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二人の官房副長官が語る平成政治史

危機と平時に政官が担うべき役割は? 保守勢力の再編ははたして可能なのか?

石原信雄 園田博之 元内閣官房副長官

 

就任後初めての村山富市首相の記者会見に同席する園田博之官房副長官(右から2人目)と石原信雄官房副長官(右端)=1994年7月1日就任後初めての村山富市首相の記者会見に同席する園田博之官房副長官(右から2人目)と石原信雄官房副長官(右端)=1994年7月1日

 国内外で既成概念が揺らぎ、様々な危機が訪れた平成の30年。日本の「政と官」には何が求められ、それに応えてきたのか。ともに内閣官房副長官をつとめた石原信雄さん、園田博之さん(自民党衆院議員)、官界と政界の長老2人に聞いた。

 ●石原信雄・元内閣官房副長官

いしはら・のぶお 1926年11月、群馬県生まれ。東京大学法学部卒業、52年に地方自治庁入庁。自治省(現・総務省)事務次官をへて87年に内閣官房副長官に。竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市の7内閣を支え、95年退任。同年の東京都知事選に立候補したが、青島幸男氏に敗れた。橋本龍太郎内閣で公務員制度調査会の会長代理、第1次安倍晋三内閣で外交・防衛の司令塔となる国家安全保障会議(NSC)創設に向けた会議の座長に就くなど政府に提言を続ける。現在は財団法人・地方自治研究機構会長。著書に「官かくあるべし」など。

 ――石原さんは竹下内閣から村山内閣の7内閣、1987~95年にかけて官僚のトップとして官房副長官をつとめられ、その後も内閣機能の強化について提言をしてこられました。平成を政と官の関係から振り返るのに欠かせない方です。

石原 フルに平成につき合ったわけです。感慨無量ですよ。

阪神大震災で混乱

石原信雄さん石原信雄さん

――まず危機の際の官邸主導についてお聞きします。原点として1995年1月17日の阪神大震災があると思います。早朝の5時46分に発生し、官邸になかなか情報が上がりませんでした。

石原 あの日のことは非常によく覚えてます。出勤前に健康上の理由で毎日歩くんです。携帯ラジオを持って。あの日も暗いうちに歩いていたら、「関西方面で大きな地震がありました、震源地は神戸」と流れてきました。

 午前10時からの閣議の前に月例経済関係閣僚会議があり、予定してた案件について議論していたんですけど、秘書官か誰かから死者が100人か150人出たという情報が途中で入ってきたので私は席を外して、当時の国土庁防災局長を呼んで聞いたら、たいした情報が入っていない。そのうち警察庁から、大変な状態だと、死者が相当な数がのぼると。

 なぜ国土庁に情報が入って来なかったかというと、兵庫県の防災用の電話がひっくり返って通じないわけですよ。通常の行政ルートの電話は来ないが、警察ルートは別なんです。警察電話で人的被害がどんどん入る。そこで急きょその日の閣議は震災にどう対応するかの話に変わった。すぐ必要な手段を取ろう、何でもやらなきゃいかんとなった。

――自衛隊の出動が遅れたと批判がありました。

石原 被災地で消防は現地にいるから救助活動がテレビに映るが、自衛隊が全然映らなかった。私の部屋にも電話で随分抗議が来た。村山さん(富市首相)が社会党の左派出身だから自衛隊嫌いで出してないんじゃないかと。そんなことないよとだいぶ言ったんですけど。村山さんはとにかく何をさておいても自衛隊にやってもらわにゃいかんというので、私は防衛庁に電話した。防衛庁で中部方面総監部から姫路駐屯地の部隊に命じて出動させたが、かなり時間がかかった。神戸まではかなり距離があり、近づくと道路が寸断状態で車両が止まったりしてなかなか到着できなかった。

竹下登元首相の電話

――竹下登元首相から官邸に電話があったと聞きました。

石原 村山さんに竹下さんが電話で直接アドバイスされてました。秘書官から聞いてました。私はもう事務の方の関係で各省総動員でやらにゃいかんので奔走していました。官邸と国土庁の防災局を中心に、自治省は消防庁、防衛庁は自衛隊に指示して。私は次官諸君を集め、国土庁に報告させて「各省あげて対応せにゃいかん」とやった。

 中曽根内閣の官房長官だった後藤田正晴さんにアドバイスされました。私が官房副長官になって節目節目でがんがん意見を言ってこられた。自治相もされ、自治省時代からお仕えしていたもんですから、直属上司みたいな感じでご指導やおしかりをいただいていた。阪神大震災の時も電話で君こうしろああしろと。「非常事態だからとにかく各省マターじゃない。内閣が率先して引っ張っていかなきゃいかん」と言われました。

阪神大震災で崩壊した家屋から救出された被災者。自衛隊員たちが担架で運ぶ=1995年1月18日、兵庫県西宮市北口町阪神大震災で崩壊した家屋から救出された被災者。自衛隊員たちが担架で運ぶ=1995年1月18日、兵庫県西宮市北口町

