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アフガンの現場から、医師中村哲さんの言葉

命、国、文化……世界と日本を考えた声を再び

「論座」編集部

 アフガニスタンで銃撃されて亡くなったNGO「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さん(73)は、30年以上にわたる活動を通して考えたことを文章につづり、講演やインタビューで語ってきた。その言葉には、読む者の目を開き、考えさせる力がある。過酷な現場からの発信は世界や日本社会を鋭く突き、深い思索から生まれた声は受け手の心に水のようにしみ入る。遺された言葉をいま、改めて読み直したい。
(いずれも朝日新聞記事より抜粋、日付は紙面掲載日)

現地の人の立場で考える

講演する中村哲さん=2006年

1990年8月3日
 パキスタン・ペシャワルの病院で主にハンセン病患者の診療にあたった6年を振り返るインタビューで

 地元の人が何を求めているか、そのために何ができるか、生活習慣や文化を含めて理解しないと。難民向けの医療協力は各国から来ています。でも、善意の押しつけだけでは失敗します。

1992年5月22日
 アフガン難民への国際支援についてのインタビューで

 1988年5月にソ連軍が撤退を開始してから、約270万人のアフガン難民がいたペシャワルだけでも、それまで50団体前後だったNGOが、あっという間に200団体以上にふくれあがりました。

 (難民帰還への日本の関わり)88年5月に国連本部が作った青写真に日本政府が飛びつき、日本国際ボランティアセンター(JVC)が評価して計画にゴーサインが出た。難民に予防接種をし、1年分の食糧と種モミを持たせて帰す計画で、何百人もの現地スタッフと数百台の大型トラックを雇う、20億円前後の大規模プロジェクトです。しかしアフガニスタン国内の混乱などから本格的な活動が行われないまま91年、日本政府は残りの資金援助を凍結しました。

 失敗の一因は国連の青写真そのものにあります。しかしそれ以上に、うのみにした日本側の国際認識の甘さ、情報収集の弱さが現地で失笑を買っています。この甘さは、どこか日本の発展途上国を見る目のおごりを感じさせます。その裏返しとして、国連がすすめることだから間違いないだろう、という素朴すぎる国連信仰があるのではないでしょうか。

 どのNGOも文書では、現地の習慣を尊重する、とうたっていますが、プロジェクトを実施する段階ではほとんど考慮されません。

 ある団体は、識字率を向上させるため難民女性を公の場に引き出そうとした。男女隔離の厳しいイスラム社会では異様なことだし、当の女性たちも嫌がった。そもそもアフガニスタンの内戦が、親ソ政権による強引な女性解放政策に端を発したことを忘れています。90年以降、この団体を含めいくつかのNGOが難民に襲撃され、死者まで出ました。

 色々不満を並べましたが、学ぶべき点が多いのも欧米のグループです。数は少ないが、現地語を覚え、自己宣伝することもなく30年も40年も現地に居ついて溶け込んでいます。私もパシュトゥ語、ペルシャ語、ウルドゥ語を覚え、現地の人の立場で見たり考えたりすることに努めました。

 (日本は)欧米と比べて国際援助活動の歴史が浅いことを逆手にとるのも一つ方法でしょう。今のところ欧米団体のように価値観を押しつけることもさほどなく、活動の規模も小さいからそれなりに純粋な面を残しています。助けるつもりで行ったら日本人より心が豊かだったとか、奉仕というより役得だったとかいう人がいますが、その視点から見直してみることも国際化ということにつながっていく。

 気になるのは「国際貢献」という言葉が国連平和維持活動協力法案(PKO法案)とのからみで声高に語られていることです。戦争中の発想とあまり変わっていないのじゃないか。あのときもアジアに貢献するんだといって「八紘一宇(はっこういちう)」というスローガンが掲げられました。でも結果は国際破壊に終わりました。いま、自衛隊の海外派遣を前提にしたPKO論議がまかり通っているのは、日本人が昔のことを十分総括していないからだと思います。時代錯誤です。

