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メルケル首相の14年にみるドイツと欧州の関係

花田吉隆 元防衛大学校教授

75年前のヒトラー暗殺未遂事件の記念式典であいさつするドイツのメルケル首相=2019年7月20日、ベルリン、野島淳撮影

 ドイツのメルケル首相の治政は14年を数え、このまま任期満了を迎えればその任期は16年に及ぶ。かつてない長さだ。戦後ドイツを代表する首相といえばコンラッド・アデナウアーとヘルムート・コールだが、メルケル首相はそれに匹敵するドイツの指導者だ。ところが、アデナウアー、コールと比較すると、メルケル首相には欠けるものがある。アデナウアーは、戦後、西独を自由主義陣営に結び付け、EEC発足と共に、西独を欧州に「埋め込む」という誰もが認める偉大な功績を成し遂げた。コールは冷戦終結に際し、何人も予想しえなかったドイツ再統一を果たした。この二人の業績に匹敵する功績をメルケル首相は残しただろうか。

メルケル首相が直面したユーロ危機と難民危機

 メルケル首相の14年を振り返るとき、誰もが思い浮かべるのが2009年に始まるユーロ危機と2015年の難民危機だ。そのいずれもがユーロと欧州の根幹を揺るがし、ユーロと欧州は、あわや崩壊かという存亡の淵に立たされた。欧州各国は必死の対応を試み、何とかこの二つの「未曽有の危機」をしのいでいく。その時ドイツ首相の地位にあったメルケル氏は、危機回避に決定的な役割を果たしただろうか。確かにユーロ危機では、ギリシャ等南欧諸国救済のメカニズムを整え、知恵を絞って何とか危機を乗り切った。しかし当時、メルケル首相の指導力不足を批判する声はあっても、そのリーダーシップを称賛する声はなかった。

 難民危機では、メルケル首相は、おそらくその治政の14年にあって初めてと言っていいほどの果敢さで難民受け入れを主導した。「人道を旨とする欧州は苦難の難民を見殺しにするわけにはいかない」。しかし、100万をも超える難民が押し寄せた時、各国では異民族排斥の嵐が巻き起こり、社会不安が全土を覆った。欧州は、今に至るも、その政治体制が根底から揺さぶられる事態を経験することになる。ポピュリズムの跋扈(ばっこ)だ。各国でポピュリスト政党が躍進し、中には政権に参加するところも出てくる。難民受け入れに向けたメルケル首相のリーダーシップが「失敗」だったかどうかは別として、少なくとも今日の欧州政治の混迷がこの時から始まったのは確かだ。

 つまり、メルケル首相にはアデナウアーやコールに匹敵する「功績」がない。では、メルケル首相はこれといった功績もなく、ただ単に長いだけの首相だったのか。

 それを考えるには、メルケル首相の14年間、ドイツはいったいどういう国だったのかを振り返る必要がある。

 メルケル首相就任の2005年の時点で、ドイツはなお「欧州の病人(Sick man of Europe)」と揶揄されていた。あの、世界に冠たる経済大国の西独が、1990年再統一を機に極度の不振に陥り長く苦しんだ。他でもない、統一の負担がドイツに一気にのしかかったのだ。毎年、旧東独再建のため巨額の財政支出を行った。さしものドイツも悲鳴を上げざるを得ない。それが2005年まで続いた。そういうドイツに、ようやく明かりが見えだしてきたのが2006年頃からだ。要因は二つあった。

「筋肉質」の経済とユーロが強力な武器

 一つは、前任のシュレーダー首相が実施した「アジェンダ2010」がようやく成果を見せ始めると共に、ドイツ経済のスリム化が進行、経済が「筋肉質」に生まれ変わったことだ。「アジェンダ2010」とは、簡単にいえば、労働市場に競争原理を導入する構造改革だ。その成果が、メルケル氏が首相に就任したころになってようやく現れ出した。

 もう一つはユーロだ。1999年、各国は統一通貨ユーロを導入したが、これは強いドイツ・マルクも、弱いイタリア・リラも同じユーロになるということだ。当然、マルクはユーロの下で切り下げになるし、リラは逆に切り上げになる。以後、マルク安のドイツは輸出ブームを謳歌した。

 かくて、「筋肉質」とユーロという二つの強力な武器を手にしたドイツは、見る見るうちに欧州の経済大国に復活していく。それまで、再統一後の「巨体」を持て余していたドイツが、とうとう体格に見合った「体力」を持つに至ったのだ。

