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[1]現代のメディアと政治

文字の問題が立憲デモクラシーの基礎にある

石田英敬 東京大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年6月3日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。
立憲デモクラシーの会ホームページhttp://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

講演する石田英敬教授
 東大の石田です。きょうは「現代のメディアと政治」というお題をいただきましたので、この問題にどういう見取り図をつくることができるのかというお話をさせていただきます。スライドが80枚以上ありますから、駆け足でお話をさせていだきます。

 私はもともとメディアの研究、もうちょっと難しい言葉を使うと記号論という学問の研究をしているのですが、いま、いろいろな角度から、政治とメディアの関係ということが問われているので、私の研究とこのテーマのクロスするところでお話をさせていただきます。

 話の組み立てとしては、最初に少しお勉強をしていただきます。原理論というか、メディアの問題とは何だという話をさせていただいて、それから第2部、こちらはアクチュアルな問題で、応用編ということで、皆さんと一緒に、いまの政治を考えてみたいと、こういう構成を取らせていただきます。その第1部、お勉強編も二つに分かれていまして、一応レジュメをつくりましたので、あとでそれを見ながら、どういう組み立てで話をしたかということを思い出していただきたいと思います。

政治の成立とメディアの問題は同根

 まず立憲デモクラシーの会ということですので、そこで考えようとしている立憲デモクラシー、この理念型の問題をメディア論の観点からとらえ返してみたいというのが、お勉強コーナーの1です。タイトルとしては「文字と政治理性」で考えております。4点ばかり、2千年ぐらいの歴史ですけれども、その話をまずさせてください。

第Ⅰ部(お勉強篇)
その1「文字と政治理性」
1 〈政治〉と〈メディア〉の永い関係
2 文字と〈法の支配〉
3 活字と〈啓蒙〉
4 大衆民主主義と〈公共圏〉

 一つは、2千年、プラトンまでさかのぼります。政治とメディアの関係は、実は非常に長い関係。つまり政治がギリシャで成立するということと、メディアの問題は同根であるという、こういう認識を持たなくてはいけないということをお話しさせていただきます。

 これは皆さんも読んだ方は多いと思いますけれども、プラトンの一番代表的な対話篇の一つに「国家」があり、それに書いてあることですね。その中でも有名な第7巻に出てくる、「洞窟の比喩」というのがあります。人間というのはもともと、洞窟の中に生まれたときから閉じ込められていて、手を後手に縛られていて、入り口のほうは見えない、そういう育てられ方をしている。そういう存在であると例えてみようと、ソクラテスが語るわけですね。それに対して洞窟の背後から太陽の光が差し込んできていて、そのほうへと坑道がつながっているわけですが、その中間に、もののいろいろなものの影をかざして見せる存在、媒介者がいて、いろいろなものを示して見せる。けれども、外界からの光のほうは、その囚人、すなわち人間には見えないので、それで壁面、洞窟の壁に映るものの影を見ている、というのが人間であると。こういうメタファーで語るわけですね。

 だからソクラテスは、人間たちはこの住まいの中で、子どもの頃からずっと手足を縛られて、そこから動くこともできないし、後ろをふりむくこともできない。そういう存在であって、光が彼らの後ろから照らし出されていて、ただし上のほうに道がついていて、人形遣いのついたてのように、その上からあやつり人形を示して見せるように、いろいろなものの影を見せられている、そういう存在であると。

 つまり人間はものの本質を見ているのではなくて、ものの像を見ているのだと。イメージを見ているのだという、プラトンのイデア論が展開するわけです。後ろの方で媒介者たちは、いろいろな声を出してものをかかげて示すのでこの洞窟は視聴覚的なしかけになっていて、像それ自体がものなんだで、こういう存在なんだと信じ込ませているわけです。図示すると、こういうふうになっていて、人間はここにつながれていて、壺なら壺の像をここにいる人が示して見せて、太陽の光が壁に映しだしていると。これはプラトンの「国家」に書いてあることです。

 この「国家」はですね、「ポリテイア」というギリシャ語、つまり政治(ポリス)とは何かということを究極的には問うことを主眼とした対話篇なのです。それでその洞窟の坑道の上の方の太陽というのがロゴスで、つまり真理のもとになる。それが〈善〉の実相であって、そこからいろいろなロゴスの影を、イデアの影を見ているというのが人間の存在なのだと。そういうたとえ話をソクラテスは語って聞かせます。

 ソクラテスの譬え話に出てくる洞窟ですが、こういう装置を見ると、メディア学者は、ソクラテスは政治をイメージの問題だと語っているのだなと思うわけです。私たちはね。それでそういうロゴス、政治の根拠にあるロゴス、善のイデアの根拠にあるロゴスというものが、人間が見ているものの影とどういう関係にあるべきなのかを問うのがこの対話篇の主眼なのですが、そうすると、ここに僕の専門としているメディアのイメージ論というものがあるよね、と考えるわけです。ソクラテスは政治の究極的な根拠は〈善〉のイデアなのだと説くわけですが、そうするとこに、プラトンの「国家」では、政治の原理とイメージについての問いが提起されていたのだと気づかされるわけですね。

