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「24時間戦える」女性、小池百合子さんとの因縁

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界③ 日本新党の躍進と驚きの細川政権

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

繰り上げ当選した円さんのお祝いに駆けつけた小池さん。左は田中角栄さんの秘書官だった木内昭胤さん、右は円がテレビでよく一緒に出演した塩田丸男さん繰り上げ当選した円さんのお祝いに駆けつけた小池さん。左は田中角栄さんの秘書官だった木内昭胤さん、右は円がテレビでよく一緒に出演した塩田丸男さん=1994年3月24日(筆者提供)

日本新党への思いを共有した小池百合子さんと私

 現東京都知事の小池百合子さんも私も、政治の世界に身を投じたのは1992年だ。ともに細川護熙さんが旗揚げした日本新党の創設メンバーであり、いわゆる“同期”である。

 前回の「“離婚を勧める女”が参院議員になって困ったコト」で触れたように、日本の政党で初めて「クオータ制」を党則に採用した日本新党は、執行部に20%以上女性を入れるというルールを定め、小池さんと私も常任幹事会や政策委員会のメンバーに入った。92年夏の参院選で当選した小池さんは国会活動に忙しく、私は党広報委員会で機関紙コムネット編集長をつとめるなど党務に専念していたが、会議では数少ない女性メンバーとして、政策について論じあったことも少なくなかった。

 小池さんとはPKO問題など意見が異なる点も多かったが、できたばかりで荒海に漕ぎ出した小舟のような日本新党を難破させてはならないという熱い思いは共有していた。

 その小池さんと私が初めて会ったのはまだ20代の頃。1970年代だった。

講談社での出会い

 当時、私は講談社の国際室にいて、「Encyclopedia of Japan」という英文の百科事典の企画に携わっていた。ハーバード大学のライシャワー研究所の所長だった元駐日米大使のライシャワー氏をアドバイザリィ・コミッティの委員長に迎え、日本側委員の梅棹忠夫さん、加藤秀俊さん、小松左京さんらと、どういう百科事典をつくるか、構想を練っていた。

 四谷に「福田家」という、かつてよく政治家が利用していた料亭があった。そこでライシャワーさんと講談社のトップとの打ち合わせの会合があった時のことだ。全員に渡す資料を準備し、タクシーで定刻の20分ほど前に福田家に到着した私が玄関を上がろうとすると、料亭の女性が呼び止める。

 「ああ、資料はそこに置いていいわよ。私がお持ちするから」。20代のペーペーの女の子の来る場所じゃないわよと言わんばかりである。構わず、
「私は担当者なので、上がらせていただきます」
と上がったが、後でその女性がライシャワーさんの隣で会議を仕切っていた私を見て驚いていたのを、いまもよく覚えている。

 当時、女性はお茶くみだとか資料づくりをしていればいいと思われていた時代。私は、企画がメインで、有識者との会合、出張も多く、勤務時間も自由だった。

 その国際室に、美術書をつくるため、エジプトの人たちを連れ、通訳としてやってきたのが、若き日の小池百合子さんだった。小池さんは室長にエジプト人を紹介し、すぐに別室に移動したから、直接言葉は交わさなかったが、彼女もただの通訳ではなく、彼女自身がその美術書の企画をして売り込みに来ているのがわかった。見た目は若くて可愛いが、当時から強い意志が顔に現れていたように思う。

アメリカでも好感されていた日本新党

 余談だが、国際室の仕事で、私は「ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan, as No.1)」を著して有名になる前のエズラ・ボーゲルさんとも会っている。息子のスティーブさん(カリフォルニア大学バークレー校准教授)はまだ中学生の可愛い少年だった。

ハーバード大学の教授たちの前で講演した円さんとアンドリュー ゴードン教授(左)ハーバード大学の教授たちの前で講演した円さんとアンドリュー ゴードン教授(左)=1999年11月5日(筆者提供)
 93年に参院議員になった直後、旧知のアンドリュー・ゴードンさん(ハーバード大学終身教授)とライシャワー研究所の招待でハーバード大学で講演をしたが、その夜、フィッシャーマンズ・ワーフのお洒落なレストランで歓迎会が開かれた際、エズラ・ボーゲルさん、彼の別れた妻スーザンさんと旧交を温めた。スーザンさんは日本の聖路加病院で働いていたことがあり、「ニコニコ離婚講座」を主宰し、評論家として様々なところで、執筆・講演活動をしていた私は、彼女とも会っていた。二人とも私が国会議員として活躍していること、特に細川さんの日本新党に所属していることを喜んでくれた。

