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鳩山由紀夫「私としては小沢総理で良かった」

(28)鳩山由紀夫に「民主党政権の挫折」を聞く・上/国家戦略局

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

鳩山由紀夫から見た小沢一郎

 ちょうど10年前の2009年という年。それは明治以来の長い日本政治史上画期をなす年として輝き続けるだろう。日本国民が初めて自分の意思を投票を通じて明確に表現し、一野党に過ぎなかった民主党に地滑り的な勝利をもたらし、自民党を完膚なきまでに打ちのめした。

 10年という年月は、国民全体がその歴史的意味に気がつくまでにはまだ短すぎるのではないか。

 この2009年後半、政界の中で、長く日本政治史に残るような政治イベントとなったことが二つある。双方とも広く喧伝されてはいないが、ひとつは2010年度予算案編成に示された政治の側の編成権の取り戻し、そしてもうひとつはその制度保証となるべき国家戦略局の創設の試みと挫折だ。

 前者の中心となったのは小沢一郎、後者の青写真を描いたのは松井孝治だった。

 この「小沢一郎戦記」の中で、当時のことを二人にそれぞれ詳しくインタビューし、「事前の調整がうまくいき国家戦略局の担当者がもっと使命感を持ってくれていたら」「小沢一郎が閣内に入り、国家戦略局長の役割を担ってくれていたら」という、「歴史のイフ」を伴う後悔、反省となった。

 もちろん、「国家戦略局」などという名称の問題ではなく、長年日本の政治改革を主導し、政界にも官界にも信奉者の多い小沢が、直接首相という立場に立たなくても、政官関係を統率、改革する立場に立って行動することができていれば、民主党政権のその後の展開、日本政治のその後の行路はかなり違ったものになっただろうということだ。

 私は、松井のインタビューと前後して、当時の首相、鳩山由紀夫にも長時間のインタビューを試みた。そのインタビューの中でも同様のことが明らかになった。鳩山は、普天間問題をはじめとする内政外交問題でもっと小沢の力を借りたかったが、当時の検察の無謀な動きと世論の動向によってそれが阻まれたと内実を吐露した。

 民主党政権は、2009年の政権交代による高揚のしばらく後に鳩山首相が退陣し、菅直人、野田佳彦と首相が続くとともに改革の機運は薄れ、旧来の自民党政治にどんどん近づいていった。

 この民主党政権の挫折は、まず国家戦略局の失敗を象徴例とする政権構想の調整不足、そして検察の根拠のない無謀な暴走の二大原因にその因を求めることができる。このことは、日本政治の改革という側面ではるかに劣後してしまった安倍政権の後、もう一度改革の道を目指す新政権のために大いに参考になるに違いない。

 鳩山に対するこのインタビューは2回に分け、まず国家戦略局を中心に話を聞き、次の回では普天間問題に焦点を絞り、耳を傾ける。

鳩山由紀夫・民主党代表に対し、衆院選当選者の名前にバラつけを促す小沢一郎代表代行=2009年8月30日、東京・永田町

「私は松井孝治さんを信頼していた」

 鳩山由紀夫は戦後の首相、鳩山一郎を祖父に持ち、大蔵次官から参院議員、外相となった鳩山威一郎を父とする政治家一家に育った。東大工学部卒業後、米国スタンフォード大学大学院でPh.D.を取得。1986年に初当選、翌87年には小沢一郎とともに所属していた田中派を離脱し、竹下登を旗頭とする経世会に参加した。
 1993年には武村正義らと新党さきがけを結成して自民党を離党。細川護煕非自民連立政権には内閣官房副長官として参加。96年に菅直人や弟の鳩山邦夫らと旧民主党を結成。2003年には自由党代表だった小沢一郎とともに民由合併を手がけ、その後新民主党の幹事長に就いた。09年に小沢代表の辞任を受けて党代表に就任し、自民党との政権交代後の首相となった。
 「政権交代」を強く訴えた2009年の民主党マニフェストにおける「鳩山政権の政権構想」の前面に立てられた「5原則5策」のうちの第3策にはこう掲げられている。
 「官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する」

