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司馬遼太郎が見つめた日露戦争後の日本の「狂躁」

【10】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」④

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

明治に生まれた近代国家・日本を日露戦争まで描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」(文春文庫)の初巻と最終巻

 作家・司馬遼太郎(1923~1996)は半世紀前、長編小説「坂の上の雲」で日露戦争を描いた。講和反対の「国民大会」に端を発する東京都心での暴動、日比谷焼き打ち事件には触れずに小説は終わるが、この戦争で輪郭を表した「国民」に対してかなり辛辣(しんらつ)だ。

 1969年の「あとがき」で、ロシア軍内部の混乱を指摘したうえで、司馬はこう書く。

     ◇

 要するにロシアはみずからに負けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。

 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。

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大正政変とのつながり

陸軍大将、首相を務めた桂太郎=国立国会図書館所蔵
 この連載の「日比谷焼き打ち事件と『国民』」編では、明治の思想や司馬作品に詳しい作家の関川夏央(69)さんと東京都心の事件現場を巡ってきた。この事件に続き「国民」が起こした印象的な出来事として関川さんが挙げたのが、1913年の第1次護憲運動と大正政変だった。

 その前年の大正元年、桂太郎が政局の混乱の末に首相となる。山県有朋ら維新を担った元老が、天皇に推した人事だった。

 桂は長州藩士から陸軍大将、首相という経歴においてことごとく山県の後輩だ。明治から大正にかけ首相を3度務め、最初の首相の時には日露戦争を主導。通算8年近い歴代最長の首相在任期間に、同郷の安倍晋三首相が迫っている。

 その桂の3度目の首相就任に対し、民選議員からなる衆議院で、野党が「閥族打破・憲政擁護」を掲げ辞任を求めた。

桂内閣成立後の1913年2月5日、「憲政擁護」派の政治家を応援すべく衆議院前に詰めかけた群衆=朝日新聞社
 桂は衆議院解散へ動いたが、野党を支持する群衆が衆議院を包囲したため、あきらめて組閣から50数日で退陣。これがその後の初の政党内閣発足、普通選挙運動といった大正デモクラシーへとつながる。

 だが、関川さんは当時の世相に違和感を覚えるという。

 「要するに不満だ、国民が主人公だと。でもそれがなぜ護憲運動と言われたのかわからない。桂がどんな憲法違反をしたのかもね」

 桂は天皇から首相に任命されており、天皇を統治者とする明治憲法に照らし手続きに問題はない。「国民」たちが問題にしたのは、憲法上の根拠がわからない元老らによる天皇への推薦が、相も変わらず行われたことだった。

 この国を治める天皇が耳を傾けるべきは、元老ではなく「国民」ではないのか、ということだったのだろう。

明治から大正の世相を語る作家の関川夏央さん=2月、藤田直央撮影
 そこには、憲法上は統治される「臣民」として天皇とつながりつつ、その枠に収まらない「国民」としての自我の高揚があった。それは、大正政変の8年前、桂が最初の首相の時に日比谷公園で開かれた日露戦争講和反対の「国民大会」で、隣の皇居に届けとばかり声を上げ、そこから二重橋前へ行進した群衆の「主人公意識」(関川さん)に通じる。

 確かに、国内政治における民主主義へのステップとしては、前進だったかもしれない。大正政変でやり玉にあがった桂や山県は、陸軍の重鎮でもあったからだ。それでも、日露戦争から大正デモクラシーへ至るこの時期、日本が対外的にどう動いたかを、われわれは忘れるべきではないだろう。

 日本は、1910年の韓国併合で朝鮮半島を植民地化し、1915年には中国への二十一カ条要求で南満州などでの日本権益を強化する。これに反発し、1919年に朝鮮半島で3・1運動、中国では5・4運動が起き、反日ナショナリズムが広がっていく。

姜尚中氏の指摘

ナショナリズムについて語る姜尚中・東大名誉教授=3月、藤田直央撮影
 そういえば、この連載を始めるにあたり助言をいただいた姜尚中・東大名誉教授が、こんなことを話していた。姜さんは在日コリアン二世として、日本のナショナリズムを見つめてきた人だ。

 「3・1運動を通じて、他国を侵略し蹂躙(じゅうりん)する時代は終わったんだという訴えが、植民地とされた朝鮮半島から出てきた時、日本でそれに反応できたのは、

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