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[3]男性稼ぎ手モデルから脱却できない日本

貧しい人たちにむち打って、さらに窮状を厳しくする国

岡野八代 同志社大学教授

注)この立憲デモクラシー講座の原稿は、2016年6月10日に立教大学で行われたものをベースに、講演者が加筆修正したものです。

立憲デモクラシーの会ホームページ

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

 

講演する岡野八代教授

 もう少し時代を下って、第二世代の個人主義に入っていきたいと思います。18世紀に始まる立憲主義では、主権者がそれまでは財産を持った男性に限られていたものを、労働者たちの闘争によって、公教育を充実しろとか、労働環境を整備しろとか、市民として自分の幸福は自分で決められるような、主権者に足るような存在になるように、国家に対していろいろな要求をし始めます。19世紀から20世紀にかけて、多くの労働闘争の中で、市民は権利を獲得していくわけですね。

 かつても救貧法とかがありましたが、それは貧困者に対する、王家からの恩恵だったわけです。それが、19世紀から20世紀にかけて変化していきます。つまり、貧しい人たちが教育や福祉を受ける、つまり国家による社会保障はむしろ権利なんだと、主張されるようになります。自然権思想では、私たちは生まれながらにして権利があり、その権利の一部として、社会的権利というのもしっかり確立しろ、それが国家の義務なんだということをこの20世紀に確立していくわけです。

1893年、ニュージーランドで初の女性参政権

 多くの国は、19世紀から20世紀にかけて男性たちは普通選挙を実現して、1893年、ニュージーランドが最初の国ですが、ようやく女性が参政権を得た。フランスは1944年まで認められませんでしたが、20世紀前半を通じて男女平等、機会の平等という形で、女性の権利が認められるようになった。法的には男性も女性も平等なものとして扱おうという運動が生まれてきます。

 女性の運動史からすると、女性参政権運動、現在では第一波フェミニストと呼ばれる、「女性にも参政権を」と主張した人たちの運動の中から、この第二世代の個人主義というのが生まれてくるわけですね。参政権に象徴された男女平等の権利、教育の権利、そして機会の平等を認めていこうという機運が生まれました。とはいえ、家庭内での女性の役割は、しっかりと期待されていました。これは男性の稼ぎ手モデル社会です。当初、市民として主権者だった男性が世帯内では稼ぎ手であって、それを支える妻役割というものが、まだまだ社会構造の隅々に、企業の慣習、制度や法律、社会保障、税法の中に、そして市民の意識の中に残っていました。

戦争が女性参政権が認められる大きな契機に

講演する岡野八代教授
 女性たちに参政権が認められる一つの大きな契機は、戦争です。たとえば、総力戦が始まる第1次世界大戦に参戦するために国家は、女性の協力が必要だと考えました。第2次世界大戦の頃になるとさらに顕著ですが、健常者である男性はみんな兵士に取られるわけですから、女性たちはそれまで男性が担うとされていた、例えば重工業、大手の電化製品、あるいは軍事工場でも女性たちが飛行機の部品などをつくっているわけですね。

 これは、女性たちが自分たちだってできるぞという、力こぶをこめた1943年のアメリカのポスターで、女性たちの勤労意欲を非常に高めたわけです。日本でも女子学生たちがいろいろな工場に行って、勤労奉仕をしていたわけですね。男性たちがいなくなった穴埋めをしないといけないわけですから、女性たちも多く働いていた。第1次世界大戦や第2次世界大戦で、フランスでもそうですけれども、それまでは「女には重工業なんてとんでもない」と言われてきたのが、やっぱりできるじゃないかということで、女性の参政権がそのあと認められていきます。女性たちだってこんなに国家の役に立っているということですね。

戦争が終わって家庭に追い返された女性たち

 ところがその戦争が終わって、男性たちが帰ってきました。そうしたら何が起こるか。女性たちはまた家庭に追い返されていきます。その様子が、このスライドにあるベティ・フリーダンの『Feminine mystique」に描かれています。『女らしさの神話』という原題ですが、日本では『新しい女性の創造』と訳されています。1963年に発表されて、日本では65年にすぐ訳されました。

 背景の一つに男女平等の教育があります。アメリカはかなり私立の女子大学が充実していて、高等教育を受けた女性たちがたくさんいたにもかかわらず、また家庭内に主婦として戻ってきます。ベティ・フリーダン自身はスミス・カレッジという非常に有名な私立の女子大学を卒業して、いろんな夢をあきらめて、主婦になりました。同窓会に行くと、みんなが何かもやもやもやっとしているわけです。この本の中では、そのもやもやもやっとしている女の人たち、自分の同級生たちの声を聞いてですね、男性はいまや月に行く時代に、女性の私は、ファッション誌とかを見ている。一体これは何なんだ。私たちが受けてきた教育は何だったんだろうということで、フリーダンは、Feminine mystique、女らしさがいかにつくられてしまったかについて一冊の本を書きました。

 彼女は非常に厳しい口調で、自分が主婦であることを、こんなふうに書いています。「主婦になりたいと希望して成長した女性は、ナチ収容所で、死だけを待って生きた数百万の人びとと同じ運命にある」。とにかく主婦として、順応していく、何かを忘れてしまって。これはおかしいと思うと、あまりにもつらいので、何とか自分の夢や不満を抑えて、「主婦になりたかったんだ」と言い続けてきたんじゃないかと。

 自己を失わせたものは、このあきらめだとフリーダンはいうわけです。自己を捨て、抵抗もせず死んでいった人たちのように、自分たちもこうして何かを失って、だれかに拷問されたわけじゃないけれども、ある種の環境の中に順応していったそのつらさを書いた本で、この本は多くの共感を呼び、アメリカの第二波フェミニズムと呼ばれる女性運動に火をつけました。

欧米は男性働き手モデルを変革

 ここまでは第二世代の個人モデルですけれども、ヨーロッパやアメリカはここからもう一歩進んで、いいか悪いかは別にしても、男性の働き手モデル、世帯主モデルというのを変革します。アダルトワーカーズモデルと言いますが、

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