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歴史から考える連合のこれから

支持する民進党の分裂でいっそう苦境に。地域から再生をはかり、野党再結集の後押しを

中北浩爾 一橋大学大学院教授

平成と重なる連合の歩み

定期大会終了後に記者会見した連合の神津里季生会長(右から2人目)、逢見直人会長代行(左から2人目)ら=10月5日、東京都千代田区定期大会終了後に記者会見した連合の神津里季生会長(右から2人目)、逢見直人会長代行(左から2人目)ら=10月5日、東京都千代田区

 日本最大の労働組合のナショナルセンター(全国組織)である連合。その歩みは平成と重なります。

 平成元(1989)年。官公労が主体の総評、民間労組が中心の同盟などが統合して誕生。「すべての働く人の雇用と暮らしを守る」を旗印に、政府に労働政策を働きかけるとともに、政権交代のある政治を求め、2009年には支持政党である民主党を政権の座に押し上げました。

 その連合が平成の終わりを目前に苦悩しています。先の衆院選で民進党(旧民主党)が立憲民主党、希望の党、民主党系無所属、参院民進党に分裂してしまったからです。

 しかし、正規・非正規など働く人の分断が進んだり、長時間労働がなかなか解消されなかったりの厳しい労働環境を考えると、労組が政治への影響力を減らすのは望ましくありません。発足以来、最大ともみえる苦境からどう立ち直るのか。長年、連合を観察してきた立場から、約30年の歩みを振り返りつつ考えてみたいと思います。

前原新代表に期待した連合

 9月1日、民進党は前原誠司氏を新代表に選びました。みんながみんなを支える「オールフォーオール」の理念を掲げ、アベノミクスとの対立軸を打ち出した前原氏に、連合は大いに期待しました。

 理由は大きくふたつ。ひとつは民進党の自主再建の方向性を示したこと。もう一つは、それまでの共産党を含む野党共闘の見直しへの期待でした。

 ところが、前原代表は幹事長に起用しようとした山尾志桜里議員のスキャンダルで出ばなをくじかれ、離党者も止まらない。その機をとらえて安倍晋三首相が衆院解散・選挙に踏み切り、窮地に追い込まれてしまいました。

ふたつの条件を「拒否」した希望の党

 野党共闘を続けるか、小池百合子・都知事が立ち上げた希望の党と連携するか。選択を迫られた前原氏は、希望への合流を決断しました。もともと共産党とは距離があるうえ、旗揚げ直後の希望の党には一気に政権をとれるかもしれない勢いがあり、前原氏の判断には一定の合理性があったとは思います。

 連合の神津里季生会長が希望合流を容認したのも同じ判断からでしょう。ただし、連合はふたつの条件をつけました。第一に民進党全体の合流、第二に希望の党との政策協定の締結です。

 しかし、このふたつとも小池知事は受け入れず、民進党は希望の党、立憲民主党、無所属に分裂してしまいます。その結果、連合は「股裂き」状態に陥ることになりました。

 選挙は、自民党が議席を維持。分裂した民進党は、立憲民主党が54人、希望の党が51人、無所属が19人で、自民党「一強」がますます鮮明になる結果に終わりました。

連合に残されたふたつのツケ

 前原、神津両氏の見通しが甘かったのは確かでしょう。でも、野党共闘だったら、民進党が一丸となれたかは疑問です。離党して希望の党に行く議員や候補者も少なからずいたでしょう。不意打ちの選挙で仕方がない判断だったとも言えます。とはいえ、連合が払ったツケは極めて大きいものでした。

 第一のツケは、希望の党、立憲民主党、無所属の候補のいずれを支援するかで組織内が割れてしまったことです。旧同盟系が希望の党、旧総評系が立憲民主党というような単純な構図ではなく、事態はもっと複雑です。第二のツケは、連合の執行部と現場の役員・組合員とのつながりが傷ついてしまったことでした。

 とりわけ第二のツケは深刻です。今回の合流・分裂劇は、永田町政治そのものであり、これまで連合が積み上げてきた現場重視の運動にそぐわないからです。どういうことか、歴史を追って説明していきましょう。

政治をめぐるふたつの路線

 1989年のスタート時、政治との関わりについて、連合にはふたつの路線がありました。

 ひとつは「政策制度要求」の路線です。具体的には、労働者に望ましい政策や制度を、政府との協議や各省庁の審議会への参加などを通じて執行部主導で実現するものです。これは「55年体制」と呼ばれる自民党長期政権下で次第に主流になってきました。

 もうひとつは、政権交代を目指す路線です。旧総評が支持した社会党、旧同盟が支持した民社党に、公明党を含めた社公民による野党連立政権をつくろうというものです。初代連合会長の故山岸章氏はこれを追求しましたが、うまくいかず、最終的に自民党を飛び出した小沢一郎氏らと手を組み、1993年に非自民連立の細川護熙政権を樹立しました。

 細川政権では衆院への小選挙区制導入を柱とする政治改革が実現。二大政党制による政権交代可能な政治の流れができました。90年代に登場した数々の新党は、合従連衡を繰り返しながら次第に収斂(しゅうれん)し、98年、自民党に対峙(たいじ)する政党として新民主党が誕生。連合も同党を支持し、政権交代を目指す方針を決めました。

社会的労働運動への転換

 同じ頃、「政策制度要求」をめぐる環境が厳しくなってきました。政治改革によって首相への権力集中が進みましたが、それと同時に、族議員や業界団体などを政策決定過程から排除する傾向が強まったからです。小泉純一郎政権では規制緩和のための会議体に連合は代表を送れない事態になります。困難に陥った連合が踏み切ったのが、「社会的労働運動」への転換でした。

 この転換をもたらしたのは、2003年の連合評価委員会(中坊公平座長)の最終報告です。そこで強調されたのが、非正規労働者や中小企業の重視、NPOとの連帯などでした。大企業・正社員中心の既得権集団という批判を払拭(ふっしょく)するため、一般の国民の共感を呼ぶ、地域に根ざした運動へと大きく舵(かじ)を切ったのです。それ以来10数年。この間、07年には連合本部に非正規労働センターが設置され、連合加盟約686万人中、いまや100万人近くが非正規という現状をみると、一定の成果があったといえます。

民主党と歴史的政権交代を果たす

 同時に、政権交代に向けた機運も連合内で高まりました。自民党政権から排除されるなら、自分たちで政権をつくろうというわけです。

 2006年には小沢氏が民主党の代表に就任。スローガンの「国民の生活が第一。」が社会的労働運動と響き合ったこともあり、民主党と連合の関係は緊密さを増しました。選挙には連合の組織力が不可欠と考える小沢氏は、地方行脚を繰り返して地元の連合幹部と懇意になり、その協力もあって09年、民主党は歴史的な政権交代を実現しました。これは連合の文脈からいうと、03年の社会的労働運動への転換の一つの成果ともいえるものでした。

 ところが、せっかく念願の政権交代を果たしたのに、連合は民主党政権を十分に活用しませんでした。もし社会的労働運動の延長線上で国民運動を起こして民主党政権に政策要求を行い、目に見える果実を得ていれば、現場も政権交代の意義を実感できたはずです。現実には、慎重かつ自制的に振る舞いすぎ、そうなりませんでした。

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