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相模原障碍者大虐殺事件 劇団態変の闘い(前編)

役者は障碍者のみ。世界各地で革命的な公演を続ける劇団が相模原事件を題材に

岩城あすか 情報誌「イマージュ」編集委員

劇団態変の舞台「ニライカナイ」より=2017年3月、大阪梅田=photo by bozzo

歪んだ思想がおこした虐殺事件

 2016年7月26日、神奈川県相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人の命が次々に奪われ、26人が重軽傷を負う事件がおこった。これは障碍者が大虐殺された戦後最悪の事件である。折しも日本では、2006年12月に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」(2014年1月批准)の国内法として「障害者差別解消法」が2016年4月1日に施行されたばかりのことだった。

 事件後ただちに、各国首脳は犯行を断固非難する声明を発したが、日本の政府関係者は「今後、真相の究明、再発防止に全力を挙げていく」と述べるにとどまり、事件に対する立ち位置を明確にした意思表示を今日に至るまでおこなっていない。

 この事件は、首相や衆院議長宛てに、何か月も前から犯行予告がなされていたヘイトクライムである。「殺されて良い命がある」という加害者の歪んだ考え(優生思想)は、絶対に認めるわけにはいかない。

 能力主義がはびこる世の中で、最も恐れていたことが現実におこってしまった今、私たちに何ができるのだろう。

 社会の闇が深まり、暗く混迷する時代に、重度の身体障碍者だけで構成される「劇団態変」の存在が、一筋の光を照らしているように思う。その挑戦をここで紹介したい。

相模原事件を題材に満身創痍で生み出された「ニライカナイ」

劇団態変の舞台「ニライカナイ」より=2017年3月、大阪梅田、中山和弘撮影
 劇団態変の役者は全員、脳性まひや手足の欠損など重度の障碍者である(健常者は黒子として役者の移動を手助けするのみ)。重度の身体障碍者だけで構成される劇団は世界で唯一であろう。

 3歳でポリオに罹患し、重度の身体障碍者となった金満里さんが主宰して1983年に大阪を拠点に旗揚げした。身体障碍者にしかできない身体表現を追究するパフォーマンスグループで、これまでドイツやイギリス、ケニア、韓国など海外を含めて20カ所以上で公演。「革命がおこった」と高く評価されてきた。

 劇団態変の公演は毎回新たな驚きと発見があり、前人未踏の舞台をつくり続けられる原動力と、一人一人の表現の豊かさに圧倒される。セリフはなく、抽象的なシーンも多いので、「あれは何を意味しているのか?」と、1週間くらいは気になって仕方がなくなったりもする。

 普段、わたしたちは「よりわかりやすい説明」を当たり前のように受けているため、「よくわからない」状況に直面すると、不安になったり、少なからず混乱したりする。しかし、公演を観賞した後は、戸惑いをおぼえる自身の心の奥底から、何ともいえない、「生きる気力」がふつふつと湧いてくる。この感覚はうまく言語化できないので、ぜひ生の舞台を観てほしい。

 劇団態変の最新作「ニライカナイ」は、相模原での事件を受けて、満里さんが満身創痍で生み出した作品だ(初演の舞台映像から編集したPVはこちら。2018年11月2日~4日は東京の「座・高円寺1」で再演がある)。

 ニライカナイは、海を隔ててあるこちらと向こうの間に、まだ見ぬ桃源郷を求める言葉のように捉えられることが多い。しかし実際は、ニライカナイの精神性には、来る者拒まず(拒めず)去る者追わず(追えず)という、どこに行っても海が眼下にあって何処へも逃げれない立場性への醒めた感覚の裏返し、のように思う。だから、命の価値を、排他的に選別せず全てを包括してしまおうとする、包容力と夢が、このニライカナイという言葉の響きにあると私は思う。
 沖縄のニライカナイは、来る者拒まず(拒めず)去る者追わず(追えず)、ということ。それは否定形と肯定形の混合の現実感性だ。そこには私自身が、重度の障碍者として持っている、介護者との関係性と同じものでもあるのは明白だ。その現実感に重ね過ぎかもしれない。しかし、実際に昨年に起こった、相模原施設障碍者19名大虐殺事件、を思い起こしても、外から来た者に障碍者たちは抗えず、いきなり刃物で斬り付けられ殺傷される、といった許せない事件。そこへ思い至る。
 来訪者が振るう、無抵抗な者への、圧倒的暴力に只々やられるしかないのか! 明と暗、を見据え、それでも命の価値を誰が決める権利があるのか、という正当な怒りを覚える。だから、ニライカナイの精神は、生命と死、という深いものを抱え持ち私たちの街へやって来る。
 分けられる側ではなく、その意味をひっくり返してしまう! そう、そんな舞台でなければ態変は始まらない。(2017年1月12日発行の公演案内より、金満里さんのメッセージを一部抜粋)

