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改革保守とポピュリズムが出会った「小泉劇場」

平成政治を問い直す【4】構造改革と保守政治の再編成

大井赤亥 広島工業大学非常勤講師(政治学)

「守旧保守」と「改革保守」

 1990年代以降、日本政治の対立軸は、「保守vs革新」から、「革新」の一方的消滅をへて、広義の保守政治の内部分岐、すなわちコンセンサス型意思決定によって利益配分を担う「守旧保守」と、強いリーダーシップによって行政機構の縮小再編成を行う「改革保守」との対立へと変化していく。

 そして、2000年代の「改革保守」を代表するのは構造改革であり、小泉政権は「改革の政治」の第三にして最大の山場であった。

地方分権21世紀ビジョン懇談会の初会合後、会見する竹中平蔵総務省(当時)と大田弘子座長(同)=2006年1月12日

広義と狭義の構造改革

 小泉政権が唱えた「構造改革」には、広義と狭義の二つの定義があろう。

 広義の構造改革とは、内閣府によれば、「市場を通じて生産性の低い産業分野の清算と淘汰を進め、資本や技術、そして労働力を生産性の高い成長分野へ移行していくこと」と定義される。換言すれば、それは産業の新陳代謝による「創造的破壊」を政府主導ではなく民間企業のダイナミズムに委ねるための「改革」であったといえる。

 高度成長期の日本では産業の成長分野が比較的わかりやすく、政府が家電や車などの製造業に資源や労働力を集中的に投資してきた。しかし、1980年代になると、これらの耐久消費財は飽和状態となり、どこに成長産業があるか政府も判断できない状況が生じる。したがって、成長産業の発見と開拓を市場に委ねていこうとする意見が強まっていく。

 竹中平蔵とともに構造改革を担った大田弘子によれば、政府の役割とは停滞産業の市場からの円滑な淘汰を促すことであり、それによって新興産業の余地を作りだすことであった。事実、経済財政担当大臣時代に大田が取りくんだ課題は、生産性の低い第三次産業の「転業・廃業の支援」、すなわち「今の仕事を畳んでくれ」という政策であった。

 総じて、1990年代以降の日本政治において、古い産業の淘汰をソフトに行うかハードに行うか、換言すれば、脆弱産業の市場退出を政府関与の下で漸進的に行うか、市場に委ねて無慈悲に行うかという選択は、「守旧保守」と「改革保守」とを分かつ主要な論点の一つであった。

 他方、狭義の構造改革とは、田中派の構築した利益配分政治の解体であった。1970年代、田中角栄は中央から地方への税収移行の仕組みを作るとともに、中小事業者の要望を政治に反映させ、その見返りとして自民党への支持を獲得するという政治システムを構築した。

 そして、多くの政治学者が指摘するように、「角福戦争」のさなかに政界入りした小泉にとって、その原点は「反経世会」であり、田中派を支えたこのような政治システムへの挑戦であった。早野透によれば、かつて小泉に構造改革の真意を問うたところ、小泉は次のように答えたという。「構造って端的にいえば、田中角栄さんがつくった政治構造のことだよ。郵政だって道路だって百年の体制がある。それを田中角栄が仕上げた。医療年金制度だって田中角栄のつくった仕組みだよ。それを変えるのだ(注1)」。

 このように、構造改革とは「田中型利益配分政治からの脱却」と「民間主導型経済への転換」という広狭二つの目的が重なる形で展開されていったといえよう。

(注1)=早野透『日本政治の決算―角栄vs.小泉』講談社現代新書、2003年、16頁。

構造改革と民営化政策

 小泉政権下での「改革」は、不良債権処理、財政再建、地方分権、規制緩和など多岐にわたったが、その柱となったのは郵政事業や道路公団の民営化であり、小泉にとってそれは財政投融資改革と表裏一体のものであった。

 第二次大戦後、日本にはおよそ2万4700の郵便局が作られ、郵便配達、貯金、保険という郵政三事業を担ってきた。竹中平蔵によれば、郵便局とは、郵便という公共性の高い仕事と金融という市場重視型の事業が同じ傘の下に入る「知れば知るほど本当に不思議な組織」であった。

郵政民営化反対のデモ行進をする特定郵便局長たち=2005年8月31日、松江市

 全国的に整備された郵便局は次第に350兆円に上る莫大な預貯金を集め、1953年以降、その預貯金を原資とした財政投融資が開始される。財政投融資では道路公団などの特殊法人を通じ、道路や鉄道、住宅などの基礎インフラの整備が進められ、高度成長の条件が整えられた。

 しかし、日本が経済大国になった1980年代以降も郵便局は「世界最大の金融機関」として預貯金を集め続け、財政投融資による過剰なインフラ整備、郵便局による金融や観光業などの民業圧迫といった弊害を見せていくようになる。

 これに対して小泉の持論は、郵政事業は預貯金を集める「水源地」であり、特殊法人はその資金が浪費される「蛇口」である、したがって両者の改革は一体でなされなければならないというものであった。

 小泉が自らのアイデンティティとする郵政民営化は、郵便貯金と競合する民間銀行や保険市場への参入を目指すアメリカからの圧力ともあいまって、構造改革のクライマックスとなっていく。

2005年衆院選

 2005年8月、参議院で郵政民営化法案が否決されると、小泉は衆議院を解散して総選挙に打ってでる。2005年衆院選は郵政民営化を唯一のアジェンダとした点で「疑似国民投票」(木下ちがや)の性格を帯びていった。

 2005年衆院選において、小泉には二つの敵があった。第一に、野党第一党の民主党である。しかし民主党にとって郵政選挙は「突然行われた実力テストで、しかも科目は郵政のみ」(菅直人)であり、民主党は「自民党の民営化案に反対だが民営化そのものには反対ではない」というわかりにくい態度に終始し、政局のなかで霞んでいく。

 郵政選挙の対立軸は、むしろ小泉と自民党内の「抵抗勢力」によって表象された。小泉自民党の対応は、郵政民営化法案に反対した37人の造反議員を非公認とし、すべての選挙区に「刺客」と呼ばれた対立候補を擁立して追い落としにかかるなど、徹底的なものであった。

 中選挙区制下では、自民党から非公認とされた議員も保守系無所属として当選圏に滑り込むことは容易であった。しかし小選挙区制下では、公認を外されると政党助成金の配分に与かれず、比例復活もできないため「刺客」の当選はそのまま造反議員の落選を意味する。「刺客」は小選挙区制だからこそ可能になった戦略であった。

 皮肉なことに、小選挙区制の威力を最大限に活用した小泉は、政治改革の際はこの制度に反対する「守旧派」であった。小泉自身、この皮肉に自覚的であり、「自分が

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