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イチローにあげ損なった国民栄誉賞とデモクラシー

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

イチロー国民栄誉賞を辞退したイチロー。その真意は不明だが……

 現役からの引退を表明したイチローに国民栄誉賞を、という話が政府筋で考慮されていたようだ。そして、一般にも多くの人々にそうした予想というか、期待というか、雰囲気が広がり始めていたところに、イチローの方から代理人を通じて政府に、「人生の幕を下ろした時にいただけるよう励みます」というメッセージが届いたとか。官邸中枢はさぞがっかりしたことだろう。安倍政権に批判的な立場からのネットへの書き込みには「ザマアミロ」などというのもある。

 すでに2回謝絶ないし固辞しているそうだが、今回もイチローの真意はわからない。内心、「そんなもの、もらってなにになる」と思っているのかもしれないし、本当に「人生の最後になってから」と謙虚に考えているのかもしれない。一般にプロのスポーツ選手は、日本社会の全体のあり方を根本的に批判するような知的枠組みには育っていないので(例えば先輩後輩の序列という無意味は彼らの心に深くしみついている)、安倍政権や自民党支配がいやだから、という確率は低いだろう。

 断り方がうまかったのか、球道一筋という普段からの印象がよかったのか、ローラさんのように辺野古移転のあり方を批判した芸能人に対するのと違って、バッシングが起きなかったのも面白い。ネトウヨも動かなかったようだし、コマーシャルのキャンセルの話も聞かないから、広告会社も無反応だったらしい。「こんな汚れた政府からはいただくわけにいかない」という発言だったら、蜂の巣をつっついたような大騒ぎになっていたろうが、そんなことは期待するのが無理というものだ。

国民栄誉賞を受賞し、安倍晋三首相(右)から盾を受け取る羽生結弦選手=2018年7月国民栄誉賞を受賞した羽生結弦選手とのツーショットは典型的な政治のショービジネス化と言えるだろう

「英雄」たちのカリスマ性やオーラを借りる政治家たち

 では、なぜ政府は要所々々に、国民栄誉賞なるものを連発するのだろうか。答えはきわめて簡単で、「人気取り」である。これまでの受賞者には歌謡曲や映画関係の有名人もいるが、最近では圧倒的にスポーツが多い。囲碁将棋も勝負事である以上、スポーツの一種だ。羽生結弦、羽生善治、松井秀喜や長嶋茂雄。私みたいにヘボ将棋は指すが、碁のルールさえ知らない人間でも、メディアを通じて井山裕太という名前は流れ込んでくる。

 実際に、国民栄誉賞の授与式がテレビその他で大々的に流されると、授与する人とその党、つまり首相と自民党の支持率が上がるようだ。それまでは安倍首相も自民党も支持していなかった人が、あるいは元来は支持していたけど、モリカケなどでちょっと顔を背けていたかなりの数の人が、羽生善治や羽生結弦に表彰状が渡されるのを見て、支持に方向転換している、ということだろう。政治とはまったく無関係のショーやパフォーマンスで、相当数の人が選挙につながるかたちで意見を変えるというのだから、大変なことだ。

 その意味では「がっかり」という報道のある官邸中枢も、「ザマアミロ」と書き込む批判派も、国民を支持の道具にしている、操作可能な対象にしている、ようするにバカにしているという前提は同じだ。選挙は元来は目の前の相手を重視して、議論を戦わせるべきものなのだが。

 専門家が「象徴政治」と呼ぶ、こうした演出が安倍政権になってから目立つことはたしかだ。テレビ出演中のノーベル賞受賞者に電話をかけて「日本人の誇り」と絶叫する過剰演出からはじまって、トランプ大統領とのゴルフのシーンまで一連の「こっち見て」が思い出される。トランプとのゴルフには

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