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在日朝鮮人「帰国事業」60年後の真実(下)

国際政治の論理で実現した「大規模移住」。在日朝鮮人自身の人権問題は軽視された

市川速水 朝日新聞編集委員

 『在日朝鮮人「帰国事業」60年後の真実(上)』では、北朝鮮から日本に戻ってきた「Uターン帰国者」の証言が最近、ようやく一定数集まり始めた現状を紹介した。今回は、この大規模で、なおかつ在日史として今も定着していない帰国企業の背景、日本現代史の中の位置づけについて考えてみたい。

当時の日本と冷戦下の朝鮮半島で何が

 帰国事業という問題を語ること自体、日本国内では長い間、イデオロギー色が強い問題として扱われてきた。名称の使い方で、どこに責任があったのか、どうすればよかったのか、をめぐり旗幟が鮮明になってしまう問題でもあった。

 まず、「帰国」「帰還」は、当時の日本政府や北朝鮮支持者、メディアが使い浸透した言葉だが、当時の在日朝鮮人の大半は南側、今の韓国側出身だった。朝鮮半島に帰るという意味では帰国・帰還だが、すでに朝鮮半島は南北分断が固定化し、お互いに建国を宣言していた。その意味で、「帰る」という言葉は、現代からさかのぼって考えれば正確ではない。韓国や在日韓国人系の団体では今も当時も「北送」と呼んでいる。

 「事業」か「運動」か、でも評価が分かれる。日本政府や国際赤十字を主体に考えれば「事業」、帰りたいと希望する在日朝鮮人の帰国要求や意思を強調すれば「運動」となる。

 改めて帰国事業に至った時代の構図を簡単に述べれば、以下の通りだ。

 戦争直後、朝鮮が日本の植民地統治から解放され、多くの朝鮮人が朝鮮半島に帰還した。それでも1950年代、約60万人が日本に残っていた。冷戦の始まりを告げるように朝鮮半島は南北に分断され、事実上、米国とソ連の管理下に置かれた。1950年には朝鮮戦争が勃発し、南北とも焦土となった。

 日本での「貧困と差別」に苦しむ在日朝鮮人は、朝鮮半島に帰りたくても帰れない人、慣れた日本の生活を選ぶ人、と様々だった。韓国は反共・独裁政権、北朝鮮は社会主義体制の建設に邁進していた。

 そのなかで、在日朝鮮人の一部が北朝鮮への「帰還」を日本政府や社会に提起。北朝鮮体制を支持する在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が在日社会に強力に働きかけ、10万人以上が帰還を希望したという調査もあった。韓国政府を支持する「在日本大韓民国居留民団」(民団、現・在日本大韓民国民団)は反対運動に回り、在日コリアンの対立が先鋭化した。

 日本の政治状況は、日米安全保障条約の改定交渉が1959年秋から始まり、社会全体が揺れることになる60年安保闘争の前夜を迎えていた。朝鮮戦争中の1951年から始まった韓国との国交正常化交渉は、妥結を目前にしながら厳しい局面を迎えていた。

 韓国は「朝鮮半島における唯一の政府」という立場を取り、日本が北朝鮮と交渉することや同胞を北に送ることに反対したため、帰国事業が日韓正常化の障害になりかねなかった。

新潟港を出発する帰還船のデッキで手を振るチマ・チョゴリ姿の帰還者たち=1964年3月

帰国事業を支持した朝日社説

 帰国事業が1959年12月に実現するまでの当時の朝日新聞を見ると、保守・革新超党派の政治家や文化人が帰国運動に協力する動きを大きく取り上げ、再三、社説ででも帰国を推進する論調を繰り返している。

 われわれは、北鮮への帰国を望む人たちに対しては、その切なる希望をかなえるのが当然の措置であると考えて来た。(中略)ここにわれわれが要望したいのは、人権宣言や赤十字国際会議の決議にそったこの日本の措置を、国際世論が正当に評価することである。(1959年2月2日付)
 在日朝鮮人が、自分の好むところへ帰るということは、すでに述べた通り、基本的人権にもとづいて自由に居住地を選択するという、何人にも与えられた権利であって、政治的理由によって、これを阻止することは許されない。北鮮帰還問題は、かつての日本人のソ連、中共からの引き揚げ問題と本質的には同様の事柄といわなければならない。(同年2月14日付)

 日朝赤十字が帰国事業実現へ向けて正式に調印したのを受けて、朝日社説は「喜びにたえない」と積極的に評価し、反対を続ける韓国にクギを刺した。

 韓国支持の団体が日本国内で帰還反対運動を企てる動きがあるといわれるのは、はなはだ遺憾なことと言わねばならない。故国に帰りたいという個人の意思を政治的な理由で阻止することは許されない。ましてや、再開された日韓会談で、韓国側が北朝鮮帰還問題を取り上げようとする意図がかりにもあるとするならば、人道問題と政治とを、混同することのはなはだしいものというほかはない。(同年8月14日付)

 朝日だけでなく、ほかの大手紙も大同小異の論調を繰り広げた。共通するのは、日韓正常化を速やかにまとめたい。その障害になりかねない帰国事業は人道問題なので韓国にも国際社会にも理解して欲しい。その落としどころとして「人道」「人権」を大義名分に掲げた形だ。

