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ブレグジットに揺れるイギリス医療

「合意なき離脱」後、EU加盟国出身の医療従事者はどうなるのか? 

石垣千秋 山梨県立大学准教授

 「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉国家イギリスは、どこへ向かっていくのでしょうか。ブレグジットが迫っています。リーマン・ショックからブレグジットが迫る現在までのNHSを取り巻く環境変化について考察すると、政治学者、石垣千秋さんは「厳しい試練の中にある」と見ています。EUから離脱した場合、EU加盟国出身の医療従事者たちはどうするのでしょうか? (「論座」編集部)

2016年4月26日、ロンドンのセントトーマス病院で行われた48時間のストライキ=AP

揺らぎ始めた二大政党制

 2008年10月の「リーマン・ショック」は、イギリスにも大きな影響を与えた。

 1992年から2007年までの16年間にわたってイギリスの景気は比較的安定していたが、実は2001年から政府の財政赤字が発生しており、2008年に経済が大きく低迷した後、深刻な問題となっていった。ブレア政権の後継となったゴルドン・ブラウン政権(ブレア政権下では大蔵大臣を務めた)は経済立て直しを試みるが、成果は思わしくなく、政権支持率は低迷した。2008年と言えば、NHSの実施から60年目、いわば「還暦」だったが、NHSは世界的な経済の混乱の最中この年を迎えたことになる。

 2010年、イギリスで総選挙が実施された。この総選挙では財政再建が大きな争点となったが、選挙結果は戦後イギリス政治の大きな変化を顕在化させるものだった。労働党が大きく議席数を減らし、対する保守党が勝利した。しかし、その保守党も過半数の議席を得ることができず、「宙ぶらりん議会(hung parliament)」となった。他方、地域の独立やイギリスのEUからの離脱を主張する党が存在感を増した。

 日本では、イギリスやアメリカは「二大政党制の国」という理解が広まっており、二大政党による政権交代が起き、かつ議院内閣制の国であるイギリス政治はモデルとされてきた。しかし、その国で二大政党制が揺らぎ始めた。

マースデン病院で患者に語りかけるウィリアム王子=AP

緊縮財政をとった連立政権

 保守党は、連立を模索し、連立パートナーとして第三党となったダニエル・クレッグ党首が率いる「自由民主党」を選んだ。自由民主党は、一時期ベヴァリッジも所属した自由党に、1980年に労働党から分離した民主党が加わった党である。首相には保守党のデイビット・キャメロン党首が就任し、戦後初の連立政権が成立した。連立政権で最優先課題は財政再建とされ、保守党の公約通り2010年から赤字の削減のために歳出削減に取り組むことになったが、NHSとODA関係予算は例外とされた。

イギリスのGDP成長率(出典:www.ons.gov.uk/economy/grossdomesticproductgdp/timeseries/ihyp/pn2 アクセス日 2019年9月23日)

 NHSについて保守党は、患者の医療機関選択機会の増大、NHS予算増加をさらに進めるとする一方、労働党政権下で保健省に集中しすぎた権限の分権化、目標設定による予算管理の廃止を行い、「多層化した官僚制」を解体して特にGPの権限を強化することをマニフェストに盛り込んでいた。この内容にもとづき、NHS改革案が示され、NHSの運営を保健省から完全に切り離して別組織に委嘱し、地域では従来運営を行ってきた機関を廃止し、GPを中心とした組織に運営を委譲するほか、多くの監視機関の廃止を含む法案が2011年1月に議会に提出された。

 しかし、法案に対して看護協会やGPの団体ほか、NHSの労働組合、医療経済学者などから、特に地域のNHS組織の再編をめぐって反発が起きた。医療機関の競争激化を誘発する恐れがあり、急進的すぎるという意見や、NHSの分権化を進めた結果、責任の所在が曖昧になるのではないかという意見が反発の理由だった。こうした団体、国民の反対のため、法案審議をいったん中断し、各地で公聴会を開催するという異例の経過をたどった。だが、キャメロン政権は小さな修正にとどめて法案を成立させた。

2016年4月26日、ストでデモ行進をする医師ら=AP

 現在は、新しい法律に基づき、NHSに関する業務は「NHSイングランド」が委譲されて行っているため、組織的には民営化と同様の状態にはあるが、医療提供体制は変わっても、やはり租税を主たる財源にし、無償で医療を提供するという、制度の誕生以来の原則には変わりはない。