辞めるに辞められず

――石原さんは阪神大震災の翌月に官房副長官を辞されました。

石原 私は竹下内閣から宇野、海部、宮沢と自民党内閣の番頭をしたが、(自治省の)大先輩の鈴木俊一東京都知事から「君も官邸は十分務めたんだから辞めて副知事で俺の所に来い」と言われていて、実は海部内閣で辞めるつもりだった。

 しかし、宮沢喜一さんがその後の首相になり、自治事務次官をされた私の先輩で弟の宮沢弘さんが、「兄貴が君に残ってくれと言っている」と。「大先輩の鈴木都知事から副知事にと言われていて、何遍も断れない」と言ったら宮沢弘さんが弱ったなと。そしたら斉藤邦吉さんという宮沢派の一番の番頭格の衆院議員が、「鈴木君なら、おれ内務省で同期だから断ってくるよ」と言って鈴木さんに会って、「宮沢内閣だけはということで了解とったから」と。それで宮沢内閣に残ったんですよ。

非自民連立政権でも「番頭」

 宮沢さんが辞めた時にお役御免だと思っていたら、非自民連立の細川内閣ができた。細川護熙さんはそれほど親しいわけではなかったが、官房長官に(自治省出身で新党さきがけの)武村正義君がなって、私に「引き続きやってくれ」と。彼は後輩ですから、私は「そうはいかないよ。自民党の番頭が非自民の番頭とはいかないじゃないか」と。そのうちに武村君がどうも後藤田さんに泣きついたらしい。

 それで後藤田さんから「君の言うとおり非自民に残るのは筋じゃないけれど、細川政権には内閣の運営に慣れた人がいないので、慣れるまで手伝ってやれよ」と。それじゃ軌道に乗るまでと、細川内閣の下で臨時国会で、懸案処理が済んだら辞めさせてもらおうと思っていた。そしたら細川さんから「一国の総理として予算が大事なんで上がるまで残ってくれ」と言われた。予算と言われると確かに困るから、(1994年度)予算が上がったら辞めさせてもらうと約束していた。

 そしたら細川さんが佐川急便の問題で予算が上がる前に辞めちゃった。副総理の羽田孜さんが引き継いで、こんな混乱状態で辞めるって言えなくなっちゃって、とにかく予算が上がってけりがつくまでということでおったら、途中で羽田さんが辞表を出して首班指名になって、だれも予想しなかった社会党委員長の村山さんを自民党が担いで「自社さ」(自民、社会、さきがけ)政権になった。

「なりたかったわけじゃない」と言った村山首相

 私は村山さんは存じ上げていなかった。それでもう辞められると思ったら、地元が同じ群馬の社会党の山口鶴男さんが私の所へ来て、「今度村山がやることになった。村山に会ってくれ。ホテルで待ってるから」と。それで村山さんに会ったらいきなり「引き続き手伝ってくれ」という話で、「それは私困ります、前々から辞めさせてもらおうと思ってるので」と申し上げた。

 その時、村山さんが「僕だってなりたくて総理になったわけじゃない、推されちゃってなったが、なった以上はちゃんと総理大臣としての勤めを果たさにゃいかんから、あんた嫌だろうが慣れるまでつき合ってくれ」と。私は「私にも美学があります」と言ったし、何よりも気になったのは、社会党の左派は安保破棄論なんです。「残って手伝えとおっしゃるけれども、安保条約破棄だと私もちょっと自信がありません」と言った。

「安保条約堅持」にびっくり

 村山さんは「そりゃそうだろ。私は社会党左派で安保条約破棄論だが、一国の総理として選ばれた以上は、社会党左派じゃなくて日本国の総理としてやるつもりだから、自衛隊、安保条約については心配しないでくれ。だから手伝ってくれ」と。それで記者会見で村山さんが安保条約を堅持すると言った。びっくりしたが、村山さんも腹をくくったんですね。

 それで村山内閣が軌道に乗るまでということで残って、自社さ政権ですから、それまで与野党対立で処理できなかったたくさんの法律案を、臨時国会で全部処理した。これでお勤めが終わったと思っていたら、年が明けて阪神大震災が起こって、辞めるに辞められなくなって、震災の緊急立法を閣議決定して辞めたんです。村山さんは「約束だからしょうがない。結構だ」と。そういう経緯で私は辞める機会がなかったんですよ。

細川首相に「役人の人事は任せていただけますか」

――自民、非自民、自社さと政権の枠組みを三つ経験されましたが、首相官邸にいていろんな政権の枠組みに対応できる官僚の存在意義をどうお考えですか。

石原 非自民の細川政権で各省が動揺したんですよ。(幹部人事が)どうなるかと。事務の副長官というのは政治と官僚の接点にあるわけで、私は念を押したんですよ。「どうしても残れというのなら残りますが、ただ一つ、各省とも不安を持っているから、役人の人事は任せていただけますか」と。細川さんは「結構です」と。

