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小沢一郎が明かす田中派クーデターの舞台裏

(15)竹下登はクーデターの途中で震えだした

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

クーデター急先鋒だった小沢一郎と梶山静六

 私の脳裏には、熱い季節、熱い時代というイメージとともにその大音量が思い出される。

 バブル経済時代の始まった1980年代後半、私はその淵源となった日本銀行の金融政策の取材から解放され、取材拠点を東京・日本橋から内幸町の日本プレスセンター・ビルに移した。

 内幸町から霞が関、永田町周辺を歩いていた1987年、非常に風変わりな街宣を大音量で流している右翼の街宣車とよく出くわした。その街宣は、当時自民党幹事長だった竹下登を口を極めて褒め称えているのだが、その褒め方が皮肉に充ち満ちていた。

 「日本一金儲けがうまい竹下さんを総理にしましょう」

 その後流行語のように人口に膾炙した「褒め殺し」の街宣だった。

 次期自民党総裁、首相を目指す竹下について「日本一金儲けがうまい」と右翼が東京のビジネスセンターや官庁街で毎日のように街宣するということは、政治家としての竹下のイメージに計り知れないほどのダメージを与えた。

 この右翼の名称から「皇民党事件」と名付けられたこの騒動はその後、暴力団関係者の協力で収拾された。「褒め殺し」が終息して竹下は首相にはなったが、首相を辞めた後一連の経緯が明らかになり強い批判を浴びた。

 竹下内閣成立に暴力団の姿がちらつき、同内閣時の自民党副総裁だった金丸信が巨額脱税事件で起訴されたため、ロッキード事件で地に落ちていた田中角栄の派閥人脈は「金権人脈」という強い色眼鏡で見られることになった。政治資金には極力気を遣っていた小沢一郎にも根拠のない先入観がついて回った。

 完全に「冤罪」に終わった「陸山会事件」の背景にはこの先入観があると指摘されている。

 ロッキード事件で失脚した田中角栄は自民党内の最大派閥を力の源泉にして、党総裁、首相を実質的に決める「キングメーカー」の役割を果たしていく。田中は他派閥の会長を首相に選び、自派閥からは自らの後継者を立てなかった。

 後継者を選べば権力はその後継者に移動し、キングメーカーとしての役割を失ってしまう。また、それよりも、ロッキード事件裁判への影響力喪失という事態を田中は恐れていたのかもしれない。

 田中辞任後、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、そして中曽根康弘と他派閥の会長が首相に就任し続けた。これが田中派内の鬱屈とストレスを高め、静かな派閥クーデターへとつながっていった。

 「静かなクーデター」は次期首相を目指す竹下登を旗頭に進行した。しかし、旗頭とは言っても竹下はむしろ融和に傾き、旗を高く掲げ続けていたのは、「青年将校」的存在だった小沢一郎と梶山静六だった。

 ロッキード事件一審有罪判決を受けて、田中角栄は弁護団を総入れ替えした。学生運動を経験した若手弁護士たちを採用。私はその中心だった石田省三郎に話を聞いた。石田は二審の弁護方針を相談するために、1985年2月24日午前8時ごろ東京・目白の田中邸を訪ねたが、田中はその朝、ウイスキーをあおって酔いつぶれていた。2週間あまり前の同7日、竹下を頭とする田中派40人が「創政会」という派中派を結成。それ以来、田中は朝から酒を飲み、荒れていたという。田中が脳梗塞で倒れ、東京逓信病院に緊急入院するのはその3日後だった。

田中派総会を終えた田中派幹部。左上は小沢一郎氏、その前は梶山静六氏=1985年2月6日、東京・平河町の砂防会館
――ロッキード事件一審判決後、1985年2月になって田中派の中に創政会が結成されます。田中さん個人は、この結成を見て心身ともに疲労していくわけですが、以前の小沢さんのインタビューを見てみると(五百旗頭真ら『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』朝日新聞社)、小沢さんは田中さんと決別してやっていくという考えはなかったというように発言していますね。

小沢 全然なかった。そんな気は誰にもなかったと思う。

――しかし、田中さんの後継者として竹下さんを立てましたね。

小沢 竹下さんを代表にしようと言ったわけでも何でもないんだ。ただ、派閥というものは総裁候補を持たないと維持できないから、まあ次は誰かということを考えておこうと。そのための勉強会を作ろうという話だったんですね。だけど、田中の親父にしてみれば、そうはいかんということになったんだろう。それから、プロパーじゃない人たちが親父の周りを囲んで煽ってしまったからね。それで、そういう人たちが反逆だ、裏切りだとか言って、親父は余計カッカとなってしまったんだ。