 アメリカでも細川さんと日本新党は好意的に迎えられていたのだ。ゴードンさんは私の参院選の選挙応援にも来てくれているし、一緒に細川護熙さんの湯河原の居宅「不東庵」を訪れてもいる。

 話を戻すと、小池さんとは80年前半にも接点があった。二人とも日本テレビの朝のワイドショー「ルックルックこんにちは」に出演、私は離婚や家族がテーマを担当し、小池さんは竹村健一さんの時事解説のアシスタントをやっていた。その後、小池さんは「テレビ東京」の経済番組のメインキャスターとなり、私は一視聴者として彼女の活躍を見ていた。

 立場や境遇は違うが、女性として自らの足で歩いていこうとしていた者同士。そんな意識もあったのだろうか、日本新党で一緒になった時も、他人とは思えなかった。

ご成婚が終わり衆院解散へ

結婚の儀後のパレードで、沿道の人たちに手を振る皇太子さまと雅子さま=1993年6月9日、東京都千代田区結婚の儀後のパレードで、沿道の人たちに手を振る皇太子さまと雅子さま=1993年6月9日、東京都千代田区
 1993年6月9日、前日より降り続いていた雨は「ご成婚パレード」の直前にやんだ。皇太子さまと雅子さまの晴れ姿を一目見ようと、パレードが通過する都内の沿道に集まった人たちは、雨上がりの街をオープンカーで走るお二人に歓声を上げた。その姿をテレビで見ながら、私は緊張を抑えられずにいた。

 93年の年明けから、政界では衆議院がいつ解散されるかが最大の焦点だった。日本新党でも、いつ解散・総選挙があってもいいように、候補者選定に余念がなかった。さすがに皇太子殿下のご成婚とは重ならないようにするだろうが、その後はいつ解散があっても不思議ではないというのが、細川さんらの見立てだった。

 はたしてご成婚の後、国会会期末に向けて、国会は緊迫の度合いを強めていった。宮沢喜一首相が政治改革への対応にしくじったこともあり、自民党の党内対立は激しさを増すばかり。6月17日には6野党が内閣不信案を提出した。

 その日、私は銀座にあった電通で、天谷直弘さん(初代電通総研所長)にコムネット用のインタビューをしていた。天谷さんは「何があるかわからないから」とテレビニュースをつけてくれたが、30分もすると、「円さん、これは解散になる。すぐ党に戻った方がいいよ」と言った。

 翌18日夜、宮沢喜一首相は衆議院を解散した。野党の出した内閣不信任案は本来、衆議院で過半数を占める与党・自民党の反対多数で否決されるはずだが、自民党内から造反者が続出して可決。宮沢さんは総辞職ではなく、解散を選んだ。異例の事態だった。

都議選用の政策づくりも

政治改革が挫折したため、野党が宮沢内閣不信案を提出、与党の羽田派が賛成票を投じることを決めたため、可決した。衆院本会議場で投票箱に向かう羽田孜代表(中央)はひな壇の宮沢喜一首相(右端)と目線を合わせることもなかった。宮沢首相は衆議院を解散した=1993年6月18日政治改革が挫折したため、野党が宮沢内閣不信案を提出、与党の羽田派が賛成票を投じることを決めたため、可決した。衆院本会議場で投票箱に向かう羽田孜代表(中央)はひな壇の宮沢喜一首相(右端)と目線を合わせることもなかった。宮沢首相は衆議院を解散した=1993年6月18日
 離党者には、後に新生党をつくる小沢一郎さん、羽田孜さんらがいた。ちなみに、同じく自民党を離党して新党さきがけをつくった武村正義さん、田中秀征さんらのメンバーは、不信任案に対し自主投票にしている。武村さんは不信任案に賛成するよう田中さんに迫ったが、田中さんは宮沢さんを自民党総裁・首相に選んだ責任があるから、不信任案には反対するのが筋だという考えだったらしい。

 ちなみに、田中さんはその前年(1992年)の8月、日本新党が参院選で4人の当選者を出した直後に細川さんと会い、宮沢内閣が終わる時には自民党を離党し、細川さんと行動をともにすると約束していたという。

 6月18日は都議選の告示日でもあった。日本新党は5月31日(月)、1週間徹夜してつくり直した都政に関する政策を都庁の記者クラブで発表しているが、その席には安藤博政策副委員長、田端清都議らとともに私もいた。

