正される諸法律と言うこととなった。

日本は安全保障面で行う貢献と協力を「一歩」進めた

 相当の反対の国民運動はあっても、「整備法」と「支援法」の二本立てによる安保新法制はこれから実施の運びとなる。そういうものとして、私たちはこれに向かい合わねばならない。

 まず、この二本立ての法案の下で改正された事柄を二つの大きな流れに区別して考えることが必須だと思う。一つの流れは、国際社会の下で日本が安全保障の面で行う貢献と協力を「一歩」進めたということである。14年7月1日の第二の柱であり、「整備法」の第二条と「支援法」に最もよく体現される部分である。

 この流れは、冷戦の終了した直後におきた91年のサダムフセインのイラク攻撃に対して、自衛隊の派遣を一旦は企図しながら、国民の反発とそれを踏まえた野党の猛烈な反対にあい、外務省・防衛庁の考えた派遣法案が廃案となった挫折の経験に端を発する。

PKO自衛隊宿営地でポルトガルの隊員と話す自衛官=1993年、モザンビークPKO自衛隊宿営地でポルトガルの隊員と話す自衛官=1993年、モザンビーク

 国際的に日本が自己中・無責任国家として批判されたこの挫折への反省から、92年国連平和協力法(PKO法)が成立、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモールなど現在まで14の部隊が国連PKOとして活動することとなった。今回のPKO法の改正で、この法律の要となっていた「参加五原則」の中の武器使用の緩和などの拡大が決められたのである。

 この動きに、「テロ特措法」(01年)、及びイラク「復興支援法」(03年)という個別立法によって行われていた国際平和協力を、恒久法として実施していこうという「支援法」の流れが加わった。

 他方、新しく改組された「重要影響事態安全確保法」は、元来日米防衛協力の指針の実施の観点から考えるべきものである。この法律の元となった「周辺事態法」も「我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える『周辺事態』に対応し、日米安保条約の効果的な運用に寄与する」ためのものだった。新法の協力の目的も「日米安保条約の効果的な運用に寄与することを中核とする重要影響事態に対処する外国との連携を強化」となっている。

 しかしながら旧「周辺事態法」も新「重要影響事態法」もともに、対米協力は純粋に戦闘行動にいたらない後方支援等に限られており、従って、協力の中身は、地域については「非戦闘地域」、武器使用について若干の範囲の拡大がある等、国際平和協力のコンセプトの中で処理されている。新法は、米軍以外にも「国際連合憲章の目的の達成に寄与する活動を行う外国の軍隊」が支援対象となる等、むしろ国際平和協力の枠組みの中での協力としての特徴が強まっている。

湾岸危機の挫折後、形作られた流れの本質

 以上、91年の湾岸危機の挫折に端を発し、92年PKO法、99年「周辺事態法」、01年「テロ特措法」、03年「復興支援法」によって形作られた流れの本質は何か。

 それは、より効果的で責任ある国際平和協力の段階的な変化であり、この動きを、憲法違反、新たな戦争への不可避的巻き込まれと言う批判は当たらないと考える。あらたな活動の危険度がこれまでの活動に比べてより危険であるかどうかについては、活動の活発化には一定の危険性の増加は伴うとしても、それが過度な危険を伴わないように、これからの実施の段階でよくチェックすることが必要となる。

 もう一つの流れが、憲法第9条の解釈を変更し、集団的自衛権を日本が行使できるようにしたものである。

 集団的自衛権が行使可能となる「存立危機事態」とは、いわゆる「新三要件」たる「①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」が発生した事態をいう。

 前述の国際平和協力の活動内容が、段階的な行動範囲の拡大であったのに対し、この点は、今まで憲法9条の下で一度も唱えられたことのない新しい立場である。

集団的自衛権を行使可能にする解釈変更をなぜ行ったか

 そもそもなぜ集団的自衛権を行使可能にする解釈変更を行ったのか。

 話は60年の安保改定に遡る。

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