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国連安保理は北朝鮮の暴走を止められるか

25年に及ぶ安保理での経験を踏まえ、国連を通した解決の可能性を探る

川端清隆 福岡女学院大学特命教授(元アフガン和平担当国連政務官)

緊迫化の一途をたどる北朝鮮情勢

北朝鮮の核実験を受けて開催された国連安全保障理事会の緊急会合=9月4日、米ニューヨークの国連本部北朝鮮の核実験を受けて開催された国連安全保障理事会の緊急会合=9月4日、米ニューヨークの国連本部

 国連安全保障理事会では四半世紀にわたって、北朝鮮の核ミサイル問題の解決に向けた審議を続けてきた。その間、9度にわたり全会一致で制裁を科すなど、安保理は国連の集団安全保障を担う機関として一定の成果をあげてきた。今年9月3日に北朝鮮が6度目の核実験を強行すると、安保理は8日後の11日に、石油輸出の制限を含む第9次対北制裁に踏み切った。すでに科されている石炭や鉄鉱石の全面禁輸を加えると、実に北朝鮮の輸出収入の9割近くが遮断されることになる。

 しかし度重なる制裁決議は、金体制の存亡をかけて核武装に突き進む北朝鮮を翻意させるに至っていない。むしろ、「朝鮮半島の非核化」という究極の目的から見ると、これまでの安保理の対応は到底十分とは言えない。

平壌の人民劇場で開かれた水爆実験の成功を祝賀する講演で拍手する金正恩朝鮮労働党委員長(前列中央)と李雪主夫人(前列右から3人目)。日時は不明=労働新聞ホームページから 平壌の人民劇場で開かれた水爆実験の成功を祝賀する講演で拍手する金正恩朝鮮労働党委員長(前列中央)と李雪主夫人(前列右から3人目)。日時は不明=労働新聞ホームページから

 金正恩政権が2011年に発足すると、北朝鮮は核ミサイル開発の中止を求める安保理をあざ笑うかのように、戦略核兵器の実戦配備に向けた動きを一気に加速させている。金政権の暴走に業を煮やすトランプ米政権は、制裁による圧力が機能しない場合、武力行使の可能性をもちらつかせ始めた。先の国連総会でトランプ大統領が北朝鮮の「完全な破壊」を警告すると、北朝鮮は「太平洋上での水爆実験」を示唆するなど、状況は緊迫化の一途をたどっている。

 本稿では、著者の25年にわたる安保理での経験を踏まえて、北朝鮮の核ミサイル問題の国連を通した解決の可能性を探りたい。安保理では1993年の第一次核危機以来、同問題の実質的な審議のために140回余りの非公式協議を重ねてきた。「国際の平和と安全の維持」に主たる責任を負う安保理の長年の関与にもかかわらず、なぜ核ミサイル問題はこれほど悪化したのか。失敗の原因を探るとともに、国連外交が成功するための条件を検証してみたい。

 検証に当たっては、安保理の関与を交渉の手法や力点に焦点を当てて次の三つの時期に分けてみる。 I)話し合い(米朝協議)中心の90年代、Ⅱ)圧力(経済制裁)と対話の2003∼16年、Ⅲ)トランプ政権の「圧力重視」政策。そのうえで結論において、軍事力によらない核ミサイル危機の解決への条件を考えてみたい。

I)話し合い中心の90年代―第一次核危機と日本外交の失敗

緊急会合が始まる前に議場の隅で話し込む米国のヘイリー国連大使と中国の劉結一・国連大使(左)。ヘイリー氏の方から声を掛けていた=9月4日、米ニューヨークの国連本部緊急会合が始まる前に議場の隅で話し込む米国のヘイリー国連大使と中国の劉結一・国連大使(左)。ヘイリー氏の方から声を掛けていた=9月4日、米ニューヨークの国連本部

 日本では、安保理が北朝鮮の核問題に当初から関与したとの印象が根強い。しかし、これは単純な間違いである。

 北朝鮮をめぐる第一次核危機は、同国が93年に核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言したのを機に勃発した。ところが、核兵器開発の阻止を目指す交渉は米朝の二国間協議にゆだねられ、安保理は90年代を通してもっぱら「脇役」に甘んじた。

 この時期、安保理の非公式協議では50回近く北朝鮮が議題に上がったが、協議の大半は朝鮮戦争の休戦協定違反に費やされた。東西イデオロギー対立という冷戦の残滓(ざんし)を常任理事国が引きずっていた当時、北朝鮮の核問題は安保理の正式議題ですらなかったのである(注1)。核問題が安保理で扱われたとしても、米朝協議や国際原子力機関(IAEA)に関する短時間の報告に限定された。

