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女性政治家が増えたあと、社会は?(上)

政治家も男女同数に近づけるべきだという「大義」は左右を横断して支持を得たが……

三浦瑠麗 国際政治学者・山猫総合研究所代表

 超党派が推進した「政治分野における男女共同参画推進法」(候補者男女均等法)が成立しました。日本で女性の議員を増やそうとする法律ができたのは画期的なことです。

 全会一致で可決されたという背景を見れば、男女が平等であり、政治家も男女同数に近づけるべきだという大義が、政治の左右のスペクトラムを横断して支持を得たということができます。そこで本稿では、女性の政治家が増えたあと、どのような社会になっていくことを意味するのかについて考えていきたいと思います。

市川房枝さんという人

 女性と政治の問題を語るうえで外せない先人として、市川房枝さんという人がいます。戦前から女性の参政権や権利拡大のために戦い続けた人でした。

記者会見をする市川房枝さん1974年8月13日、東京都渋谷区代々木の婦連会館記者会見をする市川房枝さん1974年8月13日、東京都渋谷区代々木の婦連会館

 彼女は、多くの女性が関心を持つけれども男性エリートに看過されがちな課題、例えば身の回りの生活に関わることや、危険な労働条件などについて議論を提起し、特権層の汚職に批判的でした。

 もちろん、市川房枝さんの人生にも負の側面はあります。彼女も他の日本の政治家や言論人と同じように、戦争に協力したからです。軍国主義にシンパシーを寄せていたと受け止められかねない言動がありました。けれども、市川さんが戦後、公職追放にあったのは、彼女が特別に国粋主義的だったからではなくて、女性として初めて影響力のある公人たりえたからです。つまり、彼女は政治権力さえ握っていなかったけれども、個人として、真にパワフルなリーダーであったわけです。

 戦後、市川房枝さんは、婦人参政権の生みの親として、男女差別を色濃く残した保守と戦い続ける人びとの象徴的存在となります。彼女は戦後、男女平等だけでなく、より平和を強く求める方向に舵(かじ)を切り、平等と平和が背中合わせのものであることを主張しました。それはおそらく、実感に基づくものでした。戦後、GHQが、彼女が今まで戦い勝ち取ろうとしてきた男女平等の諸制度を速やかに日本に導入し、平和な戦後という時代の中で日本女性の地位が向上していったからです。

女性の権利拡大につながった戦時動員

 けれども、歴史的な現実がどうであったかといえば、各国で民主化が完成し、男女の普通選挙が行われるようになったのは、第1次世界大戦および第2次世界大戦における国民の総動員を通じてでした。国民は戦争に動員され、参加することを通じて、政府から見て無視できない存在へと変化していったからです。

 女性の戦時動員も、女性の権利を結果的に拡大することにつながったわけです。同様に、所得格差が大幅に是正されたのも、第2次大戦とその後の復員に伴う再配分を通じてでした。市川さんの大政翼賛会支持と女性の地位向上運動は、グローバルに見ても、矛盾するものではなかったわけです。

一つの政党や陣営に属しない男女平等運動

 市川房枝さんのたどった運命に思いをはせると、そこに一つの教訓が浮かび上がります。男女平等運動というものが必ずしも一つの政党や陣営に属するものではないということです。

 女性は本来、多様です。市川さんの時代には、女性は政治集会を禁止されており、婚姻や性愛をめぐる権利も平等ではなかった。人口の半分を占める人びとが、残りの半分に従属していたわけです。男女差別というのは、それこそ神道連盟から労働組合にいたるまで幅広く存在している、まさに左右を横断する問題だったのです。

 もしも、政治的な左右対立、あるいは帝国議会における政友会と民政党のような二大政党の対立を「表の戦い」だとすれば、フェミニズムをめぐる戦いは「裏の戦い」です。表の戦いにおいて、女性がどのような立場をとるのかは自明とは言えないわけです。

右派も男女平等を支持するノルウェー

 日本では、女性の地位向上を訴える政治家はマージナルな存在であり、非メインストリームというイメージがどうしても強い。しかし、市川さんのように汚職に対して厳しい態度をとり、人びとの生活水準を守り、女性や子供の待遇を気にかけることは、弱者を代表する者の傾向でもありますが、同時に、国家やコミュニティーを重視するものの特徴でもありえます。官僚と政治家の綱引きで言えば、官僚の肩を持ち、成長と分配では分配の方を気にする勢力と言ってもよいでしょう。

