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香港政府の覆面禁止 「顔認証」への重い問いかけ

日本にも迫る「ビッグブラザー」の影

塩原俊彦 高知大学准教授

なし崩しに進められる監視強化

 香港政府に抗議するデモ・集会参加者の多くが、黒や白などのマスクをつけて「顔認証システム」をかいくぐろうとしている。この現状を阻止するために、行政長官が緊急時に公共の利益のために必要な規制を制定できる「緊急状況規則条例(緊急条例)」を適用し、デモ参加者がマスクなどで顔を覆うことを禁止する「覆面禁止法」を10月5日から導入した。

覆面禁止法に反対するデモ隊。多くの参加者が顔を隠すマスクなどをして声を上げた=2019年10月4日、香港

 だが、この措置がとられる以前から、すでに香港では監視カメラのレンズをペイントしたり、カメラを覆ったりする行動が広がっている。さらに監視カメラを高く設置するためのポスト自体を倒す過激な動きまである(https://www.youtube.com/watch?v=u1Ji7wonUhE)。

 中国本土では、主要都市で通りや広場、交差点、駅などの人の集まる場所とその周辺を死角なしで360 度を監視できるようにする計画が進行中だ。これは老子の「天網恢恢疎にして漏らさず」(天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずにこれを捕らえる)で有名な「天網工程」(Skynet)という監視システムで、着実に広がりつつある。農村部では、「雪亮工程」(Sharp Eyes)という監視システムが部分的に広がっている。そうであるならば、香港でも監視カメラおよびそれに顔認証システムを組み合わせた高度な監視体制が構築されていても不思議ではない。

 憂鬱なのは、東京五輪の開催を目前に控えて、日本でも着々と監視体制が整備されつつあることだ。もはやリアルタイムでの顔認証や歩行などの動体認証のシステムを監視カメラと連動させて24時間、監視可能であるにもかかわらず、こうした最先端技術を国家権力側がどのように導入しようとしているかに対する国民的議論が少なすぎる。このままでは、「安全保障」を名目にしてなし崩し的にジョージ・オーウェルの小説『1984 年』に登場する「ビッグブラザー」(Big Brother)の出現にまで至りかねない。

五輪の安全保障が名目に

 ここで2014年にソチ冬季五輪、2018年FIFAワールドカップを開催したロシアの事例を思い出してほしい。国際オリンピック委員会(IOC)は2007年7月に2014年の冬季五輪の開催地を公式にロシアのソチに決めたのだが、その後、ロシア政府は着々と準備を進めた。具体的には中国で2008年に開催された北京五輪での情報監視システムを参考にして、ロシア政府がソチ五輪開催に向けて用意周到に準備を進めたのである。

 ソチ五輪の前年の2013年には、ソ連時代の国家保安委員会(KGB)の後継機関、連邦保安局(FSB)が「オメガ」というプログラムをインターネット・サービス・プロバイダー(ISP)にダウンロードするように命令が出され、従わなかったインターネット・サービス・プロバイダー(ISP)を罰していたことがわかっている。

 これは、「作戦・捜査措置保障のための技術的手段システム」(SORM)という諜報システムの一部だ。米国務省は2013年8月、ロシアを旅行するときには電話や電子通信が監視の対象になるかもしれないから注意するよう警告を発した。2013年11月8日には、当時のメドヴェージェフ首相は五輪の組織運営者、全参加選手、審判、ソチにやってくる数千人のジャーナリストを含む、SORMの監視対象者のリストアップを命じる命令に署名した。このように、ソチ五輪の安全保障を名目にSORMなる諜報・監視システムが構築されたのだ。

 興味深いのは、監視ビデオカメラに顔認証機能を搭載して、不審者を割り出す試みがワールドカップ前から行われるようになったことである。ロシアの場合、2017年と2018年に顔認証はテストモードであったことが知られている。2018年からモスクワの地下鉄で顔認証システムがテストされるようになったとの情報もある。おそらく東京五輪では、顔認証を使った不審者の割り出しが頻繁に行われる可能性が高い。

問われる犯罪捜査活用の是非

 顔認証は犯罪捜査などに活用されるだけでなく、投票などの公的利用もできる。他方で、銀行などによる資金決済やさまざまのサービス提供でも利用可能だ。米国で問題化しているのは犯罪捜査への顔認証システム活用の是非である。

 2019年5月14日、サンフランシスコ市の行政執務官理事会は公的機関がビデオクリップないし写真に基づいて何者かを見つけ出すAIソフトウェアの利用禁止を決定した。顔認証システムを警察などの公的機関が利用して捜査を行うことができなくなったことになる。ついでマサチューセッツ州のサマービル市は同年6月、市の行政機関が公的空間での顔認証ソフトウェアを利用することを禁止した。7月16日には、カリフォルニア州オークランド市も顔認証技術の利用を禁止した。いずれも顔認証の利用による個人認証の誤りが権力の誤った執行や間違った投獄、さらにマイノリティへの迫害につながりかねないリスクを考慮した措置だ。

