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[82]「職責を果たすことが困難」で辞任

金平茂紀 TBS報道局記者、キャスター、ディレクター

セクハラの事実は認めず、今の状況では「職責を果たすことが困難」福田淳一財務事務次官は、セクハラをしたことは認めず、「職責を果たすことが困難」との理由で辞任した

4月17日(火) 午前中、「報道特集」の定例会議。今週の特集も、もうやることがほぼ決まっているようで、会議の最後に財務事務次官のセクハラ問題はやらなくていいのだろうか、と意見を申し上げた。旧「NEWS23」のLと飯を食う。思い出話に終始する。

 きのうの夜中に「週刊新潮」のゲラが回ってきた。目を通して、こりゃあ、もうアウトだな、と思った。今日と明日が日米首脳会談。外交の基本は、交渉の主体である政権に対する国民の信頼があるということだ。その基本が揺らいでいるのが今だ。加計学園関係の「首相案件」愛媛県文書をめぐって、去年の週刊朝日の記事が興味深い記事を報じていたことをいろいろと調べてみると実に面白いことがわかった。「調査情報」の最終校正。

政治への信頼と憲法改正

4月18日(水) 朝から雨模様。長い時間をかけて準備していた中東取材の予定が崩れる。ショック。午後3時半から自民党憲法改正推進本部の記者会見。日本記者クラブで。細田博之本部長、中谷元本部長代理ら4人が記者会見を行った。安倍首相が日米首脳会談で不在、かつ森友・加計問題で国会が空転しているなかでの、このタイミングでのこの会見。政権の岩盤部分の意図を感じとることができる。今のありのままの自衛隊を認める方向で憲法9条に書き込むと明言した。司会の毎日新聞・倉重篤郎専門編集委員が鋭い質問を浴びせていた。「政治への信頼と憲法改正は密接に絡んでいるでしょう」と。

 映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』のリューベン・オストルンド監督の前の作品『プレイ』(PLAY) をみる。こちらも怖い映画だ。ドキュメンタリー映画をみているみたいな感覚に陥る。

 夕方、福田財務事務次官がとうとう辞任すると表明。けれどもセクハラの事実は認めず、今の状況では「職責を果たすことが困難」との理由。財務省内でのぶら下がりインタビューに応じる福田次官の表情からは、むしろ強気な面も垣間見えた。日テレの女性記者が幹事社として果敢に質問していた。何だかひどい状況になってきたな。

 午後9時からCSのTBSニュースバード「ニュースの視点」で「ザ・スクエア 傍観者効果とメディアの行方」の事前収録。オストルンド監督へのインタビューも含まれている。Nディレクターが頑張ってくれた。この映画が多くの人に見てもらえればいいけれど。

 収録後、空腹のため近所のラーメン店で食事をしていたら、深夜0時からテレビ朝日で緊急記者会見があるとの情報が入る。あわてて局に戻って、初めの方をみていたら、テレビ朝日の女性社員がセクハラ被害者だと局が認めているではないか。会見を行ったテレ朝の報道局長は、女性記者が上司に相談したが二次被害が生じるおそれがあるなどの理由で自局で放送できないと言われたことなどを縷々(るる)釈明していた。そして上司から自分には報告があがっていなかったとも語っていた。これは結構大変なことになるかもと、あわててテレビ朝日まで駆け足で出かけた。記者会見場に着いた時には、会見はほぼ終了していた。何やってんだか。会見場の現場には、局からは社会部の若手記者とラジオ、それに『サンデー・ジャポン』のスタッフが来ていた。他局の顔見知りの記者と若干話をしてから局に戻る。

元「鬼デスク」のお通夜へ

4月19日(木) 朝、ストレスが極点に達して近所のプールでひたすら泳ぐ。とにかくフラストレーションを洗い流せ。日米首脳会談関連取材で元CSIS(米戦略国際問題研究所)にいた渡部恒雄さんにインタビュー。ワシントン支局勤務時代、滞米時期が重なっている。渡部さんの話は僕にとってはとても面白かった。少なくともアメリカの安全保障上の最大の関心がいまイランに向けられている水面下の状況を把握していることで信頼感を抱いた。

 その後、TBS報道局の大先輩・藤原亙さんのお通夜。藤沢駅近くの葬儀施設で。亙さんは僕がTBSという放送局に入社した時代(1977年)の直属の上司だった。当時は報道局の大部屋は赤坂・一ツ木通りに面した旧局舎の2階にあった。報道局ニュース部社会班。まだ政治や外信、社会などは「部」ではなく「班」だった。自分のTBS人生のなかではある意味で「黄金時代」に居合わせた感覚がある。取材記者としてのイロハをこの亙さんと国澤利水さんの両デスクに徹底的に教えていただいた。亙さんは非常に厳しい人だったから(自分に対しても実に厳しい人だった)「鬼デスク」、一方の国澤さんはソフトなので「仏デスク」と僕らは公然と呼んでいた。ベトナム戦争の取材でサイゴン陥落後も現地にとどまり続け取材をしていた伝説上の記者が亙さんであり、またロッキード事件の取材班のキャップをしていた記者が亙さんだった。よくお酒を飲み、よく議論をし、よく叱った。こんな誠実でかつ禁欲的な記者は、新聞・テレビ・通信社を問わず、それ以降お目にかかったことがない。

 お通夜では、僕の大先輩にあたる大川さんや笠井さんが記者時代の思い出を語っていた。心が打たれる内容だった。亙さんがサイゴン陥落当時に記した手記の一節を同じく大先輩の田近東吾さんが朗読していた。高校以来の同級生で生涯の友人だったという方の弔辞にもまいった。その後、藤沢駅近くの居酒屋で有志で故人を偲んで酒を浴びた。合掌。

『1984年』はブラック・ユーモア

4月20日(金) 早起きをして藤沢で亙さんの告別式に参列する。その後、東京に出て、丸の内へ。日米首脳会談関連で、藪中三十二氏へのインタビュー。

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