 各省には次官会議でだったか、内々に「人事の問題は心配しないでくれ」と言いました。村山さんには、各省が新内閣に協力するだろうかという不安があった。国政に停滞があってはいかんということで、村山さんに「役人の問題については、私も及ばずながら新内閣に政策面では協力させますから、心配しないでください」と言ったのを覚えてますよ。いずれにしても私の在職中は、政権が替わったことで各省の行政が停滞することはなかったと信じております。妙な人事をやったことは一切ありません。

内閣強化へのこだわり

日本版NSC(国家安全保障会議)発足に向けた官邸機能強化会議に座長として臨む石原信雄氏(左から2人目)。右隣は安倍晋三首相=2007年2月8日、首相官邸日本版NSC(国家安全保障会議)発足に向けた官邸機能強化会議に座長として臨む石原信雄氏(左から2人目)。右隣は安倍晋三首相=2007年2月8日、首相官邸

――官房副長官を辞めた後、橋本内閣の行政改革会議で提言されたり、10年後の第1次安倍内閣で日本版NSC(国家安全保障会議)創設に向けた会議の座長を務めたりと、ずっと内閣機能の強化に携わっています。

石原 ええ。橋本行革会議で私が強調したのは、内閣と各省の関係で制度的に内閣の指導力があまりないんですよ。行政は各省大臣が分担管理するという各省割拠主義が伝統的に強かった。内閣の指導力が制度的には担保されていない。むしろ私が副長官をしているころは、各省の次官や局長との人間関係で協力してもらう面が多かった。官邸がこうしたからこうしようという形じゃない。官邸が指示しても各省が納得しないと動かない制度だった。

 だから橋本行革会議では、「割拠主義を克服するために、内閣の指導力をもっと強くした方がいいんじゃないか」と。危機管理については、非常災害の時はもっともっと政府、内閣が力を発揮できるようなことを考えた方がいいと申し上げた。阪神大震災への対応の反省から「罪滅ぼしだ」と思いがあるんですよ。後藤田さんから、もっとびしっと各省にやらせないかんと言われたが、制度的にはそうなってないんですよ。

「結局、人事権なんです」

――その後の制度改革で、危機に対応するための内閣機能は平成を通じてだんだん整備されましたが、その一方で平時の官邸主導も強くなりました。

石原 ええ。私の体験では官邸の指導力が弱いんじゃないか、もっと強くした方がこの国のためになるという意味で申し上げてきた。結局ね、人事権なんですよ。

 1947年に国家公務員法ができた時、それまで内閣が非常に強かったが弊害があるということで各省の人事権を確立させ、内閣はあまり口出しできないようになった。

 だけどそれではいろいろ困るだろうということで、後藤田さんも絡んだらしいが、各省の幹部人事は官邸に事前に了解を取るという閣議了解のようなものができた。それで各省から事前にこうしますと了解を取りに来たが、私が官房副長官の頃も人事権を各省大臣が握っていた。

 多くの省は事務次官が「こうしますので了解して下さい」と。特に問題がなければこっちも別に異を唱える必要はないからだいたい了解したんですが、省によっては官房長が説明に来るようなところがあった。要するに官邸に報告すりゃいいんだと。これじゃ内閣の指導力を発揮するにはちょっと問題だなと思ったですね。ですから橋本行革の時には、内閣の指導力をもうちょっと強くした方がいいんじゃないかと申し上げた。

内閣人事局の功罪

――各省の幹部人事を官邸でグリップしようというのは、橋本行革会議の提言にもあるし、2009~12年の民主党政権も目指しました。そして第2次安倍内閣になり、2014年に内閣人事局ができました。

石原 安倍さんになって内閣人事局ができて、各省幹部人事については総理と官房長官が作る名簿の中から選ぶと。各省が上げた材料を元に、内閣が作る名簿の中かから各省大臣は幹部を選ぶと。ですから任命権は各省大臣が持っているが、実質的な人事権が内閣に移っちゃった。

 そういう意味で今は内閣の指導力は強くなっているが、若干感想を言わせてもらうと強くなりすぎたかなと。各省が萎縮しちゃう心配があるんですね。内閣が人事で強い権限を持つのはいいけど、もってるだけで意味があるんですから、あまり行使しない、基本的には各省の原案を尊重する方がいい。権限をもちろん政策面で内閣の指導力を強化する意味で内閣が人事権を持つのはいいが、あまり振り回さない方がいい。

決裁文書改ざんは「考えられない」

――最近の財務省の決裁文書改ざん問題などをみると、官僚がどうしたのかと思います。

石原 あれ見ててちょっと残念に思うのは、国会答弁は何でもかんでも全部しゃべるわけじゃなくて、必要最小限ですよ。聞かれた以上のことを答弁でしゃべる必要はない。なのに答弁内容と整合性とるために決裁文書を書きかえるなんて考えられない。自信がなくなったからなんですかね。