「復興協力」はオリンピックとは違う

1993年3月9日
 文化面への寄稿 見捨てられるアフガンの民衆

 1979年12月の旧ソ連軍介入以後、実に14年にわたる内乱で国土が荒廃し、約200万人の死者と600万人の難民を出したことを記憶する人もあろう。88年、ソ連軍撤退でわいた世界は華々しい「難民帰還・復興援助」を知らされたが、それらのプロジェクトは巨額を浪費したあげく、“不発”のままに幕を閉じかけている。

 問題は、本当に復興支援の必要な今、援助プロジェクトが次々と閉鎖または縮小していることである。少なくとも保健医療分野では、東部アフガニスタンにおいて実質上JAMS(日本―アフガン医療サービス)のみが活動を続けている。あの華々しかった「アフガニスタン復興協力」を思うと、あまりにさみしい顛末(てんまつ)である。JAMSの診療数は昨年4月から12月まで8万人に迫り、「ペシャワール会」を通し、必死の補給でかろうじて回転しているのが実情である。

 「復興協力」はオリンピックとは違う。喝采(かっさい)を競う参加の実績が問題ではない。国連にこだわらず、工夫すれば可能なことも多い。「国際貢献」を錦の御旗にして「カンボジア」に人々の関心が集中している今こそ、巨費を投じたアフガニスタン復興援助の結末を謙虚に総括し、「人道的援助」の名に恥じぬ誠意を行為で示すべきではなかろうか。そうしてこそ、日本は真に国際的尊敬をかちうるはずである。

 おおかたの外国救援団体が「活動停止を余儀なくされる」なか、せめて我々だけでも日本の良心の証(あかし)となろう、と願っている。

中村哲中村哲さん=ペシャワール会提供

1998年1月27日 
 福岡県久留米市での講演から

 15年を振り返ってみると、助けに行ったつもりが、実際はペシャワルの人たちの笑顔に助けられて、楽天的に生きてこられたと思う。

私が学んだのは人間の病理である

中村哲中村哲さんの死を悼み、肖像画の前に献花する女性=2019年12月10日、米ニューヨークのアフガニスタン総領事館

2000年2月4日
 文化面への寄稿 基地病院建設、複雑な対立超えて完成

 発足して15年を過ぎた事業は、今や150人の現地職員を擁し、ペシャワールに二つの病院とパキスタン・アフガニスタン北部山岳地帯に五つの診療所を持つ医療組織に成長した。その診療数は年間15万人を超え、淡々と人々の海の中を泳ぎ回るように、活動を展開してきた。現地では住民の強い信頼も得、殊にアフガニスタン東部ではほとんど唯一の医療チームであった。そして、このことは私たちの一種の誇りでもあった。

 1998年4月、私たちが第1期15年の節目を置き、今後第2期30年の基地・PMS(ペシャワール会医療サービス)病院を苦心惨憺(さんたん)の末に建設したのは、私たちの活動の出発点に立ち戻る意図が込められていた。いまだ増え続けるハンセン病6000人の患者たちのケア、同病が多い山村無医地区の診療モデル確立を国境を越えて行うことである。しかし、7千万円の募金と2年の時を費やしたPMS病院建設は、初めからいばらの道となった。

 98年4月、盛大な仮開院式を終えたものの、建築業者とのトラブル続きで、旧病院からの移転がじりじり引き延ばされた。このままでは事業そのものが倒壊すると見た我々は、98年11月を期して一挙に移転を敢行、建築業者を追放して未完成の病院で診療を開始した。その経過は『医は国境を越えて』(石風社)に詳しい。幸い地元民の協力があって、完全に自前で建築を継続しながら、他方で組織再編に着手できた。

 だが、病院建設とは建物だけではない。人こそが石垣である。わけても私たちを悩まし続けたのは異なる人々の集団割拠であった。アフガン人とパキスタン人、イスラム教徒とキリスト教徒、異なる氏族・血縁集団、これらが幾重にも重なって複雑な対立を生み、彼らを束ねてゆくのは、覚悟はしていたものの、容易なことではなかったのである。これに加えて、印パ国境で軍事衝突あり、パキスタンの核実験あり、米国によるアフガニスタンへの巡航ミサイル攻撃あり、99年11月はパキスタンで軍事クーデターが起きるという有り様で、文字通り内外の騒然たる状況で事業は行われた。

