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平成から令和へ。日本は「戦後」を終えられるか?

二つの改元を見た記者が考える平成の30年(下)

三浦俊章 朝日新聞編集委員

天皇陛下即位30年と天皇、皇后両陛下ご成婚60年を祝う音楽会に出席する天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻=2019年4月2日、皇居・東御苑の桃華学堂天皇陛下即位30年と天皇、皇后両陛下ご成婚60年を祝う音楽会に出席する天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻=2019年4月2日、皇居・東御苑の桃華学堂

 平成はグローバル化の時代であり、日本のかかえる様々な問題は、他の先進デモクラシー諸国と共通する課題として考えるべきだということを、「令和へと替わる平成は『来なかった未来』の時代 二つの改元を見た記者が考える平成の30年(上)」で論じた。今回は、日本特有の視点から、平成の30年をとらえ直してみたい。

 象徴的な場面がある。昨年12月におこなわれた、現天皇にとって最後となる天皇誕生日の記者会見でのことだ。

衝撃を受けた天皇の言葉

 誕生日前の恒例の会見は、即位翌年の1990年から毎年行われてきたが、これが在位中の会見としても最後の機会となった。16分間にわたった会見で、「天皇としての旅を終えようとしている」「支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と述べ、また皇后の献身をねぎらった。途中何度も感極まり、言葉を詰まらせた。その中に、平成という時代に触れた一節があった。

 「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」

 私は、この言葉に衝撃を受けた。

次の時代も「戦争のない時代」であり続けるか

85歳の誕生日前の記者会見で、声を詰まらせながら話す天皇陛下=2018年12月20日85歳の誕生日前の記者会見で、声を詰まらせながら話す天皇陛下=2018年12月20日
 1933年生まれの天皇は、子ども時代を戦争下で過ごした。1931年に始まった満州事変は1937年に日中の全面戦争となり、1941年には太平洋戦争の開戦に至った。11歳のときに日本の敗戦を目の当たりにする。

 そうした戦争経験が、天皇の度重なる国内外の慰霊の旅や、特に沖縄への思いの背景にあるとは想像はしていた。しかし、自分の在位中に戦争がなかったことを、「安堵」という言葉で表現されるとは、驚きであった。

 これは極めて重大な問いかけではないか。

 次の時代もまた、「戦争のない時代」であり続けるのだろうか。

 聞く側の受け取り方かもしれないが、私の心の中には、そういう問いが生じた。

日本に特有な「戦後」のとらえ方

 天皇の言った「戦争のない時代」。それは、私たちが広く共有してきた「戦後」像の中核にあるイメージである。

 「戦後」とは、よく考えてみると、不思議な言葉である。

 そもそも、「戦後」とはいつを指すのか。米国人ならば、「どの戦後か」と問い返すだろう。彼らには、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と、いくつもの「戦後」がある。欧州で「戦後」といえば、1950年代半ば、戦後復興が一段落したときに終わっている時代だ。

 そういうなかで、ひとり日本のみが、第2次世界大戦から今日までの74年間を、連続する歴史的時間として「戦後」とみなしている。

 なぜだろうか。

 それは、「戦後」が、強い価値がこめられた言葉だからである。

 1945年に軍国日本は無謀な戦争に敗れ、その後、新しい憲法のもとに国民主権の民主主義の国として生まれ変わった。その原点が今日まで変わっていない以上、この70年あまりは、ひとつづきの「戦後」という歴史的時間として、とらえることが可能になる。

日本の「戦後」像を支えるふたつの柱

戦後はここから始まった。国鉄新橋駅前の闇市=1946年2月15日戦後はここから始まった。国鉄新橋駅前の闇市=1946年2月15日
 その「戦後」像を支えるふたつの柱がある。

 ひとつは、天皇の言葉にも現れた「戦争のない時代」というイメージだ。先の戦争は、戦場でも国内でも、多くの人々を悲惨な状況に追い込んだ。旧軍の戦場での行動、軍隊内での暴力、人間を殺人兵器と扱う特攻攻撃など、戦争を経験した人たちが目にしたことは、強い記憶として残り、軍隊やおよそ軍事的な価値に対する強い反発の感情を生んだ。経験に基づくこうした国民の戦争観抜きに、戦後の平和主義の定着は説明できないだろう。