我々はプラトンの「国家」から遠くない政治体制の中にいる

講演する石田英敬教授
 こういうことをプラトンは書いていて、わたしたち現代人の生活はどうなっているかと考えてみると、我々はそれから決して遠くない世界に住んでいて、世界で起こっていることは、私たちはほとんどテレビを見るとか、インターネットを通じて視聴している、そういうことによって情報を得ているわけです。我々はプラトンの洞窟の囚人たちと同じポジションにいて、そして実際に何が起こっているかということは、いろいろな媒介者、いろいろなものを示して見せるテレビのプレゼンテーションをしているキャスターだとか、インターネットのホームページをつくっている人間だとか、そういう媒介者、メディア的媒介者がいろいろなものの影をわれわれに示して、私たちに送り届けている。私たちも、プラトンの「国家」から決して遠くない政治体制の中にいる、こういうことがわかってくる。

 僕はそれを「メディア国家」と名づけているわけですが、これはプラトンの「国家」のバリエーションであると、考えている。つまりテレビのキャスターやアナウンサーやプロデューサーやディレクターやカメラマンのことを考えてみれば、それは上の坑道のところでいろいろなものを捧げて、「世界はこうなっていますよ」っていうことを示している、そういう存在であると。こんなふうに言えるわけです。つまり我々はこういう洞窟の中に、あるときから住んでいて、ほとんどの人はこういう洞窟の中で生きているというのがメディアと政治の基本にある。まずこれを一つ申し上げておきます。つまり我々はプラトンからはさほど遠くない、というわけですね。これが約2千年前です。

 このプラトンの政治には像やイデアと政治の根本原理の話は出てきまたけれど、文字の話はなかったじゃないかと思われた方は、すごく鋭い方です。「国家」に限らずプラトンの対話篇は、文字問題について、じつにビミョーな位置にあるものなのですね。なぜって、プラトンの「対話篇」は文字で書かれているので私たちにまで伝わっているわけですが、中心人物のソクラテスは「文字を書かない人」で、そのかれの話がライブ形式で(つまり「対話」形式で)しゃべったように伝えられているわけですね。そこがじつに意味深いのですが、これを語るとまた別の長い話になりますので、それはやめて次に進みます。

 次に、我々の学問は基本的にギリシャ起源なのですが、なぜそうなのかという問題があります。それは、アルファベットの発明ということが、最も根本的な発明なんですね。知をつくり出す、メディアとしてのアルファベットというものの発明があったことが、いまのサイエンスをつくっていくことの起源になるわけです。私は大学でときどき語学(フランス語)のクラスも教えます。それで最初の授業では、「アルファベットって何だか知っているか?」ということをまず教養課程の学生に聞きます。そうすると「アルファベットはABCです」という答えしかほとんど返ってこないのですが、「アルファベット」という呼び方の起源になった(Aはもとはアルファ、Bはベータですから)、ギリシャアルファベットの特徴は何だか皆さんはわかりますか? じつはギリシャアルファベットはすごい発明で、これは文字の歴史の中でも、母音と子音をフルに書く初めてのアルファベットなのです。ギリシャアルファベットというのはほとんど完璧に当時のギリシャ語の発音と同じように発音どおりに書く、文字通りの言文一致のアルファベット、パーフェクトなアルファベットで、人類史の中で表音文字としては完璧なシステムなんですね。

 これがあったことによって、テレビだとかコンピューターだとかを手に入れる以前に、もっと大きなテクノロジーをギリシャ人は手に入れたわけです。そのことによって、だれが何を語ったとか、どういう考えを持ったかっていうことが、透明になった。つまりそこにいなくてもわかるようになった。そして死んだあとも伝わるようになった。これがほかのアルファベットと違う、例えばヘブライとか、あるいはフェニキア文字とか、そういう一部しか書かない、大体子音しか書かないのがそれまでのアルファベットだったのですが、母音まで書くようになって、フルに再現することができるようになった。これがギリシャの学問をつくり出すわけです。

 これは非常に大きな発明で、そのことがじつは、法の支配という問題とも関わります。立憲と言うからには、法に従わなくてはいけない。法はそのとき、多くの場合、書いてある。書いてあるということは、一つ書いてしまえば、それはだれでも読める。だれでもそのルールを確認することができる。従って、変なことを恣意的にやる人が出てきたときに、「こう書いてあるじゃないか」とチェックをかけることができる。そのことによって、公正な裁判ができるようになる。

