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[3]教育勅語訳で消された「天壤無窮ノ皇運」

早川タダノリ 編集者

1890年(明治23年)に教育に関する勅語が発令され1890年(明治23年)に発令された教育勅語の実物

 「教育勅語にはいいことも書いてある」論

 塚本幼稚園の異様な「愛国」教育が注目を集める中、かの幼稚園で「教育勅語」を暗唱させていたことについて、「愛国者」たちから擁護論も飛び出している。

 例えば3月14日の産経新聞投書欄に掲載された「教育勅語は素晴らしい教え」(女性、塾講師、57歳)では、次のように述べられている。

 大阪の「森友学園」をめぐる問題で、幼稚園児に教育勅語を暗唱させていたことが批判されているが、教育勅語そのものは悪くない。素晴らしい教えだ。
  親に孝行し、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友は信じ合い、謙遜と博愛の心を持ち、勉学に励んで知識を身につけ、人格の向上に努め、人々や社会のために働き、法を守りましょうという内容だ。

  「教育勅語そのものは悪くない」とは、ここ最近の教育勅語擁護論の決まり文句と化している感がある。歴史的・政治的な文脈から「教育勅語」を切り離し、そこに書かれた字面だけで判断して欲しいという願望の現れなのだろう。けれどもその願いは彼女の中で矛盾している。

 というのも、彼女が賞賛する「親に孝行し、兄弟姉妹は仲良く……」といった徳目だけならば、居酒屋のトイレやお寺の掲示板に貼ってあるしろものと大した違いはない。その徳目をそのへんの普通の人が書いたものならば、彼女はきっとありがたがりもしないだろう。

 「教育勅語」では、「爾臣民」という「臣民」への呼びかけを冒頭において徳目が列挙されている。天皇が臣下に対して「~すべし」と命ずるという形式である。明治天皇が発した「勅語」であるからこそ、この人は必死に擁護しているわけですよね? けれども、それがどのような歴史をもち、政治によっていかに活用されてきたのかを消去した「教育勅語そのもの」など、もはや「教育勅語」ではない。というか、そんなに徳目を説教されるのが好きならば「教育勅語」でなくていいはずなのに、どうしても「教育勅語」を奉戴したいというところに、彼女の不可解なオブセッションがあるのだ。

 そればかりではない。彼女が挙げた徳目からはなぜか、「教育勅語」原文にある「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」が消えている。「教育勅語そのものは悪くない」のならば、ちゃんと引用すればよいのに、どうして省略してしまったのか。にもかかわらず、彼女は続けて次のように書いている。

 天皇に尽くして国のために死ねという教えであるかのごとく批判する新聞があるが、そんなことは書かれていない。教育勅語の全文を載せて、本当は何と書いてあるのか伝えるべきだ。

 えーっと、アナタが省略した「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」がソレなんじゃないですか?と、目まいにも似た戸惑いを覚えるほどだ。「本当は何と書いてあるのか」を確かめるべきは、彼女自身ではないだろうか。

「現代語訳」に汚染された教育勅語

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