 やはり行政ってのは各省大臣が分担管理しているわけですから、内閣の指導力を強化するのは悪いことじゃないけど、各省が萎縮しないようにすることも必要なんですよ。もちろん政策は時の政権、政治が決める話です。しかし実施面は行政のルールがあるわけですから。官僚組織の心構えとしては、各省それぞれの行政分野の基本理念と、政策の実施にあたってのルールはしっかり守ってもらいたい。

情報公開、文書管理を

――橋本行革会議の最終報告では、内閣機能強化の一方で説明責任や情報公開も提言しています。しかし実際は文書管理や情報公開がおいついていないのではないですか。

石原 内閣が強い指導力を持つのは,時の政権の政策を効率的に実行するためにも大事だが、行政の内容に関する情報公開はしっかりやってもらいたい。文書管理もそうですよ。どういう政権が誕生しようと、行政のルールはきっちり守ってもらいたい。

――平成を通じ、内閣機能強化は一定の成果があったが,行きすぎた面もあったということでしょうか。

石原 ちょっとね。橋本改革会議の提言を受けて省庁は2001年に再編成しますが、私が会議で申し上げたのは、「省庁を時代の変化とともに再編成するのは賛成だが、機能別に意思決定がきちっとできるようにすべきだ」と。ところが残念ながら橋本行革では省の数を22から10にすることに非常にこだわったため、本来違った機能の役所をくっつけた。例えば総務省ですが、私の古巣の自治省と郵政省は何の関係もないわけですよ。それが同じ大臣でしょ。官僚諸君も戸惑っちゃうわけですよ。

省庁再々編のすすめ

 そのためにどうなっているかというと、内閣府に担当大臣がいっぱいいて、沖縄とか北海道とか担当するけど手足がいないんですよ。手足は他の省庁から借りてきた猫になっちゃうから、力が発揮できない。ちゃんと機能別に省庁を再編成して、そのトップは次官以下の人事権を持ってやらないと動かないですよ。そういう意味で省庁再編成をもう1回やり直してもらいたいですね。

 内閣機能の強化と、省庁は機能別に決定できるような仕組み、さらにいえば時代が変化すると組織が対応しないといけないから、行政組織は10年ぐらいたったら見直すべきだと。ところが橋本行革でやったものは基本的にはそのまま残っていて見直しがない。私は10年と申し上げたが、世の中変わっていくわけですから、一定の間隔で省庁の組織を見直すことをルール化すべきですよ。

官僚は政権に媚びず誇りをもって

――省庁を柔軟に再編して対応すべきところを、官邸に頼りすぎているのかもしれませんね。

石原 ええ。かつ官邸機能がかなり強くなっちゃってる。私の時は各省が強すぎて苦労したんですが。官僚諸君は時の政権に媚びるような忖度はせず、誇りを持ってやってもらいたい。

――現役の官僚から苦情は来ませんか。

石原 もう年が違うからあまり聞く機会もないですけどね。まあ20年も前に辞めちゃったわけですから。各省が萎縮しちゃうのが心配ですね。(2018年4月12日/聞き手 朝日新聞政治部専門記者・藤田直央)

           ◇

●園田博之・元内閣官房副長官(自民党衆院議員)

そのだ・ひろゆき 1942年、熊本県生まれ。日本大学卒業後、日魯漁業(現マルハニチロ)でサラリーマン生活を送った後、内閣官房長官や外相などを歴任した父の園田直の後を継ぎ、1986年衆院選で初当選(旧熊本2区)。以来、11回連続当選。93年6月、自民党を離党して新党さきがけの結党に参加。94年、自社さ連立の村山富市内閣で内閣官房副長官に任命される。98年のさきがけ解党後、自民党に復党。政調会長代理などを歴任し、政策通として活躍する。2010年に自民党を離党、たちあがれ日本、日本維新の会などの所属するが、15年自民党に復党。17年衆院選で熊本4区から比例九州ブロックに転出。

――園田博之さんが国会議員に初当選したのは昭和末期の1986(昭和61)年です。1期目の途中で元号が「平成」に変わり、平成の30年間、ずっと議員をつとめられました。その間、自民党、新党さきがけ、たちあがれ日本、日本維新の会などさまざまな政党に所属されましたが、特筆するべきは、1993年6月に自民党を離党、新党さきがけを旗揚げしたことです。90年代の新党ブームを本格化させた当事者と言えますが、そもそもなぜ新党をつくろうと考えたのでしょうか。

自民党に対抗する政党が社会党だけでいいのか

園田博之さん園田博之さん

園田 1989年に冷戦が終わり、イデオロギーの対決で政治を活性化させられないことが明らかになった。にもかかわらず、自民党に対抗する政党が社会党だけでいいのか。まっとうな第二の保守党というか、保守勢力をつくれないか。そう考えたんだね。

