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[3]「韓国建国の前段階」をどうか解釈するか

ケネス・ルオフ ポートランド州立大学教授

 ここで取りあげている博物館のほとんどは、「韓国(朝鮮)」が過去のどの時期から現在にかけ、いかにしてつくられてきたかという物語を伝えている。歴史上のさまざまな点を線状に結びつける試みをいっそうむずかしくしているのは、現在、韓国と北朝鮮というふたつのコリアが存在しているからである。そのどちらの国も、朝鮮半島全体にわたる正統性を主張するために過去を引き合いに出している。

 独立記念館や戦争記念館、それに国立韓国中央博物館では、現代にいたる道のりとして、5000年を取りあげている。そのため、国の歴史としては、この5000年にわたり朝鮮半島で生じたすべての(有益な)歴史にとどまらず、中国東北部(満州)で起きた歴史までも含めなければならなくなっている。

 概して近代の国民国家は、「国史」や「国家遺産」を求めるために、時をさかのぼって、国民国家の発生を探ろうとするものである。こうした歴史の生じた場所は、現在の国境内部の場合もあるし(過去の遺跡や遺物の発見をともなう)、時には現在の国境外の場合もある(この場合も遺跡が発見される)。

許容される拡張的な帝国・高句麗

 5000年の歴史というさいには、高句麗(紀元前37—紀元668)の国土の広がりを称賛し、とりわけ好太王(373-413、在位391-413)をたたえる傾向がみられる。その面では、北朝鮮も韓国も変わりない。

戦争記念館戦争記念館で=撮影・筆者
 高句麗の領土が最大限に達したのは、好太王の時代であった。写真は戦争記念館に展示されている地図だが、これをみると、好太王の領土が現在の中国東北部、すなわち満州と呼ばれることもある地域にまで広がっていることがわかる。独立記念館の展示でも、高句麗は大きく取りあげられている。

 この2、30年、韓国、北朝鮮がともに中国に反発しているのは、中国が高句麗を中国史の一部ととらえ、高句麗を支配した民族が、これまで中国に属してきた少数民族のひとつにすぎないと主張しているからである。

 しかし、高句麗に関する韓国・北朝鮮側の主張という点では、別の意味で、きわだった皮肉が生じる。

 朝鮮を当然のように植民地としてきた近代の大日本帝国を糾弾するさい、韓国と北朝鮮は共同歩調をとってきた。しかし、はるか遠い古代の国とはいえ、高句麗自身も拡張的な帝国だったのである。

 戦争記念館は是が非でも近代の国民国家にいたる5000年の勇ましい伝統を展示するとともに、朝鮮が侵略的な近隣諸国から次々と受けた外的脅威を大きく取りあげている。

 しかし、戦争記念館のガイドブックは、高句麗の拡張主義的姿勢をむしろ誇っている。

 「好太王は百済を攻撃し、臨津江(イムジン川)の全域を占領し、契丹や後燕、靺鞨(まっかつ)、扶余を打ち砕き、遼東地域を含む満州の地域を手中に収めた」

 独立記念館も高句麗を国の誇りとして持ちあげ、そのガイドブックで、「高句麗は5世紀に広大な領土をゆるぎないものとし、勝者として(強調は筆者)東北アジアを支配した」と論じている。国家的な物語を語るにあたっては、同じ朝鮮人どうしなら、拡張的な帝国が別の種族を征服しても許容されるというわけだ。

 好太王の事績を記した石碑(現物は中国の吉林省集安にある)の複製は、韓国でも多くの公共の場で見ることができる。戦争記念館や独立記念館にも置かれている。ちなみに独立記念館には植民地時代の朝鮮総督府の残骸も飾られているが、総督府の建物は、韓国が外部の帝国によって支配された経験の痕跡を一掃するという公的な取り組みにより、1995年に取り壊された。

 それはともかく、韓国と北朝鮮がいっしょになって高句麗を持ちあげる運動を展開していることによって、北東アジアの発展に朝鮮人はさほど貢献していないと主張するのが、むずかしくなっていることはまちがいない。

 こうした言い方がされるようになったのは、日本の統治時代からで、それは日本人がみずからの支配を正当化するために、北東アジアにおける独立した主体であるはずの朝鮮の歴史的役割を過小評価したためである。しかし、高句麗の栄光をたたえながら、大日本帝国をののしるというのは、皮肉にも、それ自体が混乱した国家主義的な歴史的説明に陥ってしまっているといえるだろう。

「背景説明」としての1876年から1945年

 近現代史博物館の場合は、四つの展示室のうちの第一展示室が「韓国への前段階」にあてられており、その展示は1876年からはじまっている。この年を選んだことで、博物館は、過去と現在を無理やりつなぐ神学体系を確立する仕事から免れている。