 そこには「北朝鮮に行った後、日本より素晴らしい生活が待っているのかどうか」という視点と想像力が欠けていた。

国際政治の論理で実現した「大移住」

 帰国事業を国際的な視点から外交文書などを通じて研究している朴正鎮(パク・ジョンジン)・津田塾大学教授は、日本国内で在日朝鮮人が帰還を求めたことが帰国運動に結びついたとする説だけでは10万人近い大規模な帰国の説明がつかないとし、その時期や前後の国際関係、世界情勢に注目する。

 「まず、この事業は大規模な『移住』と解釈すべきです。北に行ったほとんどが南朝鮮出身だったのですから。資本主義体制から社会主義体制への集団移住であり、東西冷戦の歴史上、前例のない事件でした。特定の国の意図だけで実現するものではなく、様々な角度から分析する必要があると思います」

 朴教授は、この「大規模移住」が実現した背景に以下の点があったと指摘する。

★帰国運動が盛り上がり始める1958年は、日本が韓国との国交正常化をめざす日韓会談が4年半の空白を経て再開された時期であり、会談の早期決着へと米国が積極的に介入していた。
★米国は、1960年の日米安全保障条約改定を通じ、日本との軍事協力を強化しようとしていた。それに対抗するために中国と旧ソ連は、北朝鮮の帰国推進を支持した。社会主義陣営が「反日米安保」で連帯することに意味があった。
★「日米安保」は、日本国内では革新系の市民団体や政党が反対闘争を繰り広げ、この層は帰国事業を支持する層と重なっている。帰国運動の盛り上がりと安保闘争の日程は合致している。
★当時、岸信介内閣は朝鮮人を日本から追い出したいのが本音だったが、人道主義を名目にするため、日本赤十字のみならず国際赤十字委員会を巻き込んだ。合意までの交渉はジュネーブ中心、つまり国際赤十字委員会が舞台だった。帰国問題は事実上、グローバルイシュー(世界的問題)になった。戦後の世界秩序の形成時期であり、戦争に伴う引き揚げや居住地選択の自由も当時は重要な規範だった。これらが帰国運動に勢いをつけた。
★韓国が帰国事業に反対を唱えて結局失敗したのは、「反北朝鮮・反共産主義」といった冷戦論理にとどまり、国際的な支援を受けられなかったからだった。

 朴教授は「帰国事業は人道主義を掲げて推進され、国際政治の論理で実現しました」とそのメカニズムを説明。一方で「しかしながら、どの国も、在日朝鮮人自身の人権問題には思い至らなかったのです」と結論づける。

 在日コリアン社会は、南北系とも祖国の本音が分からないままそれぞれの体制の方針に追従し、社会主義を掲げる国々の台頭に好感を持っていた日本の文化人・保革の政治家、マスコミも「人道的措置」の名の下に後押した。結果的に、みな将来を見通すことができなかった「共犯関係」にあったともいえる。

帰国事業開始から3年後に出版された朝鮮総連関係者による「楽園の夢破れて」。朝鮮総連内が大揺れに揺れたが、帰国事業はその後も続いた

帰国事業を推進したジャーナリズムの責任

 「(帰国運動は)北朝鮮への誘拐犯罪であり、事実上、監禁されたのであり、拉致に等しい」

 2019年11月13日、東京都内で開かれた在日韓国民団主催のシンポジウムで、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の名誉代表、山田文明さんは北朝鮮政府と朝鮮総連を厳しく非難した。

 帰国事業が25年間も続き、北朝鮮内の人権問題が指摘されても事業が続いたことについて、「北で被害を受けた本人の問題だけでなく、日本に残る家族が北に人質をとられるような形になり、また、朝鮮総連という組織に縛られ、被害を告発する行動ができなくなってしまった」と語った。

 また、朝鮮総連の中央・地方の幹部が在日社会に帰国を説得して回ったことについて、「悪魔には支える善魔がいる。善意でやっているけど、悪魔を支えてしまうのだ」と述べ、北朝鮮の内情を知らないまま帰国を勧めた「善意」の人たちが、さらに運動の盛り上げを支えたと指摘した。

 「脱北Uターン」した人たちの静かな証言は、帰国事業の責任論に改めて波紋を投げかけている。さらに、これを「在日コリアン史」ととらえるべきだという視点も現れた。

 中朝国境の脱北者らへの取材を20年間以上続け、北朝鮮の内情をウォッチングしているジャーナリスト集団「アジアプレス」の石丸次郎さんは「脱北Uターン」の増加を受けてこう語る。

 「在日朝鮮人の歴史の空白を少しでも埋める必要がある。帰国事業を推進した側でもあるジャーナリズムの一員としても、責任がある」

 石丸さんは昨年、ジャーナリスト仲間や在日コリアン、弁護士、学者らに呼びかけ、一般社団法人「『北朝鮮帰国者』の記憶を記録する会」を立ち上げた。今年から大阪を拠点に、東京、韓国などに住む50人を目標に聞き取り調査し、2020年中には調査を終えて2021年に記録集を発刊する目標を掲げている。

 ネットを通じたクラウドファンディングでも広く支援金を求め、目標額を超える214万円が集まった。

元帰国者の記録や写真を集める石丸次郎さん=大阪市内、筆者撮影

 石丸さんによると、「帰国者の脱北Uターン」は、日本に約200人、韓国に300~400人に上るのではないかという。中国でもかなりの人数が滞在しているとみられるが、中国の実態は分かっていない。日本では大阪圏に50人余、東京圏に約150人。元帰国者といっても60年を経て世代が変わり、帰国した「1世」だけでなく北朝鮮生まれの2世、3世の家族も含まれている。(上)の冒頭で紹介したKさんも、日本を知らない2世だった。

 石丸さんは

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