法の支配にとって、文字の発明は極めて重要

 こういうふうに法というものが書かれたものになることによって、すべての人が、すべてと言っても奴隷ではない人、自由民ですが、それが法の前に平等になる。法を前にして、あるいはポリスを律することについて、平等な力を持つことができるようになる。これが文字の発明が生み出した政治ということなのです。それを「イソノミア」と言います。イソノミアという原理が発明されるためには、ギリシャアルファベットというテクノロジーが必要だったということなんですね。だから文字の発明は法の支配にとって、つまり立憲の根拠にとって、極めて重要なコアのテクノロジーだということです。

 つぎに時代はちょっとかなり飛びます。そのあいだに立憲主義とか、民主主義とか、市民革命だとか、そういうことがあったという話は、立憲デモクラシーの会なので、いままで偉い先生たちが話をしたと思いますから、それらは法学とか、政治学のご専門の先生からすでに聞かれたと思いますので、私が話す必要がないことだと思いますので、その中間を飛ばします。

 次に、近代の政治はどうであったか。いまお話した文字の問題とどう関わっているかということになれば、我々のデモクラシーの近代的な起源、出発点は啓蒙思想ですから、カントとかフランス革命とか、啓蒙思想家とか、そういうところに起源を持つわけです。その場合は「活字」ということが問題になります。これが「文字と政治理性」についてのお勉強の3番目のポイントです。みんなが本を読むという、活字共同体が生まれるということが、近代の公共圏をつくっていく。これが近代のデモクラシーをつくる、そういう仕組みになっています。

 カントの「啓蒙とは何か」というアンケートに対する回答が有名ですが、そこでは理性の公的な行使ということが問題になります。理性の公的な行使、Öffentlichkeit(公共性)と言いますが、公共性というのは、みんなにオープンであるということで、活字はオープンに理性を行使する道具である。つまり公開的に理性を公使して判断するということですね。いろいろな問題について議論して決めていく、公開的な政治の原理というものを保障するのは活字であって、それはみんなが読み書くことができるようになれば、理性の光が拡がっていく。人びとが開明されていく。これが啓蒙ということですよね。

 カントは、「理性の公的な公使」とは、「読む公衆、読者たちを前にした、ものを考える人としての理性の行使であると」と述べています。活字の読み書きが合理的な政治の原理なのだということを言っているわけです。ここには、その読む、書く、それをパブリッシュする、出版するという近代の活字メディアの原理が、基礎にあるわけですね。これが、活字が可能にした、近代の「公共圏」というものです。

 そこまでは理念型なのです。そこまでは我々が常識としているデモクラシー、近代の政治原理なのですが、だんだん社会は複雑になっていって、そうしたデモクラシーの原理が必ずしも働かなくなっていくというのが実は近代です。それを論じたのが、ハーバーマスのこの「公共性の構造転換」という本で、近代の民主主義とそのPublic Sphere、「公共圏」の転換という、齋藤純一さんがたぶんお話しされたんじゃないかと思いますが、そういう問題の時代に入っていきます。

メディアが産業化する近代

 ここからが、どうして民主主義はいつも危ないのか、危機に陥っているのかということの歴史的な起源になっているとわたしはとらえています。一つは、これがハーバーマスがこの本の中で論じている問題ですが、資本主義というものが発達することによって、産業資本主義の時代に発展していくということがある。それから権力と市民社会とが截然と分かれているという時代から、社会国家とか福祉国家になって、両方が入り組むようになっていくというのが、近代的なソーシャルステート(社会国家)っていうものの発達なのだと。メディア自体も最初はそうした読む公衆の共同体であった牧歌的な時代から、産業化していくということですね。日本で言えば大新聞になったりとか、商売としての新聞になったりとかですね、そういうマスメディア社会というものにだんだんなっていく。

 そうすると、公共圏というものが必ずしもまじめなことだけで成り立つようなものではなくて、商業化し、消費社会化していくという、僕達がよく知っている公共圏になっていくわけです。オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」みたいに、大新聞王とか、そういうものが牛耳るようになってきて、日本でもそういうことが表れている、何とか読売新聞とか(会場・笑)、そういうものが支配するような、そういう大衆民主主義の時代になってくるというわけですね。ちょっと急ぎましたけど、「公共圏や民主主義」が、産業や大衆社会と難しい関係に入るのが近代以後のじっさいの政治なんだというのが、「文字と政治理性」の4番目の学習ポイントです。

 ここまでが第一部。つまり文字の問題というものが立憲デモクラシーの基礎にあり、それが原理的にはこういうふうに積み上がってきて、文字の発明から活字というもの、その出版というものが支えてきた「公共圏」が、変容していくという時代が近代だということを申し上げました。

(写真撮影:吉永考宏)