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緒方貞子さんに聞いた20年前の忘れられない言葉

援助とは困っている人の傍らに行って助けること。札束で顔を引っ叩くことではない

山口 昌子 在仏ジャーナリスト

在りし日の緒方貞子さん=2014年9月16日、東京都新宿区

 国連難民高等弁務官の緒方貞子さんが亡くなった。92歳だった。こういう人こそ、「文化勲章」に値いするのではないかと思った。1999年4月末にジュネーブのUNHCR事務所で取材した時のことを思い出したからだ。

 その時、緒方さんは怒っていた。私の取材の前に日本からやってきた経団連代表と面談していて、「お金の話ばかりだった。日本人はたくさんお金さえ出せばいいと思っている」と言い、総額2億ドルのコソボ難民支援額を決定した日本政府を歓迎しつつも、人的支援を強く訴えた。

 「日本の非政府組織(NGO)にもっと現地に来てほしい」
 「人を援助し、保護するには相当の犠牲が必要。その人の傍らに行かなければ、本当にその人を守ることはできない」

 援助は困っている人の傍らに行って助けること、札束で顔を引っ叩くことではない、という信念が透けてみえるようだった。

ジュネーブでの取材で緒方さんが語ったこと

 私の取材に、緒方さんはその前年の4月、9月とクリスマス直前の3回、コソボに行ったおりに、自分の目で見た難民の実態を詳細に語ってくれた。

 「湾岸戦争で170万、ルワンダで150万、ボスニアでも最終的に400万、旧ソ連のアフガン侵攻では500万と多数の難民が発生したが、コソボの場合は、アルバニアやマケドニアに流出した難民の証言から、難民を列車に乗せて追放するなどの『過酷な手段』が痛ましい」と、難民の置かれた状態の特異性も指摘した。

 「アフガン難民も当初は冷戦が原因だったが、今や部族や宗教の問題。米国も当初は冷戦構造から援助。ソ連の撤退後は関心なし」と、米国の態度にも不満を述べた。「今週はボスニアとクロアチアに行く。デートン合意後の難民の帰還状況を年2回現場で調査しているところ。正義などを正面に出さずに、犠牲者の側に立って仕事をする配慮が必要」とも。

 北大西洋条約機構(NATO)、つまり米軍主力によるコソボの空爆に関しても、「空爆開始前は週6回、40万人対象の人道輸送隊を組み、ユーゴ地方行政官や現地非政府機関、マザー・テレサ協会と協力して食糧や医療などの支援を実施したが、空爆開始と同時に国連の避難指令で引き揚げた」と、現場の状況にほとんど無知な米国主体の空爆に対して疑問を呈した。

 さらに、「ボスニア紛争時には、食糧などの『エア・ドロップ(空中投下)』作戦が実施された。落下傘に大型段ボール箱をつけたり、片手で受け取るほど軽い『人道弁当』を投下したりしたが、これらの作戦は地上との密接な連絡が必要だ。コソボはボスニアより地形が峻嶮(しゅんげん)なので軍人が反対したので、同作戦も当初は実施できなかった」と残念がった。

 その一方、NATOについて「先週末から何でも協力するとの申し出があった。コソボの航空写真も先週から提供してくれた。読み方が難しいので職員が教わっている」とも語った。当時、冷戦に勝利し、泣く子も黙ると言われた世界最強のNATO軍が、緒方さんの熱心な難民救助の前にはひれ伏したようで、なんとも痛快だったのを覚えている。

人を敬服させる「気品」が

アフガン避難民の一時居住地を視察し、話を聞く緒方貞子アフガニスタン支援問題政府代表=2002年1月9日、アフガニスタン・エスタリフ
 緒方さんには、おのずと人を敬服させる人間としての「気品」があった。

 ジュネーブのUNHCR本部での会見の時、空港から乗ったタクシーの運転手が「アンタ、日本人?」ときくので「そうよ」と答えると、「自分はマダム・オガタを乗せたことがある!」」と実に誇らしげに言う。テニス・コートの脇を通った時は、「自分はマダム・オガタがテニスをしているの見たことがある !」とこれまた、「どうだ!すごいだろう !!、参ったか?!」といった調子だった。

