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喜界島に生まれて(2)東京は、通過点だ

東京がゴールだったら、心が折れていたかもしれない。でも、目指すは世界だ

住岡尚紀 明治学院大学生

東京・渋谷

(前回のあらすじ)鹿児島の南380㎞に浮かぶ喜界島。サトウキビの島で生まれ育った筆者は、孤独な受験勉強を乗り越え、あこがれの東京行きを手にした。東京からさらに広い世界へ羽ばたき、グローバルとローカルをつなぐ人になりたいと意気込むのだが……

島を離れる日

 喜界島は毎年3月になると、島を離れる高校生を中心に多くの人が港で最後の別れを惜しむ。別れの紙テープが切れるまでずっと手を降り続ける。島ならではの風物詩だ。

 にーねー(お兄さん、お姉さん)を毎年見送る側だった僕にも、見送られる日がやってきた。その前夜は祖父母の家で、みんなでご飯を食べた。明日の夜には東京にいるはずだが、これっぽっちも想像できない。いつも通りの時間が流れていく。

 この時間がいかに貴重だったのかに気づいたのはもう少し後のことだ。当たり前だと思っていた場所、時間、いつも一緒だと思っていた人と離れる日。それは悲しい瞬間であり、希望に満ちた航海の始まる瞬間でもある。

 「竹は節目で伸びていく。人も人生の節目でこそ成長して行くんだよ」。喜界高校の卒業式で先生が残した言葉。僕たちしまんちゅの人生の最初の節目は島を離れる日なのだ。

 はろうじーや、はろおばー(親戚の叔父さん、おばさん)が東京にいる訳ではない。どヴしんちゃー(同級生たち)のほとんどは鹿児島や福岡、大阪へ働きに行く。関東圏に行く人は就職する者を含めて4人。

 それでも僕はどうしても東京へ行きたかった。東京に行けば、なんでもできる、自由だ、と思っていた。そして、その先には広い世界が待っている。

 「都会は冷たい人ばっかりよ、だーは長男だから島に帰らんばいかんのよ」と言われ続けたが、僕は東京へ行かぬわけにはいかない。

 ボーッという汽笛を合図に、フェリーが島を離れていく。色取り取りの紙テープだけが島に残るものと出て行く者を繋ぐ。ひらひらと舞うそれがすべて切れたとき、新しい人生が始まる気がした。

空港からの電車で「消えろ」

 明治学院大学に入った2014年、関東で大学生になった26万9698人のうち、鹿児島県から来たのは961人だった(文部科学省学校基本調査)。僕もその1人にカウントされているのだろう。

 18歳まで島で育った僕は希望に満ち溢れ、怖いもの知らずだった。東京に着いた日、試練はいきなり来た。同じホームでも電車によって行き先が違う事を知らず、僕は違う列の先頭に並んでいた。乗るべき電車が到着してそれに気付き、慌てて乗り込もうとしたら、見知らぬおじさんに舌打ちをされ、キャリーバックをいきなり蹴られた。横入りをしてしまった自分に非があると思って「さっきはすいませんでした」と謝ると、おじさんはぱっと顔を上げ、目を見開きながら鼻筋にY字の皺を寄せて一言、「消えろ」。

 いろんな感情が爆発し、涙が溢れ出て止まらなかった。その場にいた乗客たちはみんな見て見ぬふりをしている。何事もなかったようにスマホに目を向けている。

 島ではひとりひとりの顔が見えすぎた。ここではひとりひとりの顔がまったく見えない。「これが東京か」。すごいところで生きていくんだなと実感した。

人生初の職務質問

東京都心の夜景
 入学してまもなく、大学でできた友達に呼ばれ夜中に駅前を自転車で通り過ぎようとした時のことである。パトカーとすれ違った。何か事件でもあったのかと思っていたら、そのパトカーがUターンをして僕の前に停車した。