 「国境を越えての協力」とは、誰もが納得する美しいスローガンである。しかし、身近になると誰もが土壇場で躊躇(ちゅうちょ)する。私が学んだのは、高い理想で結び合うより、共通の敵を仕立て上げる結束の方が、はるかに容易だという人間の病理である。これに自省のない驕(おご)りが加わると、手の付けようがない。事実、私たちが打ち出した新体制は、ことごとく無用な対立で妨害された。

 ここに至って私の忍耐も限界に達し、「たとい全員を解雇してもゼロから再び出発する」と非常事態を宣言、綱紀粛正を掲げて公私混同や怠業を厳しく取り締まり、悪役にされることを覚悟で臨み、夜は拳銃(けんじゅう)を枕に眠った。一応の診療秩序が回復、予算削滅にもかかわらず、年間診療数20万人の水準に復しつつある。他方で病院に適した人材養成を目的に、「医療助手養成コース」を正式に発足、意欲ある青年たちを集めて将来に備えている。

 長い道程ではある。しかし、私たちの対決するものは、現地でこそ極端な形で現れたが、実は普遍的な人間の病理であると思い当たる。

 日本とても他人事ではない。訳の分からぬ犯罪や、政治屋たちの猿芝居、幼稚な風俗を見聞きする毎に、将来に不安を抱く。Eメールが行き交い、ネットワークが張り巡らされ、世を挙げて情報化に忙しい。だが、伝達手段ばかりが徒(いたずら)に発達し、中身は手軽で薄っぺらになってゆく。問題が表層で捉えられて処理されるだけ、よけいに不気味である。

 この中にあって、私たちは安易に平和や国際協力を語らない。それは生身の人間の現実に肉迫することでしか得られないからだ。もし私たちが現地活動に何かの意義を見出すとすれば、そこに手ごたえのある「人間との対峙(たいじ)」と、確かな「人間の希望」を感ずるからなのだろう。

バーミヤン大仏を壊すのは誰か

2001年4月3日
 文化面への寄稿 バーミヤンの大仏を壊すのは誰か

破壊されたバーミヤンの大仏= 2001年3月26日
 抜けるような紺碧(こんぺき)の空とまばゆい雪の峰に囲まれるバーミヤン盆地は、不気味なほど静かだった。無数の石窟(せっくつ)中で、ひときわ大きく、右半身を留める巨大な大仏さまがすっくと立っておられる。何を思うて地上を見下ろしておられるのだろうか。

 3月19日朝、タリバンによる仏像の破壊が世界中で取りざたされる頃、私は現地にいた。カブールへの緊急医療支援を決定し、最も避難民が多かったバーミヤンへ医療活動の可能性を探りに来たのだった。

 戦乱だけでなく、この30年で最悪の旱魃(かんばつ)で、アフガニスタン国家が崩壊するか否かのせとぎわである。アフガン東部に三つの診療所を構える私たちは、直ちに事態を深刻に受け止め、医療団体にもかかわらず、飲料水源確保を緊急課題とした。以来この7カ月というもの、アフガン東部の旱魃地帯に展開して地元民と協力、必死の作業を続けてきた。3月現在、病院職員150人とは別に、水計画の職員・作業員670人、作業地429カ所。51カ村で約二十数万人の離村をかろうじて防ぐという、会が始まって以来、最大規模の活動となった。地域によっては、カナート(地下水路)多数を復旧、砂漠化を阻止し、難民化した全村民が帰るという奇跡をも生んだ。活動地は更に拡大を続けている。

 今年2月、ペシャワールの基地病院で難民患者が激増するに至り、「国外に難民を出さぬ活動」をめざし、首都カブールに診療活動を計画した。これは、既に一つのNGOとしての規模をはるかに超える。しかも、大半の外国NGOが撤退または活動を休止する中である。我々としては、「これで現地活動が壊滅するかも知れぬ」という危機感の中、組織の命運をかけて全力投球せざるを得なかったのである。

 およそこのような中での、国連制裁であり、仏跡破壊問題であった。旱魃にあえぐ人々にとって、これがどのように映っただろうか。仏跡問題が最も熱を帯びていた頃、手紙がアフガン人職員から届けられた。

 「遺憾です。職員一同、全イスラム教徒に代わって謝罪します。他人の信仰を冒涜(ぼうとく)するのはわれわれの気持ちではありません。日本がアフガン人を誤解せぬよう切望します」

