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自自連立「小渕さんのあいまいな態度に騙された」

(22)小沢一郎「自民党は約束を守るわけないのに信じてしまった。甘かった」

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

「金融は政局にしない」と言った菅直人

 「小沢一郎戦記」インタビューは、歴史を動かす歯車に私自身が関わった箇所に到達した。主要な登場人物は、仙谷由人や菅直人、枝野幸男たち。小沢一郎の自由党と合併する前の民主党の面々だ。私自身が関連した場面であるため、簡潔にあらすじだけを示しておこう。

 1990年代後半、バブル経済が崩壊し、金融界は未曾有の危機に襲われていた。盤石と思われていた都市銀行や長期信用銀行の経営破綻が取りざたされ、私はその深層リポートを当時在籍していた『AERA』誌や著書などで報告していた。

 1998年夏、通称「金融国会」と呼ばれる第143回国会前に私は当時民主党の幹事長代理だった仙谷由人から電話を受けた。自民党の金融政策を追い詰めるための協力要請だった。

 私は引き受ける代わりにひとつの条件を出した。財務省の前身である旧大蔵省の財政部門と金融部門の分離政策を最後まで貫くことだった。

 仙谷はこの条件を承諾し、結局1998年6月に旧大蔵省の外に金融監督庁が設置され、さらに2000年7月に金融庁に改組されて財政機能と金融機能の分離はとりあえず貫徹された。

 次いで私は民主党代表だった菅直人に三度、インタビューに名を借りた「説得」を試みた。大蔵省の分割を嚆矢として予算編成作業も政治の側に取り込み、税金の使い道をより国民の側に近づけるべきではないか。その考え方を中心に政権構想を練り、政権を取りにいくべきではないか。

 私の「説得」には具体性が欠け、意気込みだけが空回りするだけのものだったが、大蔵省問題を中心とする「政と官」の問題に対して、菅の熱意は私の空回りを上回るほど低く、私を驚かせた。

 この時から11年後の2009年、菅は小沢一郎らとともに民主党政権の一翼を担い、まさに予算編成作業を政治の側に取り込む国家戦略局担当大臣となった。しかし、この問題に対する熱意はやはり低く、私の見る限り民主党政権挫折の大きい原因のひとつとなった。

 1998年の金融国会では、自民党の小渕恵三政権は民主党の金融情報力と政策立案能力に押されて民主党法案を丸呑みした。しかし「金融は政局にしない」という菅の考えに助けられ、小渕政権はそのまま何もなかったかのように続いていった。

 政権獲得のチャンスに限りなく近づいた民主党もまた何もなかったかのように政権から離れていった。

 この経緯を客観的に観察していた小沢一郎はその時「政権を取りにいくべきだ。政局にしなければ」と民主党を批判した。その考えは今でも代わらない。

 「やっぱり、当然闘うべきだった」

金融再生関連法案の修正問題でも、民主党の菅直人代表と小渕首相(右)の会談が決着の舞台になった=1998年9月18日、首相官邸で

したたかだった小渕恵三

――小沢さんたちの自由党が合併する前の民主党でしたが、あの金融国会で民主党はなぜ自民党と妥協してしまったのでしょうか。

小沢 まだ考えが旧体制から抜け出していなかったのではないかと思う。古い官僚の考えに丸め込まれてしまっていたんでしょう。こういう状態が続いてしまうと、日本はいつまでたっても夜明け前の状態を脱し切れない。

 たしかに金融危機だった。しかし、そうは言っても旧来の官僚のやり方ではもう治まらない段階に来ていた。それを新しいやり方で治めようというのが民主党だったではないか。それが我々のやり方だったではないか。

 そこで、何で自民党と妥協しなければならないんだ、自民党を倒して、我々の考えで大胆な政策を展開して乗り切ればいいんだ、と私は思っていた。

――しかしまったく皮肉なことに、小渕政権の方から今度は小沢さんに「助けてくれ」と言ってくるわけですね。それが後の自自公の連立政権につながっていくわけですが。

小沢 そうです。自民党との間でこんな大きな誓約書を書いたんです。

小渕恵三首相と小沢一郎自由党党首。閣僚18人での連立政権発足に合意した=1998年12月19日、首相官邸

――その誓約書につながる最初のエピソードが、当時自民党官房長官だった野中弘務さんの口で語られています。

(1998年)8月の下旬、たしか23日ころだったと思いますが、亀井静香君が「一度、小沢さんに会ったほうがいい」と誘ってくれた。東京品川の高輪プリンスホテルに亀井君が部屋をとってくれて、小沢さんと3人で会いました。/そこで私が「過去にいろいろありましたが、ここはひとつ大局的な立場に立って、ご協力をお願いしたい」と言ったら小沢さんは「まあ、個人的なことはもういいじゃないか。天下国家のことを考えよう」と言ってくれました。私は感動するとともに、胸をなでおろしたことを今でもおぼえております。そこからどういう形の連立政権をつくっていくかということになったわけです。ところが、小沢さんは原理原則の人ですから、特に外交や安全保障問題についていろいろ言ってきた。(五百旗頭真ら『野中弘務 権力の興亡』朝日新聞社)

