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安倍首相と明仁上皇(下)

「国民統合の象徴」を問う上皇のメッセージを封印した安倍政権の有識者会議

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

象徴としてのお務めについて、お言葉を述べる明仁上皇=2016年8月8日、宮内庁提供

 明仁上皇と安倍晋三首相の間に走る深い溝、逆断層の構造を理解するには、憲法第1条に謳われた「日本国民統合の象徴」の意味を実直に追究してきた明仁上皇の生涯と、その生涯の意味を破壊するにも等しい安倍首相の政治活動とを考え合わせてみることが必要だ。

 「日本国民統合の象徴」とは何か? 

 「日本国民統合の象徴」として生きるとはどういう生き方なのだろうか?

 内外ともに破壊し尽くし、破壊し尽くされた戦争の惨禍の後、日本国民はどのような構想の下に統合されていくのだろうか? 

 そして、その国民統合の「象徴」として生きていくということは?

 皇太子、そして天皇として自分ただ一人に突きつけられたこれらの問いに生涯を捧げた明仁上皇の孤独な旅は、様々な意味でいま終わりつつある。

 国民はその旅の局面を折に触れてしばしば目撃してきた。いま、旅の到達地点から逆にたどってみて、まずは「日本国民統合の象徴」の意味を探ってみよう。

「私は80歳で皇太子に譲位したい」

 明仁上皇が「生前退位」を初めて口にしたのは2010年7月22日の参与会議だった。

 午後7時、皇居の中にある天皇の住居、御所。そこには、長いテーブルに置かれた弁当に箸を運ぶ10人ほどの人々の姿があった。

 テーブルの中央に、まだ退位していない上皇、つまり明仁天皇(上皇)と美智子皇后(上皇后)夫妻がいた。ほぼひと月に1回開く恒例の会議だったが、この夜はとんでもない衝撃と緊張が参与たちの間に走った。

 私は、この衝撃を味わった参与の一人からこの夜の様子をつぶさに聞いた。

 「私は80歳で皇太子に譲位したい」

 この時76歳の明仁上皇の口から出た言葉は、心の準備をしていなかった参与たちを驚かせた。

 皇室典範では生前退位の制度がなく、摂政を置くことだけが定められている。しかも、天皇の意思だけでは摂政を置くことはできない。このため、明仁上皇の意思を尊重すれば、皇室典範を改正して、現状でも摂政を置けるようにすればいい。

 あまりに衝撃的な発言だったため、参与たちは挙って「生前退位」に反対し、摂政に公務を肩代わりしてもらうことを口々に述べ立てた。

 しかし、明仁上皇の意思は固かった。

 「摂政では天皇の代わりはできません」

 明仁上皇はこう断言し、母にあたる香淳皇后(当時)の事例も挙げた。外国からの賓客を招いた晩餐会の折、高齢の皇后の会話は滞りがちだった。通訳が取り繕う場面もあったが、近くで会話を耳にした皇太子時代の明仁上皇はいたたまれない思いをした、とのことだった。

 衝撃発言が続く間、明仁上皇の隣に座っていた美智子上皇后は、当初、生前退位に反対していた。しかし、明仁上皇の言葉と論理に耳を傾けるうちに反対論から少しずつ転じ始めた。

 出席者のひとりが、大正天皇の摂政を務めた皇太子時代の昭和天皇の事例を挙げ、「天皇への道としては好例にあたるのではないでしょうか」と指摘したところ、美智子上皇后は「摂政を経なければ天皇の務めをまっとうできないとは思えません」という趣旨の反論をした。

 美智子上皇后は常に明仁上皇の最大の理解者であり、この場でも明仁上皇の言葉の真意を真っ先に理解したようだ。

 しかし、参与たちは明仁上皇の考えをなかなか理解できなかった。会議は深夜の12時を回っても続いた。結論は見えず、最後は上皇自身立ち上がったまま議論を続けた。生前退位にかける明仁上皇の思いはそれほど強かった。

政治学者、岡義武の『近代日本政治史Ⅰ』

「退位礼正殿の儀」でおことばを述べる明仁上皇=2019年4月30日、皇居・宮殿「松の間」
 「国民統合の象徴」の意味を追い求める旅の最終到達地点の近くに来て、生前退位を思う明仁上皇の強い意志はどこから来ていたのだろうか。

 前回の『安倍首相と明仁上皇(上)』で記したように、明仁上皇は、日本人として忘れてはならない日付として四つ挙げている。6月23日・沖縄慰霊の日、8月6日・広島原爆の日、同9日・長崎原爆の日、同15日・戦争の終わった日だ。

 そして、何度も訪れた沖縄や長崎、広島、サイパンやパラオなどの激戦地慰霊訪問、沈没して約1500人の子どもたちが犠牲となった那覇市の対馬丸記念館訪問にうかがわれるように、明仁上皇の旅は、悲劇の歴史に対するひとりの人間としての深い感情と洞察に由来している。

 平和への強いメッセージを発し、戦争の犠牲者への慰霊の旅を黙々と続けてきた明仁上皇が思い描く「国民統合の象徴」の像はここに来ておのずと明らかだろう。そして、憲法の最大の柱のひとつである平和主義への旅を公務として続けられなくなってきた高齢の段階になって、その「象徴」の役割は次の世代に引き継がれなければならない。これが、生前退位にかける明仁上皇の真意だった。

 明仁上皇のこの真意は自らどのように養い、どのように醸成されてきたのだろうか。その由って来たる場所をもう少し探索してみたい。

 その探索作業の過程で見えてくるものは何だろうか。明治以降の近代天皇制に対する客観的な理解と、戦争に急傾斜していく戦前政治への正確な知識を自ら身につけたことによって深い歴史的な洞察力を獲得した明仁上皇の姿だ。