 しかし、近代の解釈はいずれにせよ論議の的となるものである。第一展示室の標題にしても、1948年以前のすべての歴史は、韓国の成立に向けられたものであるかのように思わせる。実際、博物館の主張するところでは、韓国は、1919年に上海で設立され、日中戦争(1937-1945)時に重慶に移った大韓民国臨時政府の系譜を引くとされている。

 日本によって強要された江華島条約により、朝鮮王朝(1392-1897)が、外部、すなわち近代世界に港を開いたのは1876年のことである。2015年9月の展示で私を案内してくれた近現代史博物館の学芸員は、この博物館が一冊の本だとすれば、1876年から1945年までを扱った最初の展示室は、いわば背景説明の章にあたると話した。

 展示室の「作者」がそのさい、私を案内してくれたことは、ふつうの博物館見学者にくらべ、私の訪問を特別なものとみたからである。ほかの博物館と同様、近現代史博物館でも、展示自体に学芸員の関与は感じられず(「学芸員について」という紹介はないが、それはあってもおかしくない)、そのことが展示に客観性の雰囲気を与えている。

 近現代史博物館では、1876年から1945年の時期は、歴史の流れをつかむ必要上、取りあげられているけれど、博物館が主に焦点を合わせるのは解放後の韓国である。しかし、それ以前がどうであったかがわからなければ、解放後の韓国を理解することはできない。こうして、微妙な植民地時代を含む「韓国への前段階」を博物館がどう解釈しているかを、検討してみなくてはならなくなるのである。

 「韓国への前段階」で示されている説明の基本は、日本の植民地統治下の抑圧によって、韓国の自生的な近代化の芽がつぶされたというものである。この説明は、独立記念館でなされているものとほぼ同じである。

 戦争記念館はその性格上、19世紀後半から20世紀前半に韓国の近代化を担った人物についてはほとんど展示しておらず、それに代わって日本に抵抗した人物に力点が置かれている。たとえば海軍提督李舜臣(イ・スンシン)(1545-1598)が16世紀に侵略してきた日本軍を海戦で破ったとか、1932年に尹奉吉(ユン・ボンギル)が日本人の高官を何人か暗殺したといったように。

無視される植民地時代の発展ないし近代化

 近現代史博物館が、1876年にはじまり、日本が韓国を保護国とした1905年、さらには植民地とした1910年へといたる数十年間に生じた自生的な近代化の度合いをどの程度、記録しているかについても、あら探しをすることができるだろう。

 日本が正式に朝鮮統治をおこなう以前(しかし、他の列強と同じく、すでに強く干渉していたのだが)の時期、朝鮮社会は、伝統と近代化を支持する者、あるいはその両方の取り入れを支持する者(ただし、伝統と近代化の解釈には百人百様だった)とのあいだで、深く分断されていた。朝鮮のこの混乱期においては、国内のさまざまなグループが、影響力を行使するため、さまざまな外国勢力と連携していた。

 「大韓帝国近代化への努力」(1897年から朝鮮が主権を失うまでを扱っている)と題された短いビデオで提示された材料には、自生的に近代化につながっていく、たしかな方向性は見当たらなかった。同様に、日本が正式に干渉をはじまる前に自生的な近代化が起きていたという物語の組み立てもうまくできてはいない。

 最初の展示室で示されている伝え方には大きな問題がある。しかし、それは、自生的な近代化の度合いや直線的方向性が、やや強調されすぎているという点ではない。問題は、むしろ日本が朝鮮を植民地としたときに、近代化がいっぺんに立ち止まったという点が、ほとんど検証されず、それをにおわせるだけの主張となっていることである。

 植民地時代に近代化が伴っていたことを認めないのは、ある面では、日本植民地時代の宣伝にたいする記憶に由来する。当時、日本は朝鮮を文明化する使命をもっていると宣伝していた。帝国日本は、長く「停滞した」(とみられた)社会に日本が近代性をもたらすと主張することによって、朝鮮の支配を正当化した。

 何はともあれ韓国側が植民地時代の近代化という概念を用いることに強く、時には断固として抵抗を示しつづけたのは、一種の反動である。近現代史博物館が積極的な展示をしていないところをみれば、植民地時代に生じた発展ないし近代化は、基本的に無視されているといってよい。

植民地時代の拷問、解放後の拷問

 現代史博物館における植民地時代のとらえ方は批判的であるとはいえ、独立記念館や西大門刑務所歴史館にくらべると、それでもずいぶん控えめなものになっている。このふたつの博物館では、実物大の蝋人形模型を使って、植民地時代に日本人が朝鮮人にどのような拷問を加えてきたかが展示されている。

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