――プロパーじゃない人たちというのは、どういう人たちですか。

小沢 昔からいた人たちではない、ロッキード事件後に入ってきた人たちだね。

――創政会の旗揚げを最初に提案されたのは小沢さんですか。

小沢 私一人ではない。あの時は、私と梶山さんだね。

竹下登はクーデターの途中で震えだした

 1926年生まれの梶山静六は茨城県出身。2000年に没したが、小沢や、首相となった小渕恵三、橋本龍太郎、羽田孜らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれた。竹下派会長の金丸信から「乱世の小沢、大乱世の梶山」と評されたが、小沢とはその後「一六戦争」と言われた激しい政争を繰り広げることになった。

――やはり、例えば食事などをしている時に、「やっぱりこのままじゃまずいだろう」というような話になったわけですか。

小沢 いや、これは何となくみんな思っていたことなんだが、「誰も後継者がいないと派閥が困るな」とか「竹下さんも頼りないけど、まあ竹下さんしかいないだろうな」という感じでしたね。

――梶山さんとの会合は覚えていますか。

小沢 いや、覚えていないな。特別梶山さんと図ってというわけではないんだ。言わなくてもみんな気持ちの中ではそういうことだった。だけど、同時に親父と決別するという気持ちは誰も持っていなかったと思う。今の若い人たちとはそこが違うかもしれない。親父に対するロイヤルティ(忠誠心)がものすごく強かったから、親父と別れるという気は全然なかった。

――それで、頼りないかもしれないけど、一応竹下さんを立てておこうということですか。積極的に竹下さんを選んだのではなくて、消去法のような形ですか。

小沢 そうそう。それしかないなという感じだった。金丸さんというわけにはいかない。竹下さんだろうな、ということだった。

――ズバリ言って、なぜ金丸さんではまずかったのですか。

小沢 金丸さんは、行政府の長というタイプではない。

――人間のタイプから判断されたのですか。

小沢 そう、人間の適格性だね。金丸さんは派閥の長としてはいいけど、国政における行政府の長としては向いていなかった。

政府・与党首脳会議の前に話し合う、自民党(自由民主党)の(左から)二階堂進副総裁、金丸信幹事長、竹下登蔵相=1985年5月8日 首相官邸

――なるほど。では、竹下さんはどうして頼りないと思われていたんですか。

小沢 一言で言えば、気が小さい。

――いろいろな政治的な場面でなかなか決断しないとか、そういうようなことですか。

小沢 そう。それから竹下さんは自分から意思表示するタイプではなかった。だから、人の話を聞いて、「まあまあこの辺で」という感じのタイプだった。だから、創政会の時だって、実は一番最初に竹下さんが震えちゃった。田中の親父が怒って、竹下さんがプルプル震えちゃって、降参しようと言い出してしまったんだ。

――降参しようと。

小沢 うん。それでみんな怒っちゃった。

――小沢さんは、竹下さんが震えているところをご覧になったのですか。

小沢 もちろん。もうやめようという話をし出したから。竹下さんは、それから皇民党事件の時も震えてしまったんだ。

――皇民党事件は創政会旗揚げから2年後の1987年ですからまた後ほどおうかがいしますが、創政会旗揚げの時、竹下さんと田中さんが1対1で会う場面はあったのですか。

小沢 そんな場面はない。

――金丸さんとか小沢さんが同席されて会ったということもなかったのですか。

小沢 ないですね。だけど、金丸さんも竹下さんみたいになって、この辺で親父と話して妥協しようというような意見になったんだよ。

――そうですか。しかし、小沢さんと梶山さんが中心になって、そういうことも含めて何度も話し合ったわけですね。

小沢 会合を何度も重ねたんだ、内緒の会合を。

――創政会の旗揚げが1985年2月7日ですから、前年の84年あたりからずっと話し合っていたわけですか。

小沢 前年からだったと思う、たぶん。メンバーを確認しなければいけないからね。もちろん親父が機嫌いいわけがないということはわかりきっているから、我々は早坂(茂三)さんを通じて「勉強会をしようと思う」と言ったんだよ。それで、何となくいいだろうみたいな感じだったから、それほどのことはなかったんだ。早坂さんの話では親父に会うかというようなこともあったんだけど、こちらは大した意識もなかったからね。それで、相手がいいと言うんだからいいだろうというような感じでいたら、あにはからんや逆鱗に触れたということになってしまったんだね。