 その後、2015年の総選挙で保守党は何とか議席の過半数を獲得し、自由民主党との連立は解消された。そして、総選挙の際のマニフェスト基づいて、欧州(EU)離脱をめぐる国民投票を実施した結果、現在のイギリスはブレグジットをめぐる混乱の中にある。

 NHSの予算は削減しないとした連立政権ではあったが、政権交代以降2018年度までの歳出はインフレの影響もあり、実質平均1%の伸びにとどまっている。NHSの支出額の伸びを単純にみると2009年度以降も順調であるかのように見える。長期的にみるとNHSの歳出は平均3.7%ずつ伸長していたのが、連立政権期にはマイナス、その後も相対的には減る傾向にある。近年国民からも医療を提供する医師からも不満と不安の声が出ている。

NHS支出(億ポンド)と伸び率前年比(%) (出典:House of Commons(2017)Library Briefing, 7 June 2017 (Tabe1 Government Expenditure on Health Service 1950/51-2016/17 UK アクセス日 2019年9月23日 ※図は筆者作成)

高まる国民の不満

 世論調査では、国民のNHSへの満足度が下がり、不満足とする国民の割合が増加傾向にある。社会政策学者のJ.アプルビイ氏よると、新しい政権の発足後は、新政権に対する期待感から満足度が一時的に上がることが経験的に知られているという。連立政権発足後には満足度が70%だったが、翌年に58%へと調査開始以来最大の落ち込みをし、さらにその後も回復していない。労働党政権発足後に「満足」という回答が1999年に上昇し、2001年に若干下がって最低になった後、上昇し続けたのとは対照的である。かつ、保守党単独政権になってからさらに「満足」とする国民の割合は低下し、「不満足」とする国民の割合が増加している。NHSの専門研究で知られるキングス財団の研究者やメディアはこの点を問題視している。

NHSに対する満足度 (出典:The King's Fund and Nuffield Trust analysis of NatCen Social Research's British Social Attitudes Survey ※図は筆者作成)

 国民のNHSに対する満足度の減少の大きな要因と考えられるのは、待機者リストの増大である。労働党政権下で減少していた待機者リストだが、2012年から増加し始め、2018年には400万人が病院の受診を待っている状況にある。NHSで慣習として行われている内容も含め、制度と理解されている患者の権利や提供者の義務を明文化した『NHS憲法』(ブラウン政権下で2010年に制定)などに照らし、GPの紹介から18週間以内に92%の患者が病院で最初の診療を受けることがNHSの基準とされており、2016年2月まではこの目標を達成していたが、現在はそれに到達していない。ただし、イングランド・ウェールズ内でも相当の地域差があることも確かだ(『NHS憲法』https://assets.publishing.service.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/480482/NHS_Constitution_WEB.pdf アクセス日 2019年9月23日)。

病院の診療を待つ待機者リスト (出典:House of Commons Library (2019) NHS Key Statistics: England, May, 2019, p.12)

 複数の研究者が問題視しているのは、緊急性の低い診療で400万人の待機者がいるのみならず、救急でも搬送されて数時間も診療を待つことが多くなっていることだ。そもそものNHSの基準は搬送後4時間以内に95%の患者が診療を受けることになっているが、この目標も2015年2月以来達成されていない。一連の混乱は、緊縮財政によるもののみならず、2012年の構造改革によって、NHS組織から優秀な人材が去ったためという指摘もある。

 また、がんを疑われる患者は、GPから緊急の紹介状によって専門医を受診し、85%の患者が紹介から62日以内に一定の治療を受けることが基準とされるが、2013年度以降この基準には到達していない。この事実と因果関係は明確ではないが、医学専門誌『ランセット』でイギリスのがん患者の生存率が他のヨーロッパ諸国より低いというデータが示され、政府も問題視している。

 NHSのみならず、保守党政権が緊縮財政を厳しく実施するのは、将来の高齢社会を見すえてだという。2018年のイギリス(スコットランドを含む)の高齢化率は19%に満たず、今後2026年に20.2%、2036年に23.9%、2046年に24.7%と予測されている。それでも、高齢化の速度は日本が経験したものよりずっと緩やかだ。日本では「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家の後を追い、時にはその国家の低迷を「イギリス病」とまで呼んできた。しかし、モデルとしてきた福祉国家を高齢化の側面ではすでに大きく追いこしている。また、政治のモデルとしてのイギリスも姿を変えつつある。

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