 私は2017年春、大阪公演での初演を観た。満里さんが障碍者施設で過ごした幼少期に出会った、自らを「アボタカ」と呼ぶ寝たきりの女性。職員たちに放置され、ついには床ずれに蛆がわくほどだったが、突如として姿を消す。細くて折れそうな足には「∀」の形の矯正具が付けられていた。彼女の脚は「絶望のどん底の恐ろしさ」の象徴だった。

 劇団態変のメンバーは思い思いにアボタカの脚を抱え、施設から抜け出し、命溢れる太古の森(沖縄の西表島をイメージしている)へと、魂の自由を求めて脱走する。

アボタカの脚と、ニライカナイの森=photo by bozzo

「命に優劣はつけられない」というモラルの崩壊

劇団態変の主宰者、金満里さん=2018年7月26日、大阪・梅田。提供:TETSUYA FUCHIGAMI
 世界でも類をみない凶行が、世界一安全と言われていた日本で、なぜおこったのか。

 功利主義や財政不安を理由とした、弱者切り捨てが横行する現代社会において、おこるべくしておこった事件だったと私は思う。

 ネット社会であらゆるマイノリティを攻撃する言説がはびこる中、規範意識を欠く政治家や批評家たちが台頭し、連日テレビ等でヘイト的な発言がまき散らされている。そのたびに「命に優劣はつけられない」というモラルが急速に失われていくようだ。

 かつて、ナチス・ドイツはユダヤ人のホロコースト(大量虐殺)のリハーサルとして、医療機関が国家と連携して障碍者を抹殺しようとする計画「T4作戦」を実行し、20万人もの障碍者や難病者が殺された。その後80年近くがたとうとした今なお、優生思想は社会の隅々まではびこり、暴力的な能力主義のもと、私たち一人一人に影響を及ぼしている。

 日本でも、戦前から長期間にわたってハンセン病患者が「旧らい予防法」により、地域と遮断された国立療養所に隔離されてきた歴史がある。一部の障碍者やハンセン病患者らが子どもを生まないよう、強制的に不妊手術を施してきた状況が改められたのは、つい最近、旧優生保護法が「母体保護法」に改正された1996年になってからだ。

(鶴橋の)ヘイトデモの現場で『在日朝鮮人を殺す』とか言葉で発していたことが、現実として起こるのはどこからか、を思うと怖かったんです。障碍者からじゃないかって。それが去年、あの大虐殺として実際に起こってしまったことに対して、これは言い過ぎかもしれませんが、ヘイトを受けている在日の人からみても、他人事になってしまっている。なぜかというと、施設だから。その施設で、名前を伏せてしまったからね。これ巧妙ですよ。日本でこれが実験されている。これが世界的な右傾化の一つとして、世界に発信されていく。日本が植松聖を使ってやってしまった実験のメッセージっていうのは、このまま放っておいたら人類の総意のようになってしまうよ、って思いますよね。(劇団態変が年3回発行している情報誌「イマージュ」vol.68:2017年夏号、劇団を主宰する金満里さんと鵜飼哲さんとの巻頭対談「奪われて良い命などない!~優生思想と訣別する」P.7、金さんの発言より)

「イマージュ」は1冊500円、年間購読は1,500円。左は「7.26障碍者大虐殺から2年」特集号(2018年8月発行)、右は事件からちょうど1年を機に特集を組んだ2017年夏号
 

社会的に、実際に、そして匿名報道によって、3度殺された命

 今回殺害された19人の障碍者については、現在に至るまで氏名が公表されていない。

 そもそも、1時間足らずの短い間に、大量の殺傷事件がおこり得たという事実は何を意味するのか。

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