就任後初めての記者会見に臨む鳩山由紀夫首相=2009年9月16日、首相官邸
――民主党政権の最大の目玉だった国家戦略局は2009年のマニフェストの5原則5策の第3策で打ち出されました。鳩山さんはそのプログラム作成を当時民主党参院議員だった松井孝治さんに任せましたが、これはやはり松井さんがこの問題をずっと提起されてきていたことを評価、信頼されて任されたのでしょうか。

鳩山 はい。基本的には松井さんを信用、信頼していました。彼はそういう緻密な頭脳を持っていますから。我々とすれば政府主導の仕組みを作りたい。そのためには、元官僚で官僚の仕組みというものをよく知っている人間でないとまずいわけです。官僚のシステムを替えないといけないわけですから。そういうことをよく知り、そういう思いを持っていた人間が政治主導のシナリオを作ってくれるのですから、彼を信頼したいということが基本にあります。

 それが、国家戦略局が戦略室になって、どんどん意味のないものにされていってしまいました。本当はもっと大胆に政治主導の法案を成立させていきたかったんですけれども、それが徐々に変わっていってしまいました。

 余談になりますが、私は、役人のトップクラス、例えば局長以上の人間に対しては、いったん辞表を持って来てもらって、自分たちの新しい政権の政策に同意してくれるかどうか確かめて、それが可能であれば採用しようというプロセスが必要だと思っていました。

 実際には、それは憲法違反だという松井さんの反対があってそのプロセスには入れなかったのですが、そこで自分たちの政策を貫くといっても、今までの役人のスタッフを中心にしては、なかなか難しかったということがあります。

 しかし、松井さんを信頼したことは事実で、今でも彼は素晴らしい仕事をしてくれたと思っています。私が辞めたら彼も同じようにその後役職に就かず、それくらいの潔さを持って政治までやめてしまいましたけど、彼自身としても、シナリオ通りにうまく運べなかったという部分を感じているのではないかと思います。

――国家戦略局については、枢要なポジションにあった皆さん、それぞれに考えがずれていたようですね。

鳩山 そうなんです。

「私は外交戦略が一番トップクラスに入ってくると想像していた」

――担当大臣だった菅直人さんは、設計者の松井さんとはまったく違う、ポリシー・ユニット、つまりスタッフ機能というように考えていました。予算編成権を政治の側が取り戻すという、制度設計者の松井さんが設定していた本来の任務を考えていなかったわけです。

 鳥取県知事から2010年に菅直人内閣の総務相となった民間人閣僚の片山善博は菅直人と協力関係にあったが、菅から相談を受けていた国家戦略室スタート時のことを客観的、冷静に回顧している。
 「(菅さんから)私に検討会に入って手伝ってくれという話がありました。私も喜んで入りましょうと答えました。/ところが私がいくつかの会議に入ってみると、その舞台回しというか基礎部分はほとんど財務官僚がやっているわけですよ。本当に改革するときは改革されるべき当事者たちに基礎部分を担当させてはいけないんです。国家戦略室に官僚を大勢入れていたわけですから、最初から大きな作戦ミスを犯したと思います。
 (略)そう、事務局にです。私は菅さんにそのことを指摘したんです。すると国家戦略室には正式な定員がない、つまり組織として自前の定数がないんです。そこに財務省はこころよく人を出してくれる。それを「ありがたい」という感じで受けとめておられました。民主党はこういうところが非常に素朴なんですね(笑)。長年続いてきた予算の仕組みを変えようというのであれば、変えるべき対象である財務省という組織とはある程度の距離を置かなきゃいけないですが、それができていなかった」(薬師寺克行『証言 民主党政権』講談社)

――このことはやはりかなり問題だったと思います。民主党政権の第一の表看板について、担当大臣がまったく違うことを考えていたわけですから。菅さんとしては、当時民主党内で少し議論となっていた、内閣との間の二重権力の問題とかを考えていたのかもしれませんが、事前の制度設計とは決定的な違いがあります。国民が政権を託した民主党の骨格部分を文字通り骨抜きにしてしまったと言っていいと思います。このあたりの調整というのは、事前には難しかったのでしょうか。