 一方、シカゴやデトロイトの当局がリアルタイムで利用できる顔認証システムをサウスカロライナにあるDataWorks Plus から購入したとの報道がある(両市では、顔認証チェックが可能なソフトウェアに接続可能なカメラによる監視はすでに行われていた)。他方で、政府によるこのリアルタイムの顔認証技術の利用については、英国の高等法院が2019年9月に警察によるリアルタイムでの顔認証技術の利用をプライバシーや人権を毀損するものではなく受けいれられると認定したことが注目される。英国の場合、南ウェールズ警察とロンドンのメトロポリタン警察がこれを利用している。

 ここで強調したいのは、少なくとも顔認証システムの公的機関による利用が民主主義を守ったり、人権やプライバシーを保護したりする問題として大勢の人々の議論の対象となっている国や地域が存在する事実である。これに対して日本では、監視カメラや顔認証技術の利用がなし崩し的に進むばかりで、こうした動きに歯止めをかけて公権力を明確に規制する動きが広がっているようには思えない。

ドラレコ映像から誤認逮捕も

県議会委員会で誤認逮捕について謝罪する愛媛県警幹部ら=2019年10月3日、松山市

 実際には、事態はきわめて深刻だ。2019年7月22日、愛媛県警松山東署による誤認逮捕事案が公表された。松山市内の路上でタクシー内にあった運転手の現金入りセカンドバッグを何者かが奪ったとされる事件で、愛媛大学の女子大学生が窃盗容疑で逮捕されたのだ。この誤認逮捕の理由は、「映像を見た捜査員の思い込みが原因だった」とされている。タクシー内に取り付けられていたドライブレコーダーの映像が犯行の決定的証拠とされたのだが、犯人とされた人物と逮捕者がまったくの別人であったのである。

 この誤認逮捕はドライブレコーダーの映像を安易に利用することのリスクを示している。この捜査で警察が顔認証ソフトを利用したかどうかはわかっていない。ただ、誤認逮捕された女子大生の手記によると、「指紋採取やポリグラフ検査、3D画像の撮影など、全ての任意捜査に素直に応じてきました」という。にもかかわらず、「3D画像はきちんと解析したのか、ポリグラフ検査の結果はどうだったのかという私からの質問に対しては、はっきりした回答を得ることができませんでした」と、彼女は明確に指摘している。

 3D画像の撮影というのは、「3D顔認証」という最新技術にかかわっている。これまで多くの顔認証では人の顔を平面でとらえる2D顔認証が主流だったのだが、3D顔認証は顔の凹凸までもデータ化し、化粧やヒゲがある場合でも認証を可能にする。すでに、iPhoneXなどで3D顔認証が採用されている。つまり、県警はこの最新顔認証システムを利用しながらも、犯人を間違え、まったくの別人を容疑者として逮捕するに至ったことになる。

 いま日本では、煽り運転への対抗措置としてドライブレコーダーの自動車への搭載が急速に広がっている。これは運転手が自らの正当性を明確にするとともに、煽り運転を受けた証拠とする目的でやむをえない手段となっている。それ自体を批判するつもりはない。問題はたぶん、この先にある。将来、ドライブレコーダーのリアルタイムの情報を集めて監視するシステムが可能となれば、リアルタイムでの衆人環視システムが構築できるようになる。

「防犯カメラ」という名の監視カメラ

 日本には、「防犯カメラ」という名前の監視カメラが至るところに広がりつつある。このカメラは監視行為をしているにもかかわらず、「防犯」という不正確な文言によってその本質が覆い隠されている。防犯カメラはいわゆる閉鎖回路テレビ(CCTV)であり、監視がその役割の本質なのだ。

 このCCTVへの規制をめぐっては、日本では2003年7月に国会に提出された「行政機関等による監視カメラの設置等の適正化に関する法案」が審議未了で廃案となって以降、監視カメラをめぐる問題は一部の自治体で条例がつくられたほかはほとんど議論されていない。つまり、公的権力によるCCTV利用が場当たり的に推進されており、東京五輪がこのための最大の推進力となっているのである。

中国では顔認証技術を使って手ぶらで買い物ができるシステムも実用化されている=2018年2月1日、中国・上海市

 中国はいま、世界中に監視システムを世界中に輸出している。2011年2月にエクアドル政府は中国からの同システム導入を決めたし、2017年11月、ジンバブエ政府も同じくAIや顔認証の輸入に踏み切った。中国のファーウェイ(Huawei)やZTEは中央政府ばかりでなく、「セーフシティ」とか「スマートシティ」という呼び名で地方政府にも監視システムの売り込みをはかっている(詳しくは拙著『サイバー空間における覇権争奪:個人・国家・産業・法的規制のゆくえ』、社会評論社、2019年を参照)。中国の習近平総書記は監視システムの輸出を通じて非民主的国家を「仲間」に組み込もうと必死になっているのだ。

 他方で、米国では家の呼び鈴のところにあるビデオカメラを警察と連携して監視体制を強化する動きが広がっている。それに目をつけた米アマゾンのジェフ・ベゾスCEOは2018年にこの体制づくりをビジネスとするリング(Ring)社を買収した。IoTを使ってインターネットを通じたリアルタイムの監視体制づくりが着実に広がりをみせている。

 東京五輪を契機に、日本の監視体制はどうなってしまうのか。早急に議論をしなければ、日本にも「ビッグブラザー」が出現することになるだろう。