――戦後の日本政治を支配したのは自民党と社会党が対峙する「55年体制」です。ただ実態は自民党の一党優位で、一貫して自民党が政権を担っています。それではダメなのですか。

園田 自民党が劣化しました。具体的に言うと、内部で政権を持ち回る。とりあえず派閥の「長」にさえなれば、首相になれる。首相にならないまでも、派閥にいればポストが回ってくる。政策は二の次。そんな政治が、田中角栄さんがキングメーカーになってから、ずっと続いていました。私はまだ、「若手」でしたが、これではいけない、自民党はかならず行き詰まると思いました。

――とはいえ、55年体制の最末期、自民党支配の爛熟期に離党するというのは、相当な覚悟が必要ではないですか。

想定外の細川非自民連立政権の成立

園田 自民党と政権を争えるだけの勢力を、さきがけだけでつくれるとは思っていませんでした。なにしろキャリアがない。ほとんどが当選2回ですから。しかも、たった10人。だけど、自民党は絶対に行き詰まるので、とりあえず自民党から離れ、力を培っておけば、いずれ自民党にかわる勢力ができるとき、仕事ができるんじゃないか。それぐらいの気持ちでした。いきなり政権交代が起きるとは考えてはいなかった。

――さきがけが発足した直後の1993年7月の衆院選で自民党は過半数を割りました。さきがけと同時に自民党を割って出た新進党の小沢さんが動き、細川護熙・日本新党代表を首班とする8党派の非自民連立政権が成立、さきがけも参加しました。

園田 小沢さんが自民党を出るとは知りませんでした。ただ、自民党を出たとはいえ、小沢さんと一緒に行動したら意味がない。最も自民党らしい政治家でしたから。われわれはいずれ日本新党と合併する約束で、細川さんとは「予定どおり政党をつくり、静かにコトを進めましょう」と確認していた。だが、そこは百戦錬磨の小沢さん。アッという間に細川さんと話をつけ、無理やり8党派の連立政権をつくって、自民党から政権を奪った。止めることはできなかったですね。

――細川政権の誕生は想定外の事態だったんですね。

園田 われわれは当初、細川政権に反対でした。しかし、選挙後、自民党につくか、非自民にくみするかの判断を迫られ、窮したとき、田中秀征さんが「政治改革だけを目的とする政権なら協力しましょう」という案を出した。それを小沢さんがのんで細川政権ができ、さきがけも政権に入ることになりました。もう少しキャリアがあり、熟慮できれば、もうちょっとうまくできたかもしれませんが……。

大事なのは政界再編

――さきがけの「政治改革政権の提唱」ですね。さきがけには政治改革に熱心な議員が多かった印象ですが。

園田 武村正義さんや鳩山由紀夫さんらメンバーの多くは、選挙制度改革をはじめとした政治改革に熱心でしたね。ただ、私は選挙制度改革はどうでもよかった。大事なのは政界再編。ちなみに、「政治改革政権」のアイデアを出した田中秀征さんも選挙制度改革には反対でした。

――細川政権は衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入する選挙制度改革を柱とする政治改革を成し遂げますが、1994年春に総辞職、短命に終わりました。

園田 内部がバラバラでしたから、当然だったかもしれません。小沢さんにとっては、反自民の政権を担当できる勢力をつくることが一番大事。そのためには、少数政党をなくし、すべて大きな政党にせざるを得ない選挙制度にすればいいと考えて、小選挙区制度にまっしぐらでした。ただ、われわれはそこまでは考えていない。さきがけは選挙制度改革に熱心でないのではと、小沢さんは非常に疑っていました。同様に細川さんのことも疑っていました。

――細川さんも中選挙区連記制論者でしたからね。

園田 あと小沢さんは本格的な政権をつくりたかったようです。当時、朝鮮半島問題が極めて厳しい状況で、日米関係を強固にしないといけないと思い定め、ダメなものは切って捨てないとやっていけないと考えた。そこで社会党の左派を切る。ついでにさきがけも切ってしまえと、細川さんとわれわれのきずなもぶち切られてしまいました。

まっとうな第二の保守勢力をつくりたかったが……

――小沢さんが考えた政界再編と、さきがけが考えた政界再編とは違うのですか。

園田 まったく違います。小沢さんは、自民党以外の政党を全部まとめてひとつの政党にするというもの。実際、新進党という、各党寄せ集めの政党をつくりました。あのときの核は公明党ですよ。公明党や社会党といった組織をもつ政党を巻き込めば、十分に選挙を戦え、政権を狙える政党になるというのが、小沢さんの考えでした。

――さきがけの考えた政界再編は。

園田 なにもかも一緒だと、自民党以上にいい加減な政党になる。それでは意味がありません。時間をかけ、自民党と当時の野党との中間的な政党ができないのかと考えていました。

