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禁じ手「自社さ」村山政権の意義と限界

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(7)

星浩 政治ジャーナリスト

東京・浅草の鷲(おおとり)神社の酉の市の縁起物、トンちゃん人形をあしらった熊手を贈られ、「票をごっそり集めたい」と喜ぶ村山富市首相=1994年11月5日、 東京・永田町の社会党本部で 
東京・浅草の鷲(おおとり)神社の酉の市の縁起物、トンちゃん人形をあしらった熊手を贈られ、「票をごっそり集めたい」と喜ぶ村山富市首相=1994年11月5日、 東京・永田町の社会党本部で

自民・社会・さきがけの連立政権が発足

 1994(平成6)年6月29日夜の衆院本会議で首相に指名された村山富市・社会党委員長は、翌30日未明に河野洋平・自民党総裁、武村正義・新党さきがけ代表と党首会談を開き、自民・社会・さきがけの連立政権発足を確認した。いわゆる「自社さ」政権である。

自社さ連立の村山富市内閣で運輸相に起用された亀井静香氏=1994年6月30日、永田町自社さ連立の村山富市内閣で運輸相に起用された亀井静香氏=1994年6月30日、永田町
 30日には新内閣の閣僚が決定する。外相に河野氏、蔵相に武村氏が就いたほか、内閣の要の官房長官には社会党から五十嵐広三氏が就任。村山氏の側近だった社会党の野坂浩賢氏は建設相に起用された。

 自民党からは橋本龍太郎氏が通産相に就いたほか、野中広務氏が自治相、亀井静香氏が運輸相に抜擢(ばってき)された。野中、亀井両氏の入閣について、村山首相を側近として支えた田中秀征・新党さきがけ代表代行は、こう語っている。

 「二人はいわゆる〝武闘派〟です。村山内閣では彼らの助けが大きかったと思います。仏さんの両隣に、仁王さんが控えているという印象でしたね。それに歴史観が共通していたことも大きかった」(注1 田中秀征 2018)

温厚だが芯の強さを感じる村山富市氏

 村山氏は当時70歳。大分県で自治労の職員を経て、大分県議などを務めた。1972年に社会党から衆院議員に初当選。国会では社会労働委員会を中心に社会保障問題に取り組み、国会対策委員長を経て、93年に委員長に就いた。もともとは社会党右派だったが、小選挙区の導入に慎重論を唱えたことなどから「左派」とみられるようになった。

 私は村山氏が国会対策委員長のころから取材するようになったが、温厚な中にも芯の強さを感じる政治家だった。戦争体験者として戦後民主主義の大切さを説くときの熱っぽさを鮮明に覚えている。「戦争だけは絶対にやってはいかん。それを伝えることが私たちの世代の責任じゃ」が口癖だった。

 野党に転落した自民党の政権復帰願望と、小選挙区導入を控えて生き残りに不安があった社会党の窮余の策。そこに小沢一郎・新生党代表幹事への反発が重なって生まれた「自社さ」の村山政権だが、政権運営の経験が重なるにつれて、「中道・リベラル」の性格を強めていく。

注1  田中秀征『平成史への証言 政治はなぜ劣化したのか』(朝日新聞出版)P208

社会党の基本政策を次々と転換

 政権発足直後には、村山首相が出席したイタリア・ナポリでのサミット(主要国首脳会議)で、腹痛から緊急入院するというハプニングもあった。7月18日からの臨時国会で、村山首相は、社会党の基本政策を次々と転換。「日米安保体制を堅持する」「自衛隊は合憲」「非武装中立論は役割を終えた」などと踏み込んだ答弁を続けた。

 欧州の社民勢力は、ソ連の人権問題への批判もあって早くから「反ソ連・親米同盟」の路線を選択していたが、日本の社会党は日米安保条約による同盟体制には批判的だった。ソ連型社会主義に期待があったことに加え、「日米同盟では、日本が米国の戦争に巻き込まれる」ことを懸念していたのだ。