 「戦後」という意識を支えるもうひとつの柱は、豊かさである。

 焼け跡の闇市から高度成長までの日本人の行動を支えたのは、もっと豊かになりたい、という願望だった。実際、所得は倍増し、新しい家電製品があふれ、多くの人がレジャーを楽しみ、海外旅行にも出かけられるようになった。豊かさは、戦後日本の現状に対する自負を生んだ。ハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授の「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」(1979年刊)は、もともとは当時停滞していたアメリカ社会に対する警告だったのに、日本語に翻訳されると、日本人の自己愛を満足させるベストセラーとなってしまった。経済大国という意識は、心地よいナショナリズムの源泉でもあった。

日本の不死鳥のような復興を象徴した東京五輪の開幕式=1964年10月10日日本の不死鳥のような復興を象徴した東京五輪の開幕式=1964年10月10日
 1995年の「戦後50年」の際、朝日新聞は大がかりな国民意識調査を行っている。

 「この50年の日本の歩みをふり返ったとき、あなたは、全体としてどう思いますか」という問いに、「よかった」が21%、「どちらといえばよかった」が63%、「どちらかといえばよくなかった」が11%、「よくなかった」が3%だった。「どちらかといえば」を含む肯定的な回答が、全体の84%を占めていた。

 「戦後」というものが当時、きわめてポジティブなイメージを抱かれていたことがわかる。戦後が達成した平和と繁栄が、その二本柱だった。

大きく揺らいでいる「戦後日本」

 だが、そうした「戦後日本」はいま、大きく揺らいでいる。

 平成の後半に入ると、領土問題、歴史認識問題など、アジアの隣国との摩擦が強まり、ナショナリズムの叫び声がかまびすしくなった。戦争経験を持つ世代が徐々に去り、戦争の現実を知らないまま、勇ましいだけの議論が横行している。

 頼みの経済でも、少子高齢化の加速と、中国や他の新興国の台頭で、「豊かな日本」という自負は消えてしまった。ヘイトスピーチなど最近の排外的な思想や行動は、エコノミックパワーとしての地位低下と無関係ではないだろう。

 平成の30年とは、ポジティブな「戦後」のイメージが徐々に降下していった時代であった。「戦後」とは、結局は行き詰まった時代だったという評価さえある。そうした「戦後」意識の衰退は、今後も止められないだろう。

終止符を打てていない日本の「戦後」

 しかし、だからといって、体制としての「戦後」、日本の現在のありようを規定する大きな枠組みとしての「戦後」が、近い将来に終わるとは思えない。

 「戦後」を否定する保守ナショナリストたちが忘れているのは、日米安保こそが「戦後」体制の最たるものである、ということだ。冷戦下で占領の継続として始まった日米安保体制は、日本側がたえず対等性を求めながらも、現況の沖縄基地問題への対応に象徴されるように、安全保障に関する限り、米国が決め日本が従う大枠には変化はない。

 奇妙なのは、国の独立と誇りを重視する保守政治家の中に、米国にもの申す気概が乏しいことだろう。彼らのナショナリズムは、日本にもっとも大きな影響力を行使し、あれこれ指図する米国には向かわない。そのかわり、中国や韓国などアジアに向けて噴出する。歴史認識問題や領土問題が格好の標的となる。

 しかし、よく考えてみれば、日本の過去に由来する周辺諸国とのこれらの問題をいまだ解決できていないということは、戦後処理が終わっていない、ということではないか。つまり日本の「戦後」に終止符を打てていないということだ。こうした実在の問題を棚上げにして、「戦後」の克服や総決算を唱えても何も進まないだろう。

令和への期待は国際社会とのリセット

 日本の「戦後」は、日本だけでは終わりにできない。「戦後」をほんとうに終わらせるには、米国とアジアとの残された問題に取り組み、対等かつ、共同で国際秩序を築けるパートナーとなることしかない。

 安易な道ではない。他国の立場に身を置くと問題がどう見えるのかを想像し、折り合える共通の解を探す、という辛抱強い作業が必要となる。それは、現代の日本がもっとも苦手とすることだ。権力者の忖度(そんたく)はするが、多様な見方を認める寛容さや、粘り強く考え抜く複眼的思考は、急速に失われているからだ。

 だが、新しい元号が、人々が期待するように、時代の雰囲気を刷新するリセットの機会となるのであれば、国際社会との付き合い方のリセットこそ望みたい。そのことが日本の「戦後」体制の課題を克服する道につながるのであれば、令和は、真に「ポスト戦後」の時代となるだろう。

 平成の30年を見てきた政治記者としての、それが令和への期待である。

サイパンへの天皇皇后両陛下の慰霊の旅=2005年6月28日サイパンへの天皇皇后両陛下の慰霊の旅=2005年6月28日