――冒頭で言われた、第二の保守勢力ですか。

園田 そうそう。まっとうな第二の保守党をつくると。

――細川首相が退陣した後、非自民連立の羽田孜政権が発足、さきがけは「閣外協力」の立ち場を取りますが、社会党が連立を離脱したため少数与党政権となり、短命で終わります。その後、社会党の村山富市委員長を首班に担ぎ、さきがけを間に挟むかたちで自民党と連立する、自社さの村山政権が誕生しました。

園田 細川さんの後、小沢さんは羽田さんを担ぎました。細川さんはついていきましたが、さきがけは別れました。このまま小沢さんを中心とする勢力が政権を握るのは危険だと考えた末、村山政権をつくることにしたのです。思うような政界再編ができないなら、いったん元の「自社体制」に戻そうと。閣外協力に転じたときから、そうしようと決めていました。

細川護熙首相の辞意表明を受け、後継の非自民連立政権への閣外協力声明を発表する新党さきがけの田中秀征代表代行と園田博之代表幹事(右)=1994年4月15日、東京都港区赤坂の党本部

村山さんを口説いてできた自社さ政権

――社会党への働きかけは。

園田 しましたよ。村山さんだけに照準を絞り、口説きました。

――日米安保や自衛隊の問題は。

園田 どうしろこうしろとは言いませんでした。それは、首相を引き受けたときに、村山さんご自身で判断された。われわれと取引をしたわけではありません。

――村山さんはすぐにのってきたのですか。

園田 「器じゃない」となかなかのらなかった。しかし、当時の政党の力のバランスを考えると、それ以外に方法がないと察し、仕方がないと引き受けたのです。

――他の党には声をかけなかったのですか。

園田 かけてないですが、民社党の大内啓吾委員長(当時)が近寄ってきて、国会図書館で村山さんも入れて会ったりしましたが、あぶないなと思いましたね。

社会党官邸の官房副長官に

――村山政権が誕生。園田さんは官房副長官になられましたね。

園田 首相が社会党なら、官房長官も当然、社会党でしょう。首相官邸に自民党の経験者が入っていたほうがおいたほういい。けれど、バリバリの自民党だと社会党官邸を見張っているようでよろしくない。そんなわけで、私が副長官になったわけです。

――政権が次々に代わった当時、政策などの一貫性を保つための柱は不可欠だったと思います。ひとつの柱が何代もの政権のもとで事務の官房副長官をしてきた石原信雄さん。その相手方の政務の副長官に自民党の経験者を入れるというのは、絶妙の組み合わせです。石原さんとはよく話をされましたか。

園田 しましたよ。いろんなことをよく知っていました。阪神淡路大震災後に古川貞二郎さんに代わったのですが、両氏とは記者の皆さんに分からないように、事務と政務の副長官室の間を始終、行き来して相談していましたね。

阪神大震災で見えた後藤田さんのすごさ

――その阪神大震災が1995年1月17日、起きます。危機管理は政治の要諦ですが、当時のことで記憶に残っていることはありますか。

園田 官邸では後藤田正晴さんに声をかけてチームをつくり、しょっちゅう会議をしていました。

――後藤田さんに声をかけたのは誰でしょうか。

園田 それは覚えていませんが、後藤田さんから大きな指針や課題を出してもらい、官僚が対応するようにしました。後藤田さんは行政組織のことをほんとうによく知っていて、感心しました。会議には私も1、2回、出席しましたが、大方針を的確に指示していましたね。

――震災当日、官邸はどんな様子でしたか。

竹下さんから受けた「総理記者会見を」という電話

園田 朝9時から経済関係の政府与党会議がありましたが、話題は二信組問題。震災はぜんぜん話題にならなかった。10時から閣議があり、担当の小沢潔(国土庁長官)さんが「死者は2人」と報告したが、さすがに閣僚の間から「こんなところにいちゃまずいんじゃないのか」という声が上がり、現地に向かうことになった。通産大臣だった橋本龍太郎さんが閣議後、私のそばを通るとき、「俺は死者4名と聞いたぞ」と言ったのを覚えています。

 村山さんが記者会見をやると言うのを、石原さんは止めました。「総理の記者会見というのは、よほど考えてからやったほうがいい。危機感を与えることも大事だけど、余計な不安感を与えると、かえってどうだろうか」ということでした。

 そうしたら昼休みに、竹下登(元首相)さんから私に電話があった。「亡くなった人が500人を超えた。国の一大事だ。総理記者会見をしないといけない。国を挙げて取り組まないといけない」と言う。すぐ執務室まで行って村山さんに伝え、午後4時から記者会見をすることになりました。

――今ならそういう情報は官房長官に集約され、官房長官から総理に伝えると思いますが、そうではなかったのですね。

園田 だから、その後、法律も変えたし、官邸の中に危機対応のチームをつくった。

――社会党官邸だったから、情報が入らなかったということは。

園田、そういうシステムになっていなかったので、自民党官邸だったとしても同じようなものでしょう。

「政権は第一党が」と言っていた村山首相

――大震災に続き、3月にはオウムのサリン事件も起きました。村山政権にとって危機管理に忙殺される日々が続きます。

園田 村山さんにはできるところまでがんばろうという気はあったと思いますが、首相になった当初から、小沢さんに危険なことをされないような体制ができれば、自民党に政権を渡そうとは考えていましたね。憲政の常道として、第一党が政権を担わないとおかしいと、よく言っていたましたから。