 しかし、米ソ冷戦の終焉とソ連の崩壊で、状況は変わった。反米・親ソの路線は行き詰まった。村山委員長の首相就任で、社会党は路線の変更を余儀なくされた。

 社会党は「消費税反対」路線も撤回。9月22日には、自社さの三党が97年4月に消費税率を3%から5%に引き上げることで合意した。「社労族」として福祉問題に取り組んできた村山首相は、社会保障の財源確保には消費増税が避けられないと判断した。自社さ政権は社会保障を重視する「大きい政府」に傾斜していった。

実質「小沢党」の新進党が旗揚げ

衆参214人で発足した新進党。結党大会の最後は、テープが飛び党名を書いた帆布が客席を覆うパフォーマンスで締めくくられた=1994年12月10日、横浜市の国立横浜国際会議場で 
衆参214人で発足した新進党。結党大会の最後は、テープが飛び党名を書いた帆布が客席を覆うパフォーマンスで締めくくられた=1994年12月10日、横浜市の国立横浜国際会議場で
 こうした動きに小沢氏は新党結成で対抗する。新生、公明、日本新、民社の各党に、自民党離党者らで作る自由党、新党・みらいなどが結集。新党の党名は「新進党」に決まった。党首選は海部俊樹、羽田孜の両元首相と米沢隆・民社党委員長による投票となり、海部氏が圧勝、初代党首に選ばれた。幹事長には小沢氏が選出された。実質は「小沢党」である。

 94年12月10日には、横浜のみなとみらいで、結党大会が開かれた。所属する衆参両院の議員は214人。新進党は自民党に対抗する巨大野党として船出した。

 私は結党大会を現場で取材した。派手な演出で盛り上がった半面、議員たちの間からは不安の声が聞かれた。その中身は二つ。経済や安全保障の政策で隔たりが大きく、意思統一ができるのか。そして、小沢氏の政治手法に対する賛否が党内の亀裂を大きくするのではないか。その懸念は、遠からず現実のものになっていく。

 新進党の動きに連動して、社会党内が混乱する。山花貞夫前委員長を中心に、自民党との連立に不満を抱く勢力が「離党・新党結成」を探っていた。山花氏は95年1月16日、新党の前段として、社会党議員らによる国会内会派を結成する方針を表明。17日には国会に届け出ることになっていた。社会党は分裂の危機に追い込まれた。

想定外の大災害、阪神大震災が発生

阪神大震災で倒壊した阪神高速道路=1995年1月阪神大震災で倒壊した阪神高速道路=1995年1月
 事実上の「山花新党」の旗揚げが予定された17日、村山政権への打撃は大きいと見た朝日新聞政治部のメンバーは早朝から動き出していた。そこに想定外の大災害が起きた。阪神・淡路大震災である。「山花新党どころではない」事態になった。

 17日午前5時46分、兵庫県南部を震源とするマグニチュード7.2の直下型地震が発生。神戸市などで甚大な被害が出た。死者は6434人、被災者は30万人を超えた。

 地震発生直後から、NHKがヘリコプターから中継した。市街地の火災や高速道路の倒壊など衝撃的な映像が流れた。私は、建設事務次官経験者で土木技術者でもある自民党の井上孝・元国土庁長官に電話した。「高速道路は絶対に倒壊しないように設計してあるんだ。それが壊れるとは……」と絶句したのを覚えている。

 村山内閣で災害対策の責任者だった小沢潔国土庁長官の動きが遅く、政府部内から不満が出た。村山首相は、野中広務自治相・国家公安委員長の進言を受けて、小沢長官を事実上、更迭し、小里貞利・北海道・沖縄開発庁長官を震災担当特命相に起用。小里氏は政府の司令塔として動き出した。それでも自衛隊の出動などの遅れが目立ち、野党からは危機管理能力の不足が指摘された。

「平成日本」を揺るがせたオウム事件

防護服に身を固め、カナリアの入った鳥かごを手にオウム真理教施設へ捜索に向かう捜査員ら=1995年3月22日、当時の上九一色村防護服に身を固め、カナリアの入った鳥かごを手にオウム真理教施設へ捜索に向かう捜査員ら=1995年3月22日、当時の上九一色村
 ほぼ2カ月後の3月20日朝。こんどは東京・霞が関の地下鉄で猛毒のサリンがまかれる。乗客・駅員13人が死亡、約6000人が負傷。捜査当局はオウム真理教のメンバーによる犯行と断定し、22日には山梨県上九一色村(現・河口湖町)のオウム真理教総本部の家宅捜索に踏み切った。