 日本では、自民党が広く成長と分配双方の民意を取り込んだため、社民勢力は大きくなれませんでしたが、ヨーロッパでは、この立場が大きな勢力を形作った国が多数存在します。社民勢力は本来、メインストリームの片一方を担いうる立場であったということです。そこでは、日本における社民主義の女性政治家が語るような、型通りの「国家権力と戦う」というイメージとは対極の、「大きな政府」を実現する権力の側に回る政党が存在するわけです。

 さらに、フェミニズムが進んだ国では、ノルウェーのように男女平等主義をとことん貫く政治文化が生まれました。そのような国では、右派さえもが男女平等の概念を積極的に支持しています。現に、ノルウェーの中道右派連立政権に参加している進歩党は、男女平等主義を貫く、経済的にはリバタリアンの政党であり、ブルカやニカブに反対するなど移民の独自文化に対して敵対的な政策を推進しています。ノルウェーは、男女平等な徴兵制を敷いている国としても有名です。

 つまり、当たり前のことですが、男女平等が進めば進むほど、表の戦いとフェミニズムの戦いの関係性が薄れてくるわけです。

 今でこそ、「結婚したら子供を三人産んでほしい」という発言をした国会議員が自民党や安倍晋三政権の象徴のように叩(たた)かれていますが、この論点は本来、保守も革新も関係ありません。野田聖子大臣が即座に「そう言って子供が増えることはない」と批判したように、保守からも批判が飛んでくるようになれば、真に女性の地位向上が進み始めたのだということができるでしょう。

左へと誘導された日本のフェミニズム

衆院本会議で初の女性議長に選ばれた土井たか子氏=1993年8月6日衆院本会議で初の女性議長に選ばれた土井たか子氏=1993年8月6日

 これまで、日本におけるもっとも実力派の女性政治家と言えば、やっぱり土井たか子さんでした。それに連なるのが福島瑞穂さん、辻元清美さんといった社民勢力の政治家でした。とはいえ、辻元さんが自党を離れて民主党(当時)に参加していった過程を見れば、必ずしも表のイデオロギーと裏の論点がぴったりと一致するわけではないことが見て取れるでしょう。

 しかし、日本の保守政党、およびそれを支持する保守地盤は、女性がいそいそとお茶くみをし、男性がどっかりと床の間を背に座っているという文化を連綿と存続させてきました。ですから、フェミニストたちは表の論点では、左へ左へと誘導されていったわけです。

 「女が偉そうに」「黙ってろ」と保守に言われる過程を通じ、あるいは保守的な女性たちが身を慎み、三歩下がって夫の後を歩いていくのを目の当たりにして、あるいは自分たちの論点を応援してくれず、男性側におもねる発言を繰り返す女性の保守論客を多数目にすることで、一定の単純なパターン認識が定着してしまったのです。それは、女性の権利は左派の論点であるという認識でした。そのような単純な世界観が流布したのは、女性の地位向上にとっても、日本にとっても、不幸なことでした。

女性政治家の育成は保守派にとって追い風

 日本におけるフェミニズムの分布の偏りは、誰がフェミニズムを支持してくれるのか、ということで支持者に頼らざるを得ない政治家の、小さな決断の積み重ねである可能性があると私は思っています。実際、保守はこれ、革新はこれ、といった「定食メニュー」を受け入れなくてもやってこられたのは、真に実力がある者か、守られた身分の人々に限られます。

 現在、女性の論点で前面に立とうとされている野田聖子大臣は、世襲の、地方の強い地盤を受け継いで選出されており、守られている。キャラクターも相まって強い国民的人気を得つつあることで初めて、そのような保守陣営の雰囲気を踏み越えた発言ができるわけです。

 つまり、真の実力者が女性に増えれば増えるほど、特殊利益や支持層に気兼ねして女性の足を引っ張る発言もなくなるということです。とすれば、フェミニズムを進めるための教訓は、おのずと明らかでしょう。むしろ保守政党こそ女性の候補者の数を増やし、また、女性政治家の育成に力を入れることです。しかも、それはかつてとは異なり、保守派に追い風となる政治効果を生むのです。

 安倍政権は支持基盤の保守的な社会的イデオロギーにもかかわらず、女性の活躍を掲げることで、女性政策をめぐる分断によって失点することがないように舵(かじ)を切りました。今回超党派で女性の政治家を増やそうと法案に尽力した中川議員も、他の思想では右に分類される政治家です。

 ただし、女性の政治家を増やし、フェミニズムが受け入れられる領域が拡大することは、必ずしもリベラルな社会を創ることを保証はしません。では、どのような社会になっていくことを意味するのでしょうか? 次回(10日に「公開」予定)で具体的に見ていきたいたいと思います。