 都議選と衆院選……。今にして思えば、この頃の私はすべての時間を政治のため、日本新党のために使っていた。多忙ではあったが、充実した日々であった。

衆議院に鞍替えした小池さんを応援

1993年6月18日の東京都議選告示日にマイクを握る細川護熙さんと小池百合子さん1993年6月18日の東京都議選告示日にマイクを握る細川護熙さんと小池百合子さん(筆者提供)
 6月22日、高輪の日本新党本部で都議選の公認候補22人、推選10人の擁立が発表された。6月27日(日)には投票と開票がおこなわれ、投票率51.43%という低投票率にもかかわらず、日本新党は公認が20人、推薦が7人が当選、大きく躍進した。29日(火)には、都議選当選者との大祝勝会がホテル高輪で行なわれた。

 6月30日(水)には、党本部で衆院選の候補者を集めた集会があった。立候補表明のため、熊本入りした代表の細川さんに代わり、私が衆院選対本部長として挨拶をしている。日本新党で私は、広報副委員長から、組織委員長、衆院選の選対本部長になっていた。

 都議選の大勝利から1週間後の7月4日(日)、いよいよ衆院選が公示。私は愛媛県松山市に入り、どしゃ降りのなか、中村時広候補(現愛媛県知事)の出陣式で挨拶した。その日はさらに、広島市、神戸市、兵庫県尼崎市も回った。

 尼崎市は小池百合子さんの選挙区である。小池さんは6月28日、参議院から鞍替えし、衆院選に出ると会見で発表していた。2カ所で応援演説をした後、彼女の遊説車に乗り込み、うぐいす嬢まで買ってでた。

 この衆院選に、日本新党としては、三井マリ子さんら女性を多く出したかった。だが、公認調整がうまくいかず、結局、女性の候補は少なくなってしまった。それだけに、小池さんにはなんとしても勝ってほしかったのだ。

うれしかった枝野幸男さんの当選

 1993年7月18日、「うそつき解散」と命名された衆院選の投票日は、開票作業がはじまる前から、党本部の熱気は最高潮に達していた。ホールには150人以上ものメディア関係者が詰めかけ、押し合いへし合いの大混雑だった。

 細川さん、小池さん、海江田万里さんの三人と私は本部に入る前、赤坂プリンスホテルの部屋で今後の打ち合わせをした。夕方6時、細川代表と私は党本部へ。ホールにみかん箱で急ごしらえした段上にテーブルが置かれ、二人が椅子に腰かけると一斉にフラッシュがたかれた。カメラマンが押し寄せて段の一部が壊れ、私と細川代表の椅子が倒れそうになる一幕もあった。

当選をはたして選挙本部にかけつけた日本新党の今井宏氏(左)と握手をする細川護熙代表。中央は円より子選対本部長=1993年7月18日 当選をはたして選挙本部にかけつけた日本新党の今井宏氏(左)と握手をする細川護熙代表。中央は円より子選対本部長=1993年7月18日
 二人の前には何台ものテレビが置かれ、開票が進み当確が出るたびに、各選挙区の事務所の様子がテレビに映し出される。東京都や東京近くの当選者は、当確が出ると党本部に駆けつけ、満面の笑みで、細川代表と握手をした。

 結局、定員511人のうち、日本新党は35人の議席を獲得。1年前に登場したばかりの新党がゼロから35の議席を衆議院で得たのだ。大勝利といっていい。

 なかでも、埼玉県の枝野幸男さん(現立憲民主党代表)の当確が出た時は嬉しかった。日本の政党で初めて候補者を公募し、合格した二人のうちの一人だったからだ。

 今でこそ演説のうまい枝野さんだが、当時は自信がなかったのだろう。公募の二次面接の前に、私に演説のリハーサルをしてくれと頼みこんできた。見込みのある青年と感じていたので、二次面接に合格するよう、手取り足取りアドバイスをした記憶がある。選挙の時も、彼の選挙区である大宮市に、「新幹線ならすぐですから」と気の乗らない細川代表を何度も応援に入らせたのは私だった。

 もう一人の公募候補も有能だったが、選挙区が遠方だったため、ついに細川代表に一度も応援に入ってもらうことはできなかった。人には運というのがあるとつくづく思う。枝野さんの当選理由の一つは、東京から選挙区が近かったからではないか。

日本新党が非自民に舵を切った瞬間

 この衆院選の最大の特徴は、戦後の日本の政治を長らく規定してきた、自民、社会両党による「55年体制」が崩壊した点にある。

 選挙前に分裂して勢力を減らした自民党は、223議席と公示前の勢力をかろうじて維持したが、過半数には程遠かった。また、社会党は66減の70議席と歴史的な惨敗を喫した。これに対し、自民党が割れてできた新党は、小沢一郎さんらが立ち上げた新生党が55人(19人増)、武村正義さんらの新党さきがけが13人(3人増)といずれも躍進。日本新党をあわせて、既存政党以外の勢力が一定の数を握った。