――結局、1996年の冒頭、村山さんは辞任します。

園田 それでも長くやったほうだと思います。1995年夏の参院選の後、自民党総裁だった河野洋平さんに代わってくれって突然、言い出した。あれは冗談ではなかった。

――この参院選では、社会党とさきがけが敗北。前年暮れに発足した新進党が勢力を伸ばしました。小沢さんの危険な政治を終わらせるには至っていないと思いますが。

園田 だから、われわれは「ノー」だったんです。とにかく、予算の原案をつくるところまではやらないとダメだと言うと、村山さんは「分かった」と。それからは、2人きりになるたびに、「あれは間違いないだろうな。楽しみにしとるで」と言われました。通常国会で予算案審議に入ったら、辞めるに辞められなくなるから、その直前に辞めたわけです。

鳩山氏から出た驚きの「排除の論理」

――村山さんの後は自民党の橋本さんが首相になりました。連立の枠組みは「自社さ」のままですが、自民党に首相を戻すのは仕方なかったんですか。

園田 そうでしょうね。われわれが離党したときに思い描いた政界再編は失敗した。選挙制度は小選挙区になっているし、これはもう、一からやり直すしかないという心境ですね。

――1996年秋に小選挙区制での初めての衆院選があり、さきがけは2人しか当選しませんでした。その前に、鳩山さんがさきがけを割って民主党をつくりましたが、鳩山新党の動きはどうご覧になっていたのですか。

園田 このままだと社会党もさきがけもなくなってしまう。さきがけで当選の可能性の薄い人は新党から出るべきだ。それは社会党もそうだろうと。彼らを引き受ける新党をつくるべきだと、鳩山を励まし、支援もしたのですよ。ところが、そこで飛び出したのが、「排除の論理」です。新しい個人参加型の党をつくりたいので、党を象徴する人には来て欲しくないと、武村さんが排除された。

 後で聞いたら、私とか武村とか田中秀征とかと一緒になるのが嫌だったようですね。鳩山さんは。「すべてこの3人(武村、園田、田中)で決めて、自分の意見を聞いてくれない」と言ったらしいが、違うんですよ。いつも4人で決めようとしたんだけど、鳩山さんが意見を言わないんです。

――そうでしたか。それはともあれ、さきがけのメンバーを新党に送り込み、政界再編を託したと。

園田 その意味では根っこは残した。結果的に、鳩山新党が基礎になって、政権交代までいったわけですからね。

「不信任案賛同はダメ」と主張した加藤の乱

――さきがけが解党したあと、先生は自民党に復党されました。

園田 さきがけが目指した政界再編成失敗した。時間をかけてやり直さないとダメだとなったとき、私にとって足場を置く政党は、自民党以外は考えられなかった。それで、しばらく間をおいて復党しました。

――自民党に戻り、以前に籍を置いた清和会ではなく、加藤紘一さんの宏池会に所属されました。

園田 復党したときは、どの派閥にも入らないと決めていたのですが、加藤さんと自社さ時代に懇意になっていて誘われたので、選挙が終わった後、宏池会入りしました。

――「加藤の乱」のときはどうされましたか。

園田 あれには迷惑しました。加藤の乱で私がかなり大きな役割を果たしたのではないかと、自民党内からさかんに言われて……。

――自民党を割ろうとしたのではないかと?

園田 そのように随分、言われました。だけど、この件ではまったく相談されていないのです。加藤の乱について言えば、森喜朗政権に対して極めて批判的なのはいい。ただ、野党が出した内閣不信任案に賛同するというのはおかしいと思っていました。派内の全議員を対象にした意見交換会でも、「不信任案には絶対に反対しなくてはダメ」と主張しましたね。われわれは自民党を出たとき、宮沢喜一内閣への不信任案には反対して離党したのですよ。

 自民党員の義務として、自民党内閣への不信任案にはきちんと反対したうえで、仮に森さんが内閣を改造するなら、それには反対して、宏池会からは閣僚を出さないという対応をとるべきだと、当時、私は主張しました。そもそも、加藤さんには、自民党を割る覚悟がまったくできていませんでした。その覚悟がないのに、ネットで応援されたので、突っ込んでしまった。

