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テロ特措法に反対。自党の男性議員から受けた罵声

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑫重労働の国対幹部、9・11に衝撃

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

女性議員を増やす活動をずっと続けた。日本新党時代は女性を50%にするためのFifty Clubも作った。中央はあいさつする円=1994年11月15日

国対委員長代理を仰せつかって

 前回、盗聴法案の成立をなんとか阻止するべく、参議院法務委員会の理事として73日間粘った話を書いた。(「盗聴法に抗った73日。男性議員の微妙な褒め言葉」参照)。法案は結局、成立してしまったのだが、頑張りが認められたのか、私は国対委員長代理という役職を仰せつかった。1999年夏のことだ。

 国対。正式にいうと国会対策委員会という。国会運営を円滑に行うため、各党各会派にもうけられている。最近では、安倍晋三政権のもと、国会での各党の質問時間の配分を、これまでの慣例だった「野党8対与党2」から「野党5対与党5」に変更したいと与党が言いだした際、国対で協議をしている光景がよくテレビに出ていたので、「ああ、あの国対か」と思う人もいるだろう。

「女性が政治の主役になるとき」をテーマに100歳になった加藤シヅエさん(女性のための政治スクール名誉校長)と女性の政治参加の意義について話し合う円= 1997年4月12日
 ちなみに現在、立憲民主党の国対委員長は、テレビでもおなじみの辻元清美さん。女性が国対委員長になるのは、これまではなかった。

 そもそも国会議員、とりわけ衆議院は女性議員が少ない。また、委員会によって男女の片寄りもある。議員は基本的にどの委員会に希望を出してもいいのだが、女性の場合、防衛や金融財政、国土交通といった委員会はあまり希望しないのが現状だ。女性議員を増やすのは当然だが、同時に、さまざまな分野(防衛や金融といったハードな課題も含め)に精通する女性議員を、今後は増やしていくことが必要だろう。

男性の仕事?

Eric Tsang/shutterstock.com
 話を戻す。この国対だが、あくまで党の委員会で、国会の委員会ではない。国会運営を円滑にするのが仕事だが、かなりの重労働である。

 国会で審議する法律の順番をどうするか、参議院先議の案件をどれにするか、質問時間をどう配分するかなどをさばいていくのだが、相当な駆け引き力が求められる。委員会のメンバー、理事などの役職の人事権も持っているので、党内事情に精通していなければならないし、理事会や委員会に対して、適宜、指示を出さないといけない。

 指示を出すには、国会の動き、法案の中身、各政党の方針を知っておくのは当然だが、駆け引きのため、各党の理事の人柄やくせまでも頭に入れておかないといけない。国対が機能しないと、その党が国会で力を発揮できないといっていいほど、重要な役職である。

 重労働だけに従来、男性議員の仕事と思われていて、私が国対委員長代理につくまで、大政党で女性がその座についたことはなかった。委員長代理は、他の国対委員や国対副委員長と違って、委員長と同等に近い仕事をする役割を担うからである。

細川さんの激励で受諾を決意

 私が政治生活をはじめた日本新党は、新しい政治スタイルを確立しようとしていたので、自民党政治の象徴ともいえる「料亭政治」を廃止したが、同時に「国対政治」も改めようとしていた。国対といえば、他党との折衝と称して、毎夜、麻雀や飲食を行うのが常。それこそ、社会党が激しく法案に反対する場合は、高級料亭で社会党の国対委員長などを自民党の国対委員長が接待したり、かけ麻雀でわざと自民党国対委員長が敗ける、なんてこともいわれていた。もちろん、ゴルフ接待も。

 料亭やゴルフの帰りには「お土産」が渡され、料亭が取り寄せた高級な菓子折りの中には分厚い札束が入っているという噂も、まことしやかにささやかれた。そうした「悪弊」を断つというのが、日本新党のスタンスだった。

 そんなわけで、国対にいいイメージを持っていなかった私は、国対委員長代理を引き受けてくれといわれたとき、逡巡した。だが、かつて日本新党の代表だった細川護熙さんに相談すると、細川さんも自民党の参院議員時代には国対をやったことがあるという。それも5年間も!

 「自民党の参議院で、まともに国対がやれたのは斎藤十朗議長と私だけですよ。円さんも頑張りなさい。必ずその経験はあなたを大きくしますよ」。そう励まされた私は、「ゴルフ、麻雀、飲み食いをしませんけど、それで務まるなら」と言って引き受けた。

国会議事堂一番乗りは青木幹雄・官房長官

 国対委員長代理の仕事は生易しいものではなかった。

 忘れもしない委員長代理になって3日目のこと。北澤俊美・国対委員長(後の防衛大臣)は地元の急用で留守だった。議運委員会の理事会が終わり、理事が国対の部屋に戻ってくる。国対が報告を聞いて、次の手を指示するのだが、空いている委員長の席に堂々と党職員である事務局長が坐り、私よりずっと年上の議運の理事に、「こうこうして下さい」と指示を出している。議運の理事も事務局長も、私などまったく無視である。

青木幹雄・官房長官=1999年10月15日、首相官邸
 これではいけない。その日以降、私は委員会の質問資料などを国対の部屋に持ち込み、朝から晩まで詰めることにした。部屋には、あらゆる委員会の理事や他党の国対関係者、各省の国会担当がやってくる。そこにいると、国会で何が起きているか、どういう手を打たなければならないかが、会得できるからだ。

 朝一番に国対の部屋に入ろうと思い、頑張って早起きし、国会議事堂に行った。国会議員は議事堂内に入るとき、入館のボタンを押す。すると自分の名札にランプがつく。一番乗りを狙って入るのだが、いつも二番だった。一番は誰か? それは当時、官房長官だった青木幹雄さんだった。

 参院議員2期目になった私は、盗聴法阻止や外国人登録法、児童買春児童ポルノ禁止法の議員立法に関わる一方、国対委員長代理として国会に張り付くという、支持者には見えにくい仕事をせっせとこなしていたが、そこにふってわいたのが、テロ特措法審議という大事案であった。

9・11には衝撃を受けたが……

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センタービルが爆破された事件は、世界中の人々にとって衝撃的な出来事だった。貿易センタービルだけでなく、ペンタゴンやその他でも次々とテロが起き、アメリカ同時多発テロ事件と呼ばれる。

 あの夜、日本時間で10時すぎ、世界貿易センタービルに航空機が突入、炎上するだけでなく、二棟のビルが崩落していく様子を私は一人、自分の部屋でかたずを飲んで見ていた。死者3025人、負傷者6290人以上。

 ブッシュ大統領は非常事態を宣言。オサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織アルカイダの犯行と断定し、彼らが潜伏するアフガニスタンのタリバーン政権に引き渡しを要求する。アフガニスタンが引き渡しを拒否したため、アメリカは攻撃を開始した。

 「9.11」のテロ事件以後、アメリカ国内の世論は急速に先鋭化、超国家主義化。同時多発事件にイラクが関与していたのではないかとブッシュ政権がほのめかしたことから、2年後のイラク戦争が始まる。

倒壊した世界貿易センタービルの現場を視察する小泉純一郎首相=2001年9月24日、ニューヨーク
 これに真っ先に支持を表明したのは小泉純一郎首相だった。しかし、「ある」とされた大量破壊兵器は結局、イラクで見つからず、当時のアメリカの国務長官パウエルもイギリスのトニア・ブレア首相も後に、大量破壊兵器があるといってイラクを攻撃し、フセイン政権を倒したのはまちがいだったと語っている。

 9.11には私も大きな衝撃を受けた。しかし、テロを戦争行為とみなし、「アメリカにつくのか、テロリストにつくのか」といった、超大国アメリカの二者択一を迫る傲慢(ごうまん)さと、世界の多くの国が安易に追随するのは大きな問題だと思っていた。

 アメリカは自由と人権を尊重する国だが、建国以来200回以上もの対外出兵を繰り返し、我が国への原爆投下を含むほとんどの戦闘行為について、国家的反省をしたことがない「超戦争大国」だ。そんな国に世界の裁定権を委ねていいのか。戦争で犠牲になるのは常に女性や子供、高齢者、ふつうの市民であることを忘れず、国のリーダーなら慎重で抑制的な行動をとるべきではないか。

テロ特措法に真っ向から反対

 小泉さんはブッシュ大統領を支持しただけでなく、報復戦争を支援するために「テロ対策特別措置法」を国会に提出。民主党は当初、賛成に傾きそうだった。危機感を抱いた私は、国会での事前承認の必要性だけでなく、経費面のシビリアンコントロールを利かせるため、軍事予算が増え続けないように経費を国会の承認案件とする修正案を、参議院の政審会長の責任として作成した。そう、当時は私は、国対委員長代理ではなく政審会長になっていたのだ。また、同時に審議されている自衛隊法の修正案も準備した。

テロ特措法反対集会を国会内で開催し、大橋巨泉さんらに参加してもらった=2011年10月16日
 しかし、党内はますます賛成に傾く。私は政審会長の辞任を幹事長に届け、共産党や社民党の有志と共に、報復戦争に反対する集会に参加。有楽町、渋谷の街頭、さらに国会前でもマイクを握って、テロ特措法反対をアピールした。また、大橋巨泉さんを誘って「テロと報復戦争を阻止するための集会」も開いた。

 知名度がある巨泉さんが反対論をぶつと、メディアも取り上げる。効果が大きかった。巨泉さんとは国会議員になる前、彼の番組である「11PM」に出演したこともあり、旧知の仲だった。「自分も大反対だから、喜んで広告塔になる」と言って、すぐに引き受けてくれた。

 この時のテロ特措法、改正自衛隊法などが、後の集団的自衛権行使の容認までつながっていく。だが、アフガニスタンへの報復戦争やイラク戦争で、世界に平和が訪れただろうか。アフガニスタンやイラクでは、今なお庶民は苦しみ続けているし、テロはますます分散拡大している。

「出てくるな。お前は邪魔だ」

 法案に反対した私への風当たりは強かった。後に大臣になった参院議員は、委員会があって参院の役員会に遅れて出席した私に、「党を乱すような女は出てくるな。重要な話し合いの席にお前は邪魔だ」と声を張り上げた。盗聴法の時も廃案にしようと動いていた私に、「何を一人で力んでいるのか。すでに上層部は自民党とにぎっているのにバカじゃないか。この法案は必要なんだよ」と言い放った人である。

 ことごとく私の考えにいらだち、活動に腹を立てているらしいが、それにしても役員会でこの言いざまはないだろう。お前呼ばわりも、出ていけ発言も、失礼きわまりない。

 「失礼じゃないですか。意見と立場が違うからってその態度はないでしょ。謝りなさい」

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