――ここのところは覚えていますか。

小沢 よく覚えていないけれども、誰に対してもぼく自身始終言っていることですから。そういう主義で筋道を通してやってきています。

――その筋道を通して、1998年11月19日に小渕さんとの間で合意文書にサインされましたね。

小沢 大変な合意だった。国際安全保障のことも認めるし、こちらの主張を何もかも認めるという合意書だった。だから、これはいい、よかろう、ということになったんです。これで改革は出来上がったも同然だと、そう信じてしまったわけです。

 ぼくも、こういうところは本当に甘いと思う。自民党は約束を守るわけないのに、それを信じてしまった。

 自民党は最初からやる気なかった。だから、ぼくも連立して一月か二月でもう駄目だと思いました。小渕さんのあのあいまいな態度にだまされたと思いましたよ。

 それで、ぼくは小渕さんに迫ったんです。「どうしてくれるんだ、あの政策は。あなた、自民党総裁としてサインしたろう」と。「やれ、と指示しなさい」と言ったんです。そうしたら、「いっちゃん、申し訳ない。ぼくはそういうことはできないんだよ」と言うんです。

 そこで改めて思い出したんです。「ああ、そうだった。この人はこういうことができない人だった。この人を信用した自分が馬鹿だった」と思い直してあきらめてしまった。「申し訳ない。すまん」と小渕さんは言うわけです。

――そういう言い方をするんですね。

小沢 小渕さんは人の良さそうな感じがしますが、なかなかしたたかなんです。竹下(登)さんの子分でしたから。

――その合意文書は、小沢さんはいまだにお持ちですか。

小沢 持っています。

「小渕恵三」「小沢一郎」の署名のある「合意書」は全部で5項目。第1項目には「自由党党首提案の政策については、両党党首間で基本的方向で一致した。これに基づき直ちに両党間で協議を開始する。」とある。しかし、自民党側に実行の意思が見えず2000年4月1日、小沢は小渕に連立解消を申し入れた。奇しくもその夜、小渕は帰らぬ人となった。

小渕さんと野中さんの口車に乗っかってしまった

――ところで、この自民党と自由党の連立政権は、実のところ公明党を連立に引き入れるための自民党のひとつの手段だったんですね。

小沢 そうです。

――ここのところ、野中さんの回想ではこうなっています。

 私は亀井君と一緒に小沢さんに会ったとき、はっきり言いましたよ。「自民党が公明党と連立すると、数のうえでは参議院で救われる。しかし、公明党は『ストレートに連立というわけにはいかない』と言うので、失礼だけども自由党と連立させてほしい」と。(『野中弘務 権力の興亡』)

――このことはどうでしょうか。

小沢 それはそうかもしれない。しかし野中さんの言っていることは覚えていません。ぼくは政策の方を重要視していましたから。簡単に言えば、ぼくが小渕さんと野中さんの口車に乗っかってしまったということです。

自民、自由両党の連立協議が合意し、連立政権へ向けた会談を前に握手する野中広務官房長官(右)と小沢一郎自由党党首=1999年1月13日、国会内で

――しかし、結局、その政策合意で実現できたものもあり、実現できなかったものもありということですね。

小沢 自民党は最初からやる気なかったですね。ぼくが「もう連立を解消する」と言って、ようやくクエスチョンタイム(党首討論)ができただけです。

――そして、2000年の4月1日、小沢さんは連立の解消について小渕さんと会談しますね。この日の夜、偶然にも小渕さんは亡くなられて帰らぬ人となるわけですが、会談の途中、特別変わったようなことはなかったですか。

小沢 まあ、その日の前に合意を実行しないことについては詰めていましたから。それで、小渕さんは「ぼくはできない」と言うわけですから、「それじゃ仕方ない。もうお別れだね」という話になったんです。そうしたら、本当にお別れになってしまったんですが。

――大きい改革はできなかったかもしれませんが、やはり小沢さんたちの努力でいくつかは実現したものもありました。党首討論もそうですが、政府委員制度の廃止も実現しましたね。