鳩山 確かにそのあたりの事前の調整はしていないです。議論はしていましたけれども。確かに、菅さんはポリシー・ユニットというイギリスの方式を学んで来られて、それを導入したいという気持ちがあったと思います。

 しかし、私はその仕組みよりも、何を目的とするかというところを強調したかったのです。何でも官僚任せにしてきたものから、この国家戦略局で大きな柱というものをきちっと作り上げていこうと思いました。

 そこには当然、外交戦略が一番トップクラスに入ってくるというように私は想像していたんです。また、当然そうなるべきで、国家戦略の中に国内の予算だけの話だったらまったく意味がないとは言いませんが、本当の意味では国のあるべき姿を作れないと思っていました。

 外交の大きな戦略こそ、ここで開くのだと思っていました。しかし、それは外相の岡田(克也)さんが、それは外務省でやらせてくれと言うわけです。つまり、国家戦略には外交は入らないのだという話で、そこで対立してしまった。

 内容もずれて、作り方もずれたということで、内部でそういう状況ですから、法律化するところまで行かなくなってしまったということです。

衆院本会議場で話し合う(右から)平野博文官房長官、鳩山由紀夫首相、菅直人副総理・財務・経済財政担当相、岡田克也外相=2010年5月27日

――岡田さんが、外務省の範囲から外交は渡さないという議論をされたわけですよね。そういう時というのは、自分は首相で自分の内閣なんだから、私の構想ではこうだというふうに押し切ることはできないものでしょうか。

鳩山 押し切る前に、私はこういう人間ですから、まず議論をします。しかし、議論をしながら、そこは外務省の専門だからというような話が常にあるわけです。それに対して私の方の味方もあまりいなかったのかもしれません。

 私も大臣になるのは初めてだったものですから、独断で押し切るよりも、やはり和を保ってうまく運営していかなければいけないだろうな、ここで崩れたら終わりだという気持ちがありました。

 まさに普天間の問題もありましたから、できる限りみんなと歩調を合わせていきながらという気持ちが強かったですね。小泉(純一郎)さんだったら押し切ったのかもしれませんが、私はそこまでは押し切ることはできなかったですね。

「小沢さんのお考えをうかがう機会を頻繁に作ればよかった」

――国家戦略局を設計した松井さんは経済のことがずっと頭にあって、予算編成の大枠とかそういうものをここでやりたいと考えていました。その意味で、実質的に2010年度予算編成を主導した小沢一郎さんが閣内に入っていれば、その後の民主党政権はだいぶ違った形になっただろうと思います。

 小沢さんによると、政権発足の時に、鳩山さんから「政府のことは私がやりますので、政府のことには口を出さないでほしい。小沢さんには党の方をやっていただきたい」と言われたということですが、これは事実ですか。

鳩山 それは基本的には事実です。ただし、口を出さないでくれと言ったつもりはないです。政府・政策と、政務・党務とを分けようではないかということで、それで政策調査会をやめにした時期もあったわけです。そこはうまくいかなかったなと思っているのですけれども。

 基本的に、いわゆる政策作りは役所の中できちんとやる。自民党時代、二枚舌的に、政府はこう言っているけども自民党はこうなんだというような形でうまく使い分けていくようなやり方は国民を惑わすことになるのでよくないということです。だから、政策は一つ。政府も党も基本的には同じでなければいけないのだという発想です。

 この発想で、こちら側が政策を受け持つから、あとの党務、いかに党勢を拡大するかとか、どう円滑に党を運営していくかということはお任せする、私は一切口に出しませんというふうに分けたのです。その結果、例えば普天間問題も、幹事長としては一切タッチされなかったと思います。

――党と政府の一元化ということで党幹事長も閣内に入るということになっていたのではないでしょうか。

鳩山 私は、幹事長を小沢さんと決めた時、あの時期に小沢さんに入閣してもらった場合、集中攻撃を受けるのではないか、と恐れました。もちろん小沢さんは無罪でしたが、当時はメディアを含めて小沢さんに対する攻撃は本当にひどかった。私に対してもひどかった。私の方は受けざるをえなかったのはわかっていましたけれども。

