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戦中に強制連行され、戦後に「雪男」にされた劉氏

田中宏さんと考える(4)中国人強制連行「和解」の苦しみ

市川速水 朝日新聞編集委員

終戦も知らず13年間逃亡した中国人

 「北海道に〝雪男〟現れる」

 田中宏さん(82)がこんな報道に驚いたのは、1958年2月のことだった。まだ東京外語大学の学生だった。

 「雪男」の正体は、日本に強制連行された中国人、劉連仁さん(当時44)と判明した。山東省で農業を営んでいたが、戦時中の1944年、貨物船と船で北海道に連行された。石炭の掘削作業を強いられ、暴行や空腹に絶えかねて終戦間際の1945年7月末に脱走。戦争が終わったことも知らずに山を転々として隠れながら13年間生き延びた。

 穴に潜んでいるところを農民に発見されたが、日本語が通じず、当初、日本の当局は強制労働を認めなかったばかりか、入管当局が「密入国」で取り調べようとした。

北海道の山の穴にこもって生活していた劉連仁さん。1958年2月に北海道で「発見」された当時の写真とみられる

田中「私は大学で中国語を学んでいたのに、戦時中の中国人強制連行のことは全く知らなかった。学んだ記憶もなかった。劉さんが帰国後、中国でインタビューを受けて語った体験談が日本で翻訳されると、むさぼり読みました」

 この学生時代の強烈な思い出が約30年後、ひょんなことで「ライフワーク」につながる。

 旧植民地出身者らを戦後補償や就業から外してきた「国籍条項」や「当然の法理」に疑問を持って当事者と歩み始めて数年後。1980年代に入ると在日韓国・朝鮮人が外国人登録証明書の指紋押捺を拒否するケースが続いた。

 指紋不押捺で起訴された韓宗碩(ハン・ジョンソク)さんの代理人となった新美隆弁護士(故人)の法律事務所に出入りしていたところ、新美弁護士から「日本に強制連行された中国人が使用者だった鹿島に補償を要求している。力を貸して欲しい」と頼まれた。

 かつての劉連仁さんと同じ境遇に置かれた人たちだった。

花岡事件、動かぬ「証拠」で和解へ

中国人強制連行の犠牲者数に合わせ、6830足の黒い布靴が並んだ追悼式の会場=2019年11月19日、東京・芝公園、筆者撮影
 それが「花岡事件」。あらましはこうだった。

 山東、河北、河南省などから秋田県の鹿島組(現・鹿島)花岡事業場に986人が連行された。過酷な労働と虐待のなか、終戦間近の1945年6月、中国人労働者が一斉に蜂起し、鹿島側の補導員(監督)4人を殺害した。地元警察や警防団に全員逮捕され、拷問などで合わせて419人が死亡した。

 中国人は秋田地裁で有罪判決を受けたが、秋田に進駐した米軍が事件を知り、中国人は「俘虜」だったとして12人を釈放。逆に鹿島・地元警察は俘虜虐待容疑でBC級戦犯横浜法廷にかけられ、1948年3月、有罪判決を受けた。

 中国人の強制連行・強制労働に責任を負う企業に謝罪と補償を求める行動は、花岡事件が初めてだった。

田中「日中間には、日韓請求権協定のような協定はなく、完全かつ最終的に解決、などと書かれたものはない。国会で田英夫参院議員が海部俊樹首相に質問した時に、首相が『日中共同声明で片付いた』という趣旨の答弁をしたことぐらいでした」

 1972年、日中国交正常化が実現した時の日中共同声明では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と記された。

 海部首相は1990年3月、花岡事件について知っているかどうかという田議員の質問に、「はなはだ遺憾なことだと思い、心を痛めた」とする一方で、「我が国政府としては、戦争にかかる日中間の問題は日中共同声明発出の後、存在していない。請求権の問題についてはそういう立場」と民間の賠償責任問題については言葉を濁していた。

田中「(被害者らでつくる)花岡受難者聯誼会が、鹿島にあてて『公開書簡』を出したのが1989年末です。公式の謝罪、日中に記念館を設置すること、各50万円を補償することを求めました。鹿島の責任をめぐっては、BC級戦犯裁判で有罪判決が出ていることは逃げようがない事実。鹿島側や現地警察の3人には死刑判決が出た。その後減刑されて死刑執行はなかったが、事実が認定されている。翌1990年7月、東京での鹿島との『共同発表』で、会社は『深甚な謝罪の意を表明し、解決に向け協議する』としました。しかし、協議が不調に終わり、1995年6月に原告11人が東京地裁に提訴するわけです」

 日本の外務省管理局は1946年、「華人労務者就労事情調査報告書」を作成していたが、長く所在不明とされていた。1993年に「発見」され、翌94年の国会で、政府の作成であることを認めた。

 その外務省報告書には、4万人近い中国人が連行されたこと、35企業、135事業場に投入され、全体の17.5%に及ぶ6830人が死亡したことなどが記録されていた。死亡率はシベリアに抑留された日本人をはるかに上回っていた。

田中「中国は戦勝国だから、本来ならアメリカと肩を並べて占領軍の一員として日本に駐留してもおかしくなかった。日本もちゃんと調査をしておかないと、ということで外務省報告書ができたわけでしょう。この点は、植民地だった朝鮮半島からの強制連行との大きな違いです。同じ国家総動員体制の下で、最初は朝鮮人を連れてきて、次は中国人を、となったのです。『華人労務者移入』を閣議決定して中国人を連行したわけです」