 こうした状況に小沢さんが動いた。キャスティングボートを握る日本新党、さきがけらを「非自民陣営」に引っ張り込み、非自民8党派の連立政権をつくり上げたのだ。自民党は議席上は第一党だったにもかかわらず、あえなく下野した。

 実は日本新党の帰趨がまだ決まっていない7月22日、細川さんは小沢さんとニューオータニで会談している。その後、党の企画調整本部長に、「すぐに議員総会を開いてほしい」と、指示を出したという。細川さんから、異常に高揚した雰囲気が伝わってきた。そう本部長は述懐する。

 当初、議員総会では多くの議員が連立政権に入ることに反対した。入ったところで、細川さんは外務大臣あたりを引き受けさせられるだけだと、みなが思っていたからだ。参院議員の小島慶三さんにいたっては、小沢さんと組むべきでないと強硬に反対した。風向きが変わったのは、企画調整本部長が細川さんに質問してからだ。

 「代表、連立政権に参加するということは、総理大臣の可能性もあるということですか」という問いかけに、細川さんは何も言わなかった。全員が悟った。

 細川さんは総理になる――。

 日本新党の連立政権への参加が事実上、決まり、非自民連立政権への道筋がひかれた。

 8月5日、特別国会が開かれた。翌6日、細川さんが首班に指名され、細川総理が誕生する。38年続いた自民党政権が、ついに幕を下ろした。

細川内閣が誕生。官邸に呼ばれて、庭で記念写真の日本新党メンバー=1994年細川内閣が誕生。官邸に呼ばれて、庭で記念写真の日本新党メンバー=1994年(筆者提供)

党への寄付めぐり、衆院議員から総スカン

 発足からわずか1年で政権党、それも総理の出身政党になった日本新党だったが、党運営はかなり厳しかった。

 当時、私の最大の心配事は党の“台所”をどう回していくかだった。財政委員長に就任した鮫島宗明さんと、党財政の窮状を訴え、それまで4人の参院議員がしていたのと同様、立法調査費以外に衆院議員も月々50万ずつを党に入れてほしいと提案した。しかし、誰も賛成しない。それどころか、「鮫島と円はどういうつもりだ」と、党の執行部に異議申し立てをした。

 その急先鋒が小池百合子さんであり、野田佳彦さん(元総理大臣)、茂木敏充さん(現経産大臣)だった。誰一人として、党にお金を入れるとは言わなかったのである。

小池さんと私。違うところと共通するところ

参議院50周年を記念して開かれた女性国会で小池さん(前列左)と並んで座る円さん(右)=1997年10月4日(筆者提供)参議院50周年を記念して開かれた女性国会で小池さん(前列左)と並んで座る円さん(右)=1997年10月4日(筆者提供)
 小池さんを見ていると、女性の政治家には二種類あると思う。ひとつは、男社会で男以上に頑張るタイプ。小池さんは「24時間戦えます」のスタイルで、あらゆる飲み会に元気に参加していたから、細川さんの「熊本家臣団」(永田さんは別だが)から大モテだった。

 私はそんなタイプではない。あくまでも女性のやり方を貫く。たとえば母子家庭で小学生の娘がいるので、「すみません、子どもと夕飯たべるので」と、飲み会には出ずにさっさと帰ってしまう。小池さんが、ホテルでの朝食会を企画した時も、「えっー、私は毎朝、朝食作って食べさせなきゃ。自民党と同じようなことやめましょうよ」と言ったから、顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまった。円さんは「女の武器じゃなく、子どもを武器にしている」とからかわれたものだ。

 「働き方のスタイル」がまったく違うのだ。ただ、今も政治の世界には、「小池さん型」が多いかもしれない。

 とはいえ、私と小池さんには共通している点もあった。それは、本質的に“図太い”ところだという。それを見せないようにしていたので、男たちには見えなかったが、それだけ二人とも一級品であり、政治の世界で生き残るにはふてぶてしさ、図太さは重要だと、かつて企画調整本部長から言われたことがある。

 話を日本新党に戻す。政治資金について、党としては「企業献金を廃止して、全て個人献金とする」と明確にうたっていた。ただ、個人献金の目標は十分に達成されたとは言いがたく、細川さんの個人的人気とその個人的借金に支えられていたのが実態だった。

 歴史に「IF」(もしも)はないが、それでも私は時折考える。もしあの時、鮫島さんや私が提案したように4人の参議院議員と同様、40人以上(当選後の追加公認の人々も含めて)の衆議院議員が毎月50万ずつ党に寄付していたら、政党交付金が出るまで、日本新党は党を存続できたのではないか。今もなお、残念でならない。(続く)