 3月30日には警察庁の国松孝次長官が自宅マンションを出たところで狙撃され、重傷を負った。衝撃的な事件だった。サリンがまかれたオウム事件との関連が取りざたされたが、いまだに犯人は特定されていない。

 オウム真理教をめぐっては、①教団と対立する弁護士とその家族を殺害した坂本堤弁護士一家殺害事件②長野県松本市で教団支部の立ち退き訴訟を担当していた裁判官の殺害を狙ってサリンをまいた松本サリン事件、なども捜査されていた。捜査当局は95年5月16日、オウム真理教の麻原彰晃(本名・松本智津夫)教祖を殺人などの容疑で逮捕。麻原教祖は最終的に27人の殺人罪で起訴され、2006年には最高裁で死刑が確定する。

 結局、オウム事件をめぐっては、麻原教祖を含む13人に死刑判決が下された。13人の死刑は2018年7月、2回に分けて執行された。文字どおり、平成の日本を揺るがせた大事件だった。

危機管理に奔走した野中広務氏 

野中広務自治相・国家公安委員長=1994年10月21日野中広務自治相・国家公安委員長=1994年10月21日
 阪神・淡路大震災とオウム事件を通じて村山政権の危機管理に奔走したのが野中広務自治相・国家公安委員長だった。1925年生まれの戦中派。京都市園部町出身で、園部町議、町長を経て京都府議、京都府副知事を歴任した「たたき上げ」である。

 自民党の田中・竹下派では小沢一郎氏を支持した時期もあったが、その後、決別し、小渕恵三氏を支えた。野中氏を東京・高輪の衆院議員宿舎で夜中に取材することが多かった。リクライニングチェアに座って、にこやかな表情をうかべつつ、時ににらみつけて質問に答える姿が思い出される。

 野中氏は、村山政権の誕生によって社会党が安保政策を転換したと同時に、自民党も変わることができたという。著書にこう記している。

 「(村山首相の)このリーダーシップは、社会党が冷戦後もそのしっぽをひきずって棚卸しができないでいた問題を解決することになったが、一方で、鏡に映したようにその逆の問題、つまり、自民党が冷戦後もそのしっぽをひきずって棚卸しができないでいた問題を解決することにもなったのである」(注2

「自民党の棚卸し」 戦後50年の国会決議

  野中氏が「自民党の棚卸し」と指摘したのが、戦後50年の国会決議だ。自民党内には強い異論があったものの、村山首相の意向もあり、自社さで決議の文案を合意した。

 「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」

 植民地支配や侵略的行為を明確に認めて反省する内容で、過去の自民党政権では考えられなかった内容だ。決議は1995年6月9日の衆院本会議で採択された。ただ、野党の新進党は全員が欠席。自民党でも奥野誠亮、安倍晋三、中川昭一各氏らタカ派の50人が欠席した。

注2 野中広務『私は闘う』(文芸春秋)P132-133

 首相への唯一のチャンス逃した河野洋平氏

閣議の前に談笑する村山富市首相(社会党委員長)と河野洋平副総理兼外相(自民党総裁)=1994年10月4日、国会閣議の前に談笑する村山富市首相(社会党委員長)と河野洋平副総理兼外相(自民党総裁)=1994年10月4日、国会
 そんな自社さ政権を待ち受けていたのが、国政選挙の試練だった。参院選が7月6日公示、23日投票で実施された。改選は比例区50、選挙区76の計126。自民、社会、さきがけの与党に、前年暮れに発足したばかりの野党・新進党が挑む構図となった。

 結果は、比例区で自民15に対して新進が18と健闘。選挙区を合わせた議席は自民46、新進40、社会16、共産8、さきがけ3などとなった。旧公明党の支持母体である創価学会をフル稼働させた新進党が、自民党に迫る勢いを見せ、社会、さきがけは伸び悩んだ。