 2014年10月、東京・高島屋日本橋店で「天皇皇后両陛下の80年」特別展が催された。そこに展示された明仁上皇の愛読書の中に、皇太子時代、常時参与の小泉信三とともに読んだ『ジョージ五世伝』の原書と並んで、政治学者、岡義武の『近代日本政治史Ⅰ』(創文社)が置いてあった。

 「教科書で使ったとかという意味で並べたんじゃありません。自分が影響を受けた本として陳列したんです」

 この時、明仁上皇と会話を交わした関係者が聞いた上皇の言葉だ。

 幕末以降、大日本帝国憲法が制定されるころまでの明治期の政治史を叙述したこの本には、藩閥勢力による天皇制官僚国家の成立と、教育勅語発布による天皇制ナショナリズムの萌芽が明瞭に指摘されている。

 前回の『安倍首相と明仁上皇(上)』で紹介したが、丸山眞男とアーネスト・ゲルナーは天皇制官僚国家とナショナリズムの明治以来の原初的な構造をそれぞれに追究した。この構造について、明仁上皇は深く理解していたと言えるだろう。

明治期の講義を希望した皇太子を容れなかった上皇

 明仁上皇は、皇太子時代の11歳の時に敗戦の日を迎えた。

 昭和天皇の望みによって米国人家庭教師、ヴァイニング夫人の下につき、皇太子といえども特別視しない教育を受けた。ヴァイニング夫人は、ひとりの人間として主体的に考える力を養成する教育を施したという。

 同時に、常時参与の小泉が『ジョージ五世伝』とともに、福沢諭吉の『帝室論』や『尊王論』の講義をし、岡義武が明治以降の日本政治史の教鞭を執った。

 岡は、大正デモクラシーの中心人物のひとりだった吉野作造に師事しており、東京帝大の教授となってからは、大学に入りたての丸山を教えた。丸山自身、岡に対する大学1年時の味わい深い思い出を語っている。

 時代や年齢にちがいはあるが、明仁上皇と丸山は、吉野の流れをくむ同じ師の薫陶を受けた、とも言える。

 岡は、現在の天皇、徳仁皇太子が英国オックスフォード大学に留学する1983年に、日本近代史について留学前に特別講義を受けさせるべく、明仁上皇から相談を受けた。

 この時、徳仁皇太子は、関心の強い明治期の講義を希望したが、明仁上皇自身はあえてこの希望を容れなかった。

 「いや、そういう時期のものは適当な文献を読めばいい。なぜ戦争が起きたのかという講義をしてもらうことが重要だ」

 明仁上皇のこの一言で講義のテーマが決まった。

 この時、岡自身が直接講義したわけではないが、満州事変以降の戦前史が徳仁皇太子への特別講義となった。次代を託す次の天皇はどのような素養を特に身につけなければならないか、明仁上皇の深い認識がわかるエピソードだ。

「退位礼正殿の儀」を終え、「松の間」を出る明仁上皇=2019年4月30日

 明仁上皇は、これまでに天皇即位後の会見のほか即位10年と20年に際しての会見、結婚50年に際しての会見など計11回にわたって、「天皇は憲法に従って務めを果たす」という趣旨の発言をしている、という。(山本雅人『天皇陛下の本心 25万字の「おことば」を読む』新潮新書による)

 自らの根拠法であるため、憲法を最大限尊重することは当然のことだが、前述のように公務として取り組み続けてきた戦跡慰霊訪問、広島や長崎の原爆慰霊などを併せ考える時、憲法の柱である平和主義へのきわめて強い信念といったものを想起することができる。

 日本の憲法学者のほとんどが憲法9条違反と断じた安倍政権の集団的自衛権導入は、明仁上皇の目にどう映っただろうか。

 2016年8月8日、明仁上皇は、天皇退位に関する自身の考えを初めて国民に語りかけた。

 その中で明仁上皇は、「国民統合の象徴としての役割」を特に強調し、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と述べている。

 ここではっきりしていることは、明仁上皇の考える「国民統合の象徴」とは、皇居の奥まった御所に座り続け、祭祀だけを司る天皇ではないということだ。

 平和主義という憲法の理念を体現し、積極的に心と体の旅を続ける天皇だ。ひとりの人間として平和主義を体現し続ける天皇像。これが現代の「国民統合の象徴」でなくて何であろうか。

上皇のメッセージを封印した安倍政権の有識者会議

 ここでひるがえって、明仁上皇の言葉を聞いた1か月半後、2016年9月23日に安倍首相が決裁した「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を見てみよう。

 まず、「有識者」として選ばれた6人の顔ぶれを見た時、メンバーたちは明仁上皇の考えに深く思いをいたした発言なり論考なりを公にした例があったのだろうか、という疑念にかられる。

 6人のメンバーのうちただ一人、近現代の日本政治史を専攻する御厨貴・東大名誉教授だけが「天皇」に関する著作を刊行している。残りの5人は「天皇」に関する問題領域とはほとんど関係がない。5人はいわゆる「素人」と言っていい。

 特定のイデオロギー色の強い専門家を選ばなかったという観点もあるかもしれないが、御厨のような中立的な専門家を揃える方法もあったはずだ。

「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」に臨む有識者ら=2017年4月13日、首相官邸

 そして、最大の疑念はこの会議の名称にある。一体、いかなる根拠に基づいてこのような名称の会議になったのだろうか。明仁上皇が1か月半前に国民に向かって発したメッセージのどこを見ても、「公務の負担軽減」などを訴えた箇所は存在しない。

 それどころか、こう語っていた。

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