小沢 今は元に戻ってしまいました。政府参考人とかになっています。

小沢一郎の目指した「政と官」

 小沢一郎の目指す政治改革は小選挙区制などの選挙制度だけではない。「政と官」全般にかかわる問題が対象となっている。この問題領域は歴史的に3つの幹線から開拓、模索されてきたと見られる。ひとつは、1993年5月に北海道大学教授だった山口二郎・現法政大学教授が英国の議院内閣制に範を取って、岩波新書から『政治改革』という本を出した流れ。二つ目は、やはり英国の議院内閣制を研究していた松下圭一・法政大学教授に私淑していた菅直人が実体験に基づいて考察を深めた流れ。そして三つ目が、山口と同じ93年5月に小沢が出版した『日本改造計画』(講談社)で追究された考え方だ。小沢はこの著書の中で、小選挙区制や党首討論、あるいは政府委員の廃止だけではなく、英国をモデルにした政治改革全般について論を進めている。

――「政と官」の問題に関して、ちょっと歴史を振り返りたいんですが、小沢さんは1993年5月に出された『日本改造計画』の中ではっきり書かれていますね。この本の中で、例えば政権党から政府に160人ほどの議員が行くとか閣僚懇談会の事例とか、そういった与党と内閣の一体化の話が具体的に書かれています。非常に先見的で驚くんですが、これはかなり勉強会を重ねて書かれたものですよね。

小沢 そうですね。メンバーは10人くらいで、政治家はいませんでした。官僚は時々参加する程度で、学者が中心でした。

――中心テーマ中の中心テーマである与党と政府の一体化は、どなたか研究されている学者はいたのですか。

小沢 いや、その類のことはぼくですね。

――本当ですか。

小沢 はい。英国の議会制度を模範にすべきだという意識はずっと前からぼくは持っていますから。党から政府に百数十人行くという人数は別としてもね。日本では、官僚がお上、政府という意識ですから、本来は国会議員自身が自分たちの政府を構成しているのに自分たちの政府だと思っていないんですよ。だから、自民党では、政府と交渉してこれだけの予算を自分たちは取ったなんてやっているでしょう。

 その時の政府というのは官僚なんです。本当におかしな話です。与党と内閣とが掛け合い漫才しながらやってきたわけです。だから、そんな馬鹿なことはやめるべきだとぼくは言っているんです。自分たちの政府じゃないか。自分たちでいろいろに責任を持って決めるべきことだとぼくは言うんです。

 だから、与党の中に政調会なんてものがあるのはおかしいんです。政策の決定権が党の中の政調会と内閣と二つになってしまうんです。その意識の奥底には、政府というものは自分たちのものではなく官僚のものだという考えがあるんです。

 そういう考えでは、大臣というのは官僚の単なる経路でしかない、操り人形でしかない。だから、基本はそういう日本人の意識改革をしないと駄目なんです。

 ただ、意識改革を待っていたんじゃいつになるかわからないので、まず形から変えていこうとしているわけです。選挙制度もその通りで、制度を変えることによって意識を変えていくしかないと思うんです。そういう議論はぼくの持論ですから、ぼくの意見がかなり入っていると思います。

――英国の政治制度について、小沢さんはいつごろから強い関心を持ち始めたのでしょうか。

小沢 やっぱり象徴的なものは小選挙区制ですが、これはもう選挙に出る前から考えていました。うちの親父(小沢佐重喜)も小選挙区制論者でしたから。

――議員になる前と言いますと初当選の27歳より前ですから、司法試験の勉強をされていた学生のころから関心があったということですね。

小沢 はい。基本的にはイギリスの議会制民主主義を模範にすべきだと考えていました。官僚のシステムも同様です。官僚は、実力とそれなりのステータスを持っていながら国会や政治の場には絶対に出てこない。そういう自分たちの分に応じた職責別のきちんとした仕事の分類ができる、そういうことを考えていました。

――内閣については、議員内閣制ですから、第1党の議員たちの中央委員会であるべきだと、それが内閣となって政府と一体化するんだという考えですよね。

小沢 うん。それと同じことですからね。

――なるほど。そして実際に自民党議員として政府を内外から眺めながら、まるで掛け合い漫才のようなやり方では駄目だと実感してこられたわけですね。

小沢 うん。それはだから、この世界にはいってきて余計にわかるね。

――特に、年末になると繰り広げられる予算折衝ですね。

小沢 最初はわからなかったけど、団体でビラを配ったりしているのは、みんな役所が作ってるんだからね。

小沢一郎と北一輝

 かつて毎年恒例になっていた年末の次年度政府予算案編成において、自民党本部の会議室前は党政調会の議員に重点復活項目を書き出したビラを配る圧力団体でごった返していた。

――あれ、役所で作ってるんですか。

小沢 はい。もう驚くべき実態ですよ。だけど、そこまで詳しくわかったのはやっぱり部会の幹部になってからですね。特に部会長になると、役人が、運動の目標はいくらにしましょうかと相談に来るからね。それでその通りにビラを配るんです。

――ちなみに、その部会というのは、小沢さんの場合、何という部会だったんでしょうか。

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