 選挙結果に落胆した村山氏は首相退陣の意向を示し、後継に河野自民党総裁(外相)を推す考えを示唆したが、河野氏は辞退。村山首相の続投となった。河野氏は、生涯で一度だけの「首相へのチャンス」を逃したのだった。

「村山談話」にアジア諸国から評価 

 それでも村山首相が意地を見せたのが戦後50年の首相談話だ。8月15日に閣議決定された「村山談話」は、過去の戦争について、こう総括した。

 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた。私は、この歴史の事実を謙虚に受け止め、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明する」

 中国、韓国をはじめアジア諸国からは歓迎と評価の反応が相次いだ。戦後日本の対外的な意思表示としては画期的なメッセージだった。だが、村山談話をめぐっては、自民党内に不満が残り、歴史認識の問題はなお、日本政治の論点となり続けている。

 沖縄の「少女暴行事件」に打つ手なし

米兵の少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会の会場を埋めた参加者=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市、本社ヘリから 米兵の少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会の会場を埋めた参加者=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市、本社ヘリから

 村山政権を支えてきた自民党内では大きな変化が起こる。9月の総裁選に小渕派の橋本龍太郎通産相が立候補を表明。同じ小渕派の梶山静六氏が中心となって多数派工作が進められた。現職の河野氏は劣勢に立たされ、出馬を断念。三塚派の小泉純一郎氏が立候補したが、橋本氏が圧勝した。

 その秋、私は朝日新聞政治部で外務省キャップに就いた。外務省と防衛庁(現・防衛省)を担当する計5人の束ね役だ。連立与党や自民党などを担当して疲労も溜まっていたので、同僚には「休憩しながら英語でも勉強するか」と話していた。

 そうした中、日米安保体制を揺るがす事件が沖縄で起きる。9月4日、沖縄本島北部で米軍兵士3人が少女暴行容疑で逮捕されたのである。沖縄では怒りが広がり、大田昌秀知事は日米地位協定の改正や米軍用地の使用手続きの更新拒否などを表明した。河野外相は遺憾表明を繰り返すが、具体策はない。

 私たちは連日、日米安保体制と沖縄の基地負担の問題点を伝えた。冷戦が終わって日本に対する直接の脅威は大きく減じた。しかし、「日本を守る」はずの駐留米軍は減らない。そればかりか、日本人に危害を加える事態が起きた。その負担を過重に背負う沖縄。政治にはその問題を解決する責任がある――。そんな記事を書き続けた。

 10月21日、米軍普天間飛行場のある沖縄・宜野湾市で県民総決起集会が開かれ、8万5000人が参加、米軍基地縮小を訴えた。だが、米国は譲歩の姿勢を見せず、村山政権には打つ手がなかった。

中道・リベラルの意義を示したが……

記者会見で退陣表明をする村山富市首相=1996年1月5日、首相官邸記者会見で退陣表明をする村山富市首相=1996年1月5日、首相官邸
 このころ、村山氏に時折、話を聞いたが、「疲れた。沖縄の問題はこたえる。限界じゃ」とため息をつくことが多くなった。村山政権には翌年の通常国会を乗り切る体力は残っていなかった。

 年が明けて96年1月5日、村山首相は退陣を表明した。その心境を「正月の青空を見ながら、与えられた歴史的役割をある程度果たしたと思い、決意した」と淡々と語った。

 自民党と社会党が連立するという「禁じ手」でスタートした村山政権だが、戦後50年の「村山談話」や、原爆被害者の遺族に給付金を支給するなどの被爆者援護法、水俣病の未認定患者の救済策など、自民党では踏み切れなかった政策を実現し、中道・リベラルの意義を示した。しかし、相次ぐ事件・事故や安全保障をめぐる米国との意見の隔たりなど、政権を襲った荒波に抗しきれず、1年半で力尽きた。

 そして、次の政権は自民党総裁の橋本龍太郎通産相に引き継がれた。

次回は、橋本政権の成果と挫折、そして小渕政権の誕生を描きます。1月19日公開予定。