 花岡事件は結局、1審敗訴の後、東京高裁で裁判長から和解案を提示される。

田中「裁判所の和解提案に応じるかどうか。中国人原告にとっては、原告11人だけではなく、働かされた986人全体の解決ができるかどうかが核心だった。日本にはクラスアクション(集団訴訟)制度がないため、信頼に足る信託機関に受諾してもらわねばならない。戦後の日本人の引き揚げや中国人の遺骨送還の中国側窓口だった中国紅十字会が引き受けてくれたので、それが実現することになりました」

 それを受けて、2000年4月、新村正人裁判長は、さきの『共同発表』を踏まえ、和解金5億円を提示した。被害者全体では1人当たり50万円の計算になる。

田中「請求額は1人500万円だったから、10分の1です。しかし、回答はイエスかノーしかない。50万円では…と思いつつ、ともかく北京に原告を訪ねました。説明のうえ議論しましたが、最終的には、全く前例がないことだったし、原告たちは『お金を取るのが目的ではない。初めて全体解決の和解が生まれるのだから』と、11人が『同意書』を作り、サインしてくれました」

 2000年11月、和解が成立した。田中さんが新美弁護士に聞いたところによると、鹿島内部は和解賛成と反対で割れていたという。「カミソリ後藤田」といわれた自民党の後藤田正晴・元官房長官も秘密裏に間に入ったという。後藤田氏は、戦時中を台湾の歩兵や陸軍主計少尉として過ごした。終戦も台北で迎え、捕虜生活も送った。

田中「原告側は受け入れたのに、なぜ和解にならないのか、中国紅十字会も受け皿になったのに…と、実は中国サイドに不満が高まっていたのです。そのことを、従来力を貸してくれていた土井たか子さん(当時社会民主党党首)に話したら、後藤田さんに連絡してくれて、私が麴町の事務所に説明に行きました。呑み込みが早い人で、『分かった、石川六郎さん(元鹿島会長)に電話してみる』といわれました。しばらくして鹿島の和解受諾が伝えられたのです。3人とも故人になられましたが…。
 和解した後も、いろいろな問題が起きました。和解という言葉は、中国側から見ると妥協したように見える。中国語との微妙なニュアンスの違いがあるのでしょう。徹底的に闘わなければいけないのに、仲直りしたのかというイメージを与える。日本の新聞の社説に『救済』という単語が何回出てきたか数えて、批判の材料にされたこともありました。
 また、『和解条項』では、会社が謝罪した『共同発表』を再確認しているのですが、条項自体には謝罪の文字が入っていなかったこともマイナスに働いたようです。さらに、和解当日、鹿島側は記者会見にも出ず、マスコミ各社にファクス1枚を送っただけだった。その文面には、拠出した金員は賠償でも補償でもないなどとあった。中国では、それは『施し』なのだと反発を呼んだ面もあるようです。
 何もかもが最初のケースだったから、ある意味では仕方がないと思いました。花岡事件を下敷きにして少しずつ改善していく、救済の質を高めていければと…」

西松建設、三菱マテリアルとも和解

 その後、2009~10年にかけて和解にこぎつけた西松建設の中国人強制連行についても、田中さんは被害者側に立って会社と交渉した。

田中「広島の中国電力安野発電所での強制連行をめぐっては、地裁は西松建設が勝ったが、控訴審は中国人原告が勝った。西松が上告して西松の勝訴が確定しましたが、最高裁として初の判断でした。2007年4月、『日中共同声明で個人の裁判請求権はなくなった』と原告の請求は棄却しましたが、『上告人(西松建設)を含む関係者において、本件被害者の救済に向けた努力を期待する』と付言がついたのです。ところが、西松側は裁判に勝ったものだから、付言に基づいて解決すべきだと申し入れても埒が明かなかった。
 そのうちに西松建設の不正献金事件が発覚し、社長ら幹部が逮捕される事態になります。2009年4月、西松建設の顧問弁護士から連絡が入り、『会社の再生のため、歴史問題も解決することになったので話を聞かせて欲しい』というのです。そこから和解に向かい、協議が整い、東京簡裁で『即決和解』の手続きをとったのです」
田中「私は、必ず謝罪の言葉を入れてほしい、鹿島の時は謝罪と和解と文面が分かれたため、あらぬ誤解を生んだので。花岡の場合は記念館について明記できなかったが、西松の時は記念碑が和解条項に入りました。金額は最終的に1人当たり70万円になりました。あとは、和解発表の席に西松建設の代表者が同席することが大事だと言いました。
 西松建設・広島の被害者は360人です。和解成立の日に、会社の人は来なかったが、弁護士が会社を代表して共同記者会見に臨んでくれました。360人の名前が刻まれた記念碑も中国電力の発電所の敷地に建設されました。中国人を使って造られた発電所は、今でも稼働しているのです」

 そして2016年6月、三菱マテリアルと中国人被害者の和解が実現する。被害者は3700人を超し、過去最大規模の和解となった。

 田中さんの願い通り、今度は調印式が北京で行われ、三菱側の代表も参加した。中国人生存者に直接、謝罪の意が伝わった。花岡から少しずつ進歩している、と実感する。

強制連行の和解合意書調印式で三菱マテリアル幹部(右から2人目)と手を握り合う中国人元労働者や遺族=2016年6月1日、北京

韓国の徴用工問題との違いはどこに

 いま日本と韓国の間で亀裂を生んでいる元徴用工問題も、中国人強制連行と構図は非常に似ている。日本の敗色が濃くなる過程で労働力が不足し、若い男性を中心に日本の鉱山やトンネル、発電所で過酷な労働を強いて虐待した。住居や食糧も最低限以下の生活を強いられた例が多かった。

 ただ、戦後の扱いは違う。

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