――逆鱗に触れたというのは、やはり竹下さんが立って、人数もかなり多くなっているからということでしょうか。

小沢 ちがう。最初からなんだ。要するに、権力者は絶対に後継者を作らないんだよ。だから、その意味でこれは絶対に認めないということになってしまったんだ。単なる勉強会、仲良しクラブであればよかったんだろうけど、周りが騒ぎ立てて本人がカッカとなっちゃったんだ。

――周りというのは、さきほどのお話のプロパーではない人たちという意味ですか。

小沢 そう。

――それで、最終的な段階で、金丸さんも竹下さんも、降参しようかということになったわけですか。

小沢 そういう感じになったんだよ。何人か集まった時に、「ちょっとそろそろ親父に会いに行って話してみようか」という話をし出したんだ。だけど、それは最初のころだったらいいけど、ちゃんと始まってしまってお互いににらみ合っているような時だからね。それは降参しに行くようなものだろうという話をしたんです。力の弱い方がネゴをしに行くという馬鹿な話はない。強い方が「まあこれくらいでいいだろう」と言うんならいいけど、弱い方が行くということは降参を意味するわけです。

――その時は、金丸さんと竹下さんが「そろそろちょっと」と。

小沢 話に行こうかと言い出したんです。

――それに対して、小沢さんは「ここに来てそれはまずいよ」ということだったわけですね。

小沢 「だめだ。そんな馬鹿なことはない」と言った。

――梶山さんも小沢さんと同じような意見だったのですか。

小沢 梶山さんももちろん同じさ。

――お二人がね。それはそうでしょう。なるほど。

小沢 「それだったら、今行くならもう喧嘩状持って、棺桶担いで行く以外にない」とぼくは言った。

――そこまで言ったんですか。

小沢 そう。それが喧嘩だって。

――小沢さんの言葉ですか。

小沢 そうだよ。果たし状を持って行くというなら、使者は斬られる覚悟なんだから自分の棺桶を担いで行けということです。それが喧嘩ではないですか。そうでない限りは降伏のための使者ではないか、ということですね。

――そうですか。その時、竹下さんもやっぱり弱気だったですか。

小沢 竹下さんは金丸さんより弱気さ。

――しかし、最終的には創政会をやるしかないということで始めたわけですね。それから、田中さんの方は飲み過ぎが祟って緊急入院ということになるわけですね。

小沢 創政会を結成してから、まあこのままというわけにもいかないだろうという話になって、ぼくと梶山さんと羽田孜と3人で目白に行ったんだ。親父さんは気丈に振る舞っていたけど、やっぱり顔色が悪かったな。まあ、それではお互い仲良く同心円で頑張ろうなんて話で終わったんだけども、やっぱり最初周りが煽るものだからカーっとなっちゃったんだね。

――もし扇動する人たちがいなかったら、そういうことにはなっていなかったですか。

小沢 最初から派閥にいた内輪の連中だけだったら、何のことはなく終わったね。

――ところで、さきほど少しお話の出た皇民党事件の「褒め殺し」の一件を聞きたいのですが。

小沢だけが田中邸に入ることができた

 皇民党事件そのものは前文でも触れたように1987年に、「褒め殺し」街宣と暴力団関係者による仲介解決があったが、その経緯が明らかになったのは1992年の東京佐川急便事件の公判中だった。金丸信が東京佐川急便社長の渡辺広康に解決のための仲介を依頼、渡辺は広域暴力団・稲川会の会長、石井進にさらに仲介を依頼。この仲介により皇民党は、「竹下自ら田中邸に直接謝罪に行くこと」を条件に「褒め殺し」をやめることを承諾した。皇民党がなぜ竹下にいやがらせを続けたのかその真相はいまだにわかっていない。

――私も1987年のころ、霞が関や永田町を歩き回っていたのでよく見聞きしましたが、皇民党による竹下さん褒め殺しの街宣はすごかったですね。それで、竹下さん自身がすごく弱気になっていたというお話でしたが、この皇民党の竹下さんいやがらせの動機というのはよくわかっていないんですよね。

小沢 そう。動機がわからないんだ。竹下さんの生い立ちには複雑なところがあるんです。

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