 私は朝礼で彼らの厚意に応えた。

 「我々は非難の合唱に加わらない。餓死者100万人という中で、今議論をする暇はない。平和が日本の国是である。我々はその精神を守り、支援を続ける。そして、長い間には日本国民の誤解も解けるであろう。人類の文化、文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神である。それは我々の心の中に築かれるべきものだ」

 その数日後、バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、ひとつの啓示を与えるようであった。「本当は誰が私を壊すのか」。その巌(いわお)の沈黙は、よし無数の岩石塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って逝こうとする意志である。それが神々しく、騒々しい人の世に超然と、確かな何ものかを指し示しているようでもあった。

破局を救うのは希望を共にする努力と祈り

2001年10月27日
 オピニオン面「私の視点」への寄稿

 10月7日、平和への願いを押し切って米国の「報復」が開始され、多くの市民たちが爆撃の犠牲になっている。そして2週間とたたないうちに、「タリバーン後」がとりざたされ始めた。しかし、現実は西部劇やゲームではない。私たちが知る現地の生々しい実情は、政治家や評論家が語る紙上の想像からは程遠い。決定的なカギをにぎる多数派パシュトゥン民族を始め、肝心の民衆の動向が紙面から見えてこないからだ。

 人々は餓死者100万という修羅場の中で、生き延びるのに精いっぱいなのだ。旧ソ連軍の精鋭10万人の大軍をもっても制圧できなかったアフガニスタンの広大な国土の9割が、兵力わずか2万人のタリバーン政権で支配され続けたのはなぜか。

 この事実の背後には、アフガン民衆自身が過去20年以上の内戦に疲れきり、平和と国家統一を求めていたことがある。彼らは、いわゆる「国際社会」に黙殺されながら、自らの生を防衛してきたというのが真相だ。

 すなわち、現在進行する構図をより大きな目で見れば、「近代文明を自負する国際社会」対「その枠内に収まりきれぬアジア伝統社会」との、かみ合わぬあつれきというべきであろう。確かなことは、これが何かの終極の初めであることだ。

 目先の景気対策や国際的発言力ではなく、私たちが自明のように使う「国際社会」とは何かを改めて問い、もう一度白紙から、人間としての一致点と、何を守るべきかを模索することこそ緊急事態のように思えてならない。

 戦局の展開や戦後処理の動きだけがいたずらに伝えられ、逃げまどう物言わぬ民の実態は伝えられない。ほとんどの人々は、難民にさえなれないのだ。

 図らずも今回の暴力的対決は、我々の誇るべき文明が、古代から変わらぬ野蛮と暗い敵意の上に張る薄い氷にすぎないことを実証した。平和の声を非現実論だと冷笑し、暴力とカネを拝跪(はいき)する風潮こそ戦慄(せんりつ)すべきである。

 敵は、実は我々自身の心の中にある。強い者は暴力に頼らない。最終的に破局を救うのは、人間として共有できる希望を共にする努力と祈りであろう。

日本の自殺の多さ、幸せとは何か考えさせる

2002年7月12日
 青森県八戸市での講演で

 30年くらい先を見ながら活動を続けたい。アフガニスタンに比べて日本は豊かだが、その日本で年間3万人の自殺者が出る。人間の幸せとは何か、社会のあるべき姿とはなにか、考えさせられる。

2003年7月30、31日
 アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞の「平和・国際理解部門」を受賞しての会見とインタビューで

中村哲潅漑用水路の起工式で話す中村哲さん=2003年3月、アフガニスタン・ダラエヌール村近くで

 アジアの同胞からの熱い評価として感激しています。現地職員や20年間支えてくれたペシャワール会員らの良心の結晶へ与えられたと理解している。

 国籍や民族、宗教、近代化と伝統社会のあつれきを乗り越えた活動は、多様なアジア世界で、相互の差異を認め合いながら人として協働する、未来のあるべき姿を学ばせてくれた。暴力は解決にならない。私たちの小さな努力が、既成の立場や先入観を超え、共生と融和の新しい時代を切り開く、一つの捨て石となることを祈りたい。

(次回に続きます)