 ああ、緒方さんは、地元でも、すごく尊敬、敬愛されているんだなと、同胞として誇らしく思った。

「見事な人材」と驚愕した記者会見

国連総会で国連難民高等弁務官に選出され、記者会見する緒方貞子さん。任期は翌年1月から=1990年12月22日、東京・霞が関の外務省
 それまで「名前を聞いたことがある」程度の認識だった緒方さんに初めて会ったのは1992年3月、パリ市内での記者会見でだ。91年1月に国連難民高等弁務官になって1年あまり、緒方さんの活躍ぶりが国際社会、おもに欧州で知られ始めていた。

 いま思うと、緒方さんの就任は実に時宜を得ていた。別の言い方をすれば、名誉や名声とは無関係に、熱意と誠実さだけを武器に難民支援という難行に取り組む緒方さんのような人材を得たことは、歴史の僥倖(ぎょうこう)であった。

 冷戦が終了し、それまで米ソの巨大な力の下に閉じ込めれていた少数民族紛争が一気に噴出。それに伴い、難民が急増した頃だ。少数民族紛争とは、言い換えれば一種の宗教戦争だ(それが、イスラム教過激派の「イスラム国」(IS)という狂気のテロ集団をも生み出した)。それだけに「血で血を洗う」というほどに酸鼻を極めた。

 そんな状況に真っ向から取り組む緒方さんとはどんな人か?会見を前に、興味が高まっていた。

 緒方さんは、地元のフランス人記者をはじめ、米英独日などパリ在住の各国特派員を前に、英語の質問には英語、仏語の質問には仏語で答えたが、その語学力以上に、「すごい人だな」と感じ入ったのは、その過不足ない見事な応答ぶりだった。何の衒(てら)いも気負いもなく、一見淡々と、ごく自然な態度だが、極めて説得力を持った回答に、並みいる記者たちも感じ入っていた。日本女性、というより日本人にこういう「見事な人材」がいるのかと驚愕、そして賛嘆した。

 はっきり言って、そこらあたりの政治家や外交官などは足元にも及ばない人材。それが緒方さんの第一印象だった。一度、ゆっくり取材したいと強く思った。

上がる一方の「マダム・オカダ」の知名度

ルワンダ緊急支援での各国の支援状況について語る緒方貞子・国連難民高等弁務官= 1994年8月22日、東京・日比谷の日本プレスセンターで
 その後、欧州における「マダム・オガタ」の知名度は上がる一方だった。92年7月末には、旧ユーゴ紛争(ボスニア紛争)による難民問題を協議するため、UNHCRが「国際難民会議」を開催、緒方さんは「人道的攻撃を行おう」と難民救済の重要性を訴えた。ただ、この時はUNHCRが170カ国以上に招待状を出したにもかかわらず、出席したのは紛争当事者の旧ユーゴの各共和国と、影響の大きい欧州など約50カ国にとどまった。

 ちなみに、ボスニア紛争は同年6月で1年を経過し、セルビア人中心の旧連邦軍の攻撃でクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナからの難民は230~250万人に増加。旧ユーゴ全体の、なんと10人に1人が難民という状態だった。内戦による人心の荒廃で、民族問題とは無関係の略奪や暴行も横行していた。旧ユーゴ内ではクロアチアに流出している難民が最大で70万人、約40万人がドイツへの20万を筆頭に、欧州各国に逃れている状況だった。冬までに、さらに約100万人が難民になるという試算もあった。

 1994年7月にはルワンダでフツ族とツチ族の対立が悪化。フランス政府の要請で、国連安保理が、ルワンダ内戦の即時停戦と停戦監視・難民支援のための兵員提供を各国に呼びかける声明を発表するなか、UNHCRが難民受け入れ国のリストアップを開始するなど、「マダム・オガタ」の活躍ぶりが連日、報じられた。

カッコよかったジャンパー姿

 96年6月には、世界平和のために貢献した団体や人物を対象とする「ユネスコ・ウフエボワニ平和賞」(当時の審査委員長キッシンジャー)の95年度受賞者に選出された。

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