――さきがけは自民党を割る覚悟を秘めつつ、不信任案に反対した。加藤さんは自民党を割る覚悟はないのに、不信任案に賛成しようとした。真逆ですね。

園田 そうです。でも、あのときは加藤さんが自民党を割って出ても、自民党が割れる状況になかった。

自民党の加藤紘一元幹事長による「加藤の乱」。反主流派の合同総会に出席した加藤氏は、国会に行き森喜朗内閣不信任案に賛成票を投じると発言し、議員から押しとどめられて涙を浮かべた=2000年11月20日、東京都港区のホテル自民党の加藤紘一元幹事長による「加藤の乱」。反主流派の合同総会に出席した加藤氏は、国会に行き森喜朗内閣不信任案に賛成票を投じると発言し、議員から押しとどめられて涙を浮かべた=2000年11月20日、東京都港区のホテル

小選挙区制のもとで「新たな自民党」に

――小選挙区制のせいですか。

園田 小選挙区時代の「新たな自民党」が出来つつありました。小選挙区制では党がまとまらないと戦えない。勝手な行動にはおのずと限度がある。われわれが離党して、新党さきがけをつくった中選挙区のころとはまったく違います。

――その後、小泉純一郎さんが首相になります。園田さんも郵政民営化で小泉首相を党から支えましたが。

園田 小泉さんがかつて猛反対した小選挙区における政権の強み、執行部の強みを最大限にいかして、どうしてもやりたいと言い続けた郵政改革を進めた。私も自民党の郵政改革合同部会の座長をやらされましたが、小泉さんがただならぬ覚悟で「政権の最大の命題」というので、これはもうやるしかないと手伝いました。

――「自民党をぶっこわす」と言った小泉さんのもとで、自民党もかなり変わったのではないですか。

幅の広さや政策論争が減った自民党

園田 良きにつけ悪しきにつけ、自民党は変化しました。欠点から言うと、自民党から多様性、幅の広さが失われました。安全保障でも憲法でも、かつては右から左まで幅が広かったのに、今はそれほどではない。小選挙区制になって狭まった印象です。第2次以降の安倍晋三政権では、幅は狭くなったけれどその分明確になった点が支持された面もありますが、これからどうなるかが心配ですね。派閥が政策を主張しなくなったのも気掛かりです。

――かつては派閥同士で政策を争いました。一応、政策集団といっていましたし。

園田 派閥同士が政策論争をし、たとえ負けても執行部を支えましょうということにならないといけないでしょうね。自民党の将来を考えると。

――こうした変化の背景にも、小選挙区制があると。

小選挙区制は変えないといけない

園田 そう思いますね。私は小選挙区制をやめるべきだと思っています。自民党のためだけではない。政界再編という面でも。自民党が行き詰まったときに代わりになる政党ができるためには、自民党が大きく割れないといけませんが、先述したように、小選挙区だとそれは難しい。

――自民党が割れないと、キャリアとか経験を積んだ政治家のいる対抗勢力にならないという意味ですね。

園田 そうですね。だからこそ、選挙制度を変えるべきなんです。小選挙区制を変えないと、日本の政治は退化するばかり。政界再編ができないどころか、人材育成や政党を育てるという意味でも、悪いところばかりでてくる。10年かかってもいい。まずは選挙制度を変えないと。あの改革は失敗でしたね。

――民主党政権のころ、園田さんは自民党を離党し、「たちあがれ日本」の旗揚げに参加されます。民主党からこぼれるものの受け皿になりたいという狙いだったんですか。

園田 政界再編へのチャレンジという気持ちもあったけど、うまくやればできるぞというほどの自信はなかったね。そもそも「たちあがれ日本」は右派色が強くなって、受け皿にもならなくなりました。

原点は1987年の「中曽根裁定」

――その後、再び自民党に戻り、現在に至ります。政治家人生30年を振り返って、いまどんな思いですか。

園田 思えば私が国会議員になった翌年に中曽根康弘さんが首相を辞め、中曽根指名で竹下登さんが首相になった。私が政界再編をしないと日本の政治はダメになると思ったのは、まさにあのときです。

 1987年10月31日の夜、いわゆる「中曽根裁定」が下る。1年生議員として、派閥の領袖である安倍晋太郎さんの応援を毎日やっていて、家に帰ってテレビを見ていたら、中曽根さんが出てきて、「裁定」で竹下さんが選ばれた。テレビに映った竹下さんの選対本部に安倍派の幹部がお祝いにいっているのを見て、「なんだ、これは」と思った。

 以来、政界再編を目指し、新党さきがけを旗揚げして再編のきっかけまではつくれただけに、あのときもう少し思慮深く行動し、違う結果を出せなかったのかと、いまも悔やむばかりです。

――一番悔やむのは。

園田 細川政権ができたことですね。自社さが日本政治をダメにしたと言われるけど、自社さをつくったときは、ダメなのは覚悟で緊急避難的にやったわけです。

――その後の20数年間は長かったですね。

園田 いったい何をしていたのかと思います。繰り返しになりますが、だからこそ選挙制度を再び変えてもらいたい。何年かかってもいい。以前の中選挙区の弊害をなくすような制度について、議論する必要があります。(2018年4月9、11日/聞き手 朝日新聞WEBRONZA編集長・吉田貴文)