 「ちょっとすいません」。お巡りさんが声をかけてくる。人生初の職務質問だ。いろいろ尋ねられながら、身分証を提示させられ、身体検査をされる。

「下駄を履いていて、怪しかったからね。最初は、海外の人だと思って声かけたんだよ」

 お巡りさんはほどなく、笑った。緊張がほどけ、ほっとした。

 僕はなぜ下駄なんて履いていたのか。そうだ、自転車のペダルに下駄の縁がぴったりはまって乗りやすかったからだ。そもそも、なぜ下駄なんて持っていたのだろう……。そういえば、僕は時々、顔立ちで東南アジアの人に間違われる。奄美の独特のイントネーションも東京の人からみたらひっかかるのだろうか。

 知らず知らずのうちに、自分が職務質問されなければならなかった理由を探していた。そして、はっとした。日本に住む外国人の人たちは、こんな不安を心の奥にしまいながら、毎日を暮らしているのかもしれない。

 喜界島から世界へはばたき、グローバルとローカルをつなぐ人になりたいと思って東京へ出てきた。その大都会・東京で、僕が初めて強烈に味わった「アウェー感」だった。

牛丼店で学んだこと

牛丼チェーン店(写真と本文は関係ありません)
 それでも、大学生としての僕の生活は刺激的だった。テレビの中にしか存在しないと思っていた場所、モノ、ヒト、全てが手の届く範囲にある。嬉しくてたまらなかった。

 渋谷のハチ公前で友達との待ち合わせた時の幸せ。冬には人生で初めての積雪も体験した。その興奮を喜界島に残る家族や友達に伝えた。彼らが知らない世界を自分だけが知れていることを自慢したかったのかもしれない。

 人生で初めてのバイトは有名な牛丼チェーンだった。

 もちろん、喜界島にはない。24時間365日美味しい牛丼を食べられるそのお店は僕の中では都会の象徴だった。

 牛丼チェーン店は全国に数千あると言われる。全てのお店で変わらぬ味とスピード感を保てている秘密はマニュアル化だろう。「いらっしゃいませからありがとうございます」まで全てマニュアル化された接客を繰り返し練習することが僕の最初の仕事だった。まるでロボットのような気分だった。

 マネジャーに合格がもらえるとやっと現場に立つことができた。お皿の洗う手順がマニュアル通りではなくて効率が悪いといきなりマネジャーに叱られた。会計の時に「ご馳走さま」と言われた老夫婦の荷物を入り口まで運んでいくと、持ち場を勝手に離れるなとマネジャーに注意された。

 僕は皿洗いもオーダーテイクも盛り付けもマニュアルを通り徹底することに全力を注いだ。目の前の人との会話も、全てはマニュアル通りだ。

 ふと、上京初日にあった電車の中での出来事を思い出した。あの時、涙を流す僕を見て見ぬふりをしていたあの人たちも、今の僕と同じような気持ちで生きているに違いない。

運命のアナウンス

 牛丼チェーンのバイトは数カ月で辞めた。その後もバイトを幾つか掛け持ちしながら学校の課題、サークル活動、インターン、遊びなどやりたい事をある程度なりながら充実した毎日を過ごしているかのように思えた。

 気がつくと数カ月先の予定までびっしり。その予定を毎日のスケジュールをどう消化していくかを最優先に考え、すべての物事を効率よく、直線距離に進もうとしていた。いつも、何かに終われる日々。いつしか「やりたいことをやらされている」感覚になっていた。

 便利で自由だったはずの東京。そこに暮らし初めて数カ月で、窮屈さと生きにくさを感じていた。東京でやりたかったこと、夢見てきたことは本当にこれなのか、自分に自信を持てなくなっていた。

 そんなモヤモヤ感を抱えていた大学2年の春学期。ある講義の中で、僕の耳にアナウンスが飛び込んできた。

「発展途上国で国連職員として働けるインターンシップの応募があります。興味のある人は授業後に集まってください」

 講義終了のチャイムと同時に、僕の足は自然と教卓に向かった。話を聞くと、なんと締め切りまであと1週間しかなかった。

 僕のなかで何かが動き始めた。そうだ、東京は通過点だった!〈to be continued〉

「喜界島に生まれて(3)ウガンダって、どこだ?」につづきます。

喜界島