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国家と時間 協定世界時(UTC)を導入せよ

「時差」は絶対的なものでは、決してない

塩原俊彦 高知大学准教授

 2019年9月、180年近い歴史をもつ老舗旅行会社、トーマス・クック・グループはロンドンの裁判所に破産を申請した。

 1841年の創業当時、英国は産業革命で誕生した機関車による鉄道の旅が中産階級に可能な時代を迎えていた。そんな時代から、近代化の象徴である鉄道の発展とともに成長したトーマス・クックが倒産するというのは感慨深い。きっとそれは近代化後のまったく新しい時代の到来の予兆なのだろう。

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 近代化を象徴する鉄道は、それ自体の発展、利用拡大によって時間や空間に深い「裂け目」をもたらしたことが知られている。まず、鉄道の発展が標準時の導入を促した。

 英国では、1840年代になってグレート・ウェスタン鉄道がグリニッジ標準時に基づく鉄道運行のパイオニア的役割を果たし、1883年までに英国全土の鉄道がグリニッジ標準時に基づいて運行されるようになる(参照)。「トーマス・クックの時刻表」が創刊された1873年3月は、こうした時代の息吹をよく反映していたと考えられる。なお、この時刻表は2013年8月号でいったん廃刊になったが、2014年3月号からEuropean Rail Timetableとして発行を再開した。

 米国では、1830年頃、鉄道時代の幕開けを迎える。列車の出発時刻や到着時刻を正確に把握できなければ、鉄道の円滑な運行は不可能であるから、鉄道の運行は中央集権的に管理されるようなる。これは衝突事故などの回避のためでもあったが、運行時刻の正確さが重視され、1852年頃には鉄道沿いに電信を敷設することで時刻を同調させるようになっていく。

 だが、総延長5万マイル(約8万km)強の鉄道が敷設された1870年頃になっても、400社を超す鉄道会社が存在し、鉄道運行監督者は75以上の異なる時刻を割り当てなければならなかった。また当初、鉄道は単線が多く、時間厳守によって車両運行を管理しなければ衝突の危険があったため、1872年に複数の鉄道会社が集まって時刻の統制を協議し始めた。

 協議は難航し、鉄道標準時が導入されたのは、1883年11月18日であった。アイルランドを旅行中にa.m.の代わりにp.m.で書かれた鉄道時刻表のために列車を逃す経験をした、スコットランド生まれのカナダ人、サー・サンフォード・フレミングが1876年に世界標準時の導入を提案した『Uniform Non-Local Time (Terrestrial Time)』を著したことも鉄道標準時の実現につながった。

時間をもてあそぶ国家

 鉄道での標準時の導入の一方で、国家間での時差の導入という現象も進んだ。それは、グリニッジ子午線(本初子午線)を基点とする世界時(Universal Time, UT)が1884年の「バンコク子午線会議」によって決められた結果として各国の標準時が決定されたために生まれた。

 日本では、1886(明治19)年の勅令第51号により、東経135度の子午線を標準時とすることになったわけである。世界時は地球の自転に基づく天文時系であり、天文台の観測から得られる本初子午線における平均太陽時をUT0、その補正版をUT1とし、1958年1月1日0時にそのUT1と一致するかたちで1日を8万6400秒として積算したのが国際原子時(TAI)である。

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 その後、1967年の国際度量衡委員会でセシウム原子の遷移周波数から求める1秒が国際単位系(International Standard of Unit)で定義された1秒となる。1975年になって、協定世界時(Coordinated Universal Time, 略称はUTC)というTAIに基づく時系が広く使用されることになる。

 天文時系から原子時系への移行過程で、国家は標準時決定において強い権力をふるってきた。有名なのは、第二次世界大戦中にパリを占領したアドルフ・ヒトラーが

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