 しかし、私の他に小沢さんもターゲットになってしまって、例えば幹事長が何らかの役割を大臣として務められた時にこの内閣は本当に持つのかなということを非常に危惧しました。それで、小沢さんが答弁に立っていただくことのないようにした方がいいのではないか。そんなような私の配慮ではあったのです。

――そうですか。

鳩山 今から思えば、1週間に二度でも三度でも相談をさせていただいて、小沢さんはどうお考えになっているかというようなことをうかがう機会をもっと頻繁に作っておけばよかったと思っています。

 自分だけで、政府だけで責任を持つのは当然なんですけれども、それを過重に引き受けて、ここで答えを出そうとしてしまったがために、党のみなさん方とそういった議論ができなかったというのは、今から思えば失敗でした。そうなると、だんだん意思疎通が、お互いに疑心暗鬼になってきてしまうんですよね。そうだったと思います。

定例記者会見をする民主党・小沢一郎幹事長=2009年10月19日、東京・永田町の民主党本部

――疑心暗鬼というのは、具体的に何か感じる部分があったのですか。

鳩山 たぶん、小沢さんも、鳩山は何をやっているんだというふうに思っておられたと思います。もっとうまくやれよと。たぶん普天間のことに関しても、小沢さんはいろいろとお考えをお持ちだったと思うのです。

 しかし、小沢さんも私以上に割と訥々としておられて、二人の時にもそんなにべらべらお話しをされる方ではないので、本当に普天間のことは政府の方に任せているからそれでいいんだなと言われると、任せておいてくださいと私も答えてしまうわけです。

 いや、助けてくださいという話をすれば、もっと胸襟を開いていろいろとお話しができたと思うのです。しかし、政務、政策はこちらからは口を出さないからそれでいいんだな、とおっしゃられると、こちらもその通りです、私どもが責任を持ってやりますというふうになってしまった。

 たぶん、お互いにそれで満足していないのだろうと思いながら、溝が出来てしまったような気がしました。

――当時の小沢幹事長を閣内に入れないということについては、他の方から入れないでほしいと言われたことはあったのですか。

鳩山 大臣の任命に関しては、基本的に私一人でじっくり考えさせてくれと言っていました。その時期にあまりいろいろな人が入ってくると、自分を売り込みに来ているというふうに思われますから、みんな遠慮していたと思います。基本的には一人で決めていました。

 だれかということはわかりませんが、小沢さんはまずいのではないか、という気持ちは伝わってきたことはありました。官房長官、副長官クラスの話ではなかったかと思います。そのあたりの記憶は定かではありませんが、それ以外の人たちとはあまり議論しませんでしたから。

 ただ、私が決めた話ですから、だれに言われたから閣僚に入れるのはやめにしたというわけではありません。例えば予算委員会の時などは一日中委員会室に座っていないといけないわけで、毎日そんな委員会に朝から晩まで縛られると党務のほうにも支障が出るのではないか、とも思いました。

 政調会長はなくしたわけですが、党の方で政策を担当する人間はいないわけにはいかないでしょうから、そういう意味でこの政調会長をなくしてしまったのは問題ではなかったかな、と思います。

――2009年12月になって、当時政治的なイシューとなっていたガソリン税の暫定税率問題などに関して、小沢さんを筆頭に党幹事長室が要望をまとめて官邸の方に来られて、いろいろとお話しされましたね。これは、鳩山さんにとっては、まさにそういう問題に政府が苦しんでいる時に小沢さんたちに助けてもらったという位置づけでしょうか。

鳩山 暫定税率に関しては本当にあの時は苦しかったという思いがあります。政権を取る時に、自分としては、こういった暫定税率はもうやめにしようという話をしていたわけですから。しかし、財務省からいろいろと資料などを見せられて、また国民的にも、暫定税率をなくすとガソリンがたくさん使われて環境悪化につながるというメッセージもたくさん流されてきて、私はここは非常に迷いました。

 その時に、スパッと小沢さんが助け船を出してくれたというふうに私は理解しています。あの時の小沢さんたちのまさに団交的な雰囲気によって、政府と党幹部との間で緊張感が漂っているというように私の目には映りました。

――結局その流れを見ていくと、鳩山さん側つまり政府側は松井孝治さんと古川元久さん、それから小沢さん側つまり党側は高嶋良充さんと細野