 安保理が北朝鮮の核問題に関与できなかった要因は次の三点に集約される。

●中国の反対

 安保理を長年にわたり機能不全に陥れた米ソ対立は、1991年にソ連が崩壊すると解消して、安保理の守備範囲は一挙にカンボジアなどの地域紛争に拡大した。しかし米中など常任理事国の間では、大国の利害が錯綜する朝鮮半島は国連には荷が重すぎるので、安保理が扱うべき問題との共通認識は存在しなかった。

 安保理の関与に最も抵抗したのは中国であった。中国はこの時期、北朝鮮との関係を維持しつつも92年に韓国と国交樹立を果たすなど、経済・外交面では硬直した冷戦思考から脱却し始めていた。しかし軍事・安全保障面では冷戦期の地政学的思考にどっぷり漬かったままで、北朝鮮の核問題は「安保理の正式議題ではなく、当事国間で解決すべきだ」と主張して、安保理の本格的関与に終始消極的な姿勢を示した(注2)。当時の中国にとって制裁は言うに及ばず、同盟国である北朝鮮を名指しで非難することさえタブーだったのである(注3)。中国が安保理を通した核ミサイル問題への対応を受け入れるのは、北朝鮮が第一回核実験を強行した2006年以降のことである。

●安保理を避けた米国

 中国の抵抗で国連関与が深まらぬ中、米国は安保理を迂回(うかい)して北朝鮮との二国間交渉で事態を打開する道を選んだ。

 米国もこの時期、中国と同様に核問題の安保理を通した解決には懐疑的であった。第一次核危機は、国連平和維持活動(PKO)がソマリア、ルワンダや旧ユーゴで失敗し、国連の信頼性が揺らいだ時期と期を一にする。北朝鮮が94年にIAEA査察団を退去させるなど緊張が高まると、クリントン政権は軍事オプションを真剣に検討するが、韓国の反対もあって引き下がった。一方、東アジアにおける中国との利害関係の調整も進んでおらず、米国は結果として安保理の機能を生かしきれなかった。

 クリントン政権はカーター元大統領の仲介もあり、北朝鮮との二国間交渉で事態の打開を図った。しかし交渉の前提となったのは、「条件次第で北朝鮮は核計画を断念する」という根拠に乏しい希望的観測であり、今振り返れば楽観的に過ぎると言えよう。金体制の存亡をかけて核武装に邁進する北朝鮮の決意を、米国は見誤ったのである。

 交渉の結果生まれた枠組み合意の下で、日米韓三カ国は北朝鮮が核開発を凍結する代償として、軽水炉の建設や重油の無償供給を約束した。国際規範の違反国に対して制裁などの懲罰でなく、「褒美」で懐柔しようとする典型的な融和策であった。北朝鮮の善意に依拠する枠組み合意であったが、2002年に高濃縮ウラン(HEU)を生産する秘密計画が発覚すると廃棄に追い込まれた。

●未熟な日本の国連外交

 日本は当時、国連の多国間外交への対応を怠っていた。

 この時期日本では、北朝鮮の脅威に対する意識は高くなかった。むしろ多くの日本人にとって核問題は、自らの平和と安全への脅威というより、「半島有事に伴う対米支援」という限定的な懸念としてしか映っていなかったのである。

 当時の日本外交は、従前の二国間外交が中心であり、多国間外交の場である安保理で主導的な役割を果たす覚悟も準備もなかった。くわえて、制裁を取り扱う省庁縦断的な組織や担当者が存在しないなど、国連と連携するための国内的な体制も整っていなかった。

 そんな日本が安保理と真剣に向き合ったのは、98年8月に北朝鮮が発射したテポドン弾道ミサイルが東北の上空を通過した時であった。ミサイルの上空通過により、北朝鮮危機は日本人にとって切実な問題となり、政府は遅まきながら安保理での真剣な対応に乗り出すことになった。

 ところが安保理の反応は鈍く、テポドン発射への対応を決めるまで発射から実に2週間以上の時間を費やした。これは、「発射したのは人工衛星だ」という北朝鮮の主張を中国やブラジルが支持し、「深刻な懸念」を表明して安保理の具体的措置を求める日本の前に立ちはだかったためである。頼みの米国も当時は、枠組み合意を実施するための朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)事業の継続を重視しており、事業への資金供与の中止を表明する日本の動きを、対北関与政策を動揺させかねないとして否定的にとらえた。ミサイル発射直後に日本政府はKEDOへの資金支出の凍結を表明したが、米韓の圧力により腰砕けとなり、10月には支出の再開を余儀なくされた。

 結局、日本は安保理で孤立無援となり、ようやく出た安保理の対応は「議長談話」という最も格が低く法的拘束力がないものとなった(注4)。その内容もテポドンをミサイルと呼ぶことさえできず、単に「飛翔体(flying object)」と表現するにとどまり、将来の発射を抑止する役には全く立たなかった。安保理での失敗は、その後長年にわたって日本外交のトラウマとして残った。

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