 2008年、リーマン・ショックに襲われる前の時点では、欧州メディアは強いドイツを目の当たりにし、これからドイツは強力なリーダーシップを発揮していくに違いないと見た。「メルケル氏は、戦後生まれの初めての首相だ。過去に縛られることなく、強い指導力を発揮していくだろう」と期待していた。

 しかし、そういうメディアの期待は見事に裏切られる。リーマン・ショックの激震を受けユーロが大きく揺らいだ時、メルケル首相が果敢な指導力を発揮することはなかった。

 メルケル首相はひたすら低姿勢に徹し、自ら進んで指導力を発揮するというより、コンセンサスが出来上がるまでじっと状況を見守った。その意味ではメルケル首相は過去のドイツの首相と同じだった。戦後生まれでありながら、なお、ドイツの過去に縛られているかのようだった。

メルケル首相は「待ちの政治家」

 もっとも、メルケル首相の場合、過去に縛られているというより、こういう低姿勢が自らの資質から出ている面が強い。すなわち、メルケル首相は、物理学者だからというわけでもないが、ひたすらビーカーの中の二つの異なった物質が互いにまじりあうのを待ち、やがて、物質がビーカーの底に沈殿し、新たな一つの物質として落ち着いていくのを見届けてから初めて動き出すようなところがある。「待ちの政治家」である。自らは、決して率先して動こうとしない。事態が落ち着くのを待ち、やがて皆のコンセンサスらしきものがまとまるのを見届けてから初めて決断する。唯一の例外が2015年の難民危機だったが、その結果は散々たるものだった。

 この、自ら「リーダーシップを取りに行こうとしない」というのはメルケル首相の資質から出たもので、必ずしも、ドイツの過去を沈思黙考し自らの行動基準を決めたというわけではない。しかし結果的には、それがドイツに求められる行動準則にぴたりと当てはまった。

 ドイツは一体いつまで「過去を反省」し、一歩下がった態度を取ることを求められるのだろう。もう戦後75年近くが経とうとしている。それはそうだ。しかし、人々がドイツを見る目が常に過去と二重写しになることは今もって否定しがたい。そうであるなら、ドイツとして、控えめに振る舞った方が何かと好都合であるにちがいない。残念だが、まだ当面、そうしていた方がよさそうだ。何と言っても、欧州大陸の中央に位置し、人口、国力共に他を圧倒する存在だ。そうでなくとも目立って仕方がない。

 この点、目立つかどうかは別として、我々日本人は、ドイツの立場を我が身に置き換え考えてみることが必要だろう。中国台頭との要素を抱えるアジアの中でどういう姿勢をとるのが日本にとり最もいいことなのか。

 そういうドイツを、メルケル首相は14年にわたり率いてきた。この14年は、冷戦終結という国際政治の新たな局面において、ドイツが再び勃興する時期にあたった。ムクムクと経済力が巨大化していくドイツを見て、欧州各国は複雑な思いだったに違いない。冷戦期は、東西対立の下、世界の全ての国は米ソいずれかの陣営に属し、ただひたすら対決の時代を生き抜いてきた。冷戦終結とともに、そういう時代が終わり冷戦のタガが外れた。東西対決という固定した観点からモノを見る必要がなくなり、各国は米ソという超大国の枠を離れ比較的自由な立場で動き回るようになる。そういう時にドイツが再統一され、しばらくの間、経済が低迷したもののやがてあの巨大ドイツが蘇ってくる。欧州諸国が複雑な思いでドイツを見ても不思議でない。

 こういう時にあたり、もし、メルケル首相が「強くなったドイツに見合った地位」を求めたとしたら、欧州諸国はどういう反応を示しただろう。少なくともなにがしかの警戒感が生まれたに違いない。

 しかし、メルケル首相は違った。人の先頭に立って範を垂れるということを嫌い、ひたすらコンセンサスが醸成されるのを待った。合意が成った頃合いを見計らい始めて重い腰を上げた。そういう姿勢を今に至るまで崩すことがなかった。

 なるほど、それは、見る者にもどかしさを与えずにはいられなかった。ポーランドのラドスラウ・シコルスキ元外相が2011年、「問題はドイツが強いことではない、ドイツが弱くリーダーシップを発揮しないことだ」と言ったのはそういうことだった(拙稿「欧州委員長に求められる2つのリーダーシップ」参照)。

 しかし、メルケル首相がその政治姿勢を変えることはなかった。ひたすら船頭に立つことを避け、事態の沈静化を待ってから断を下した。

 戦後74年が経過した。ドイツは「EUに埋め込まれ」、ドイツの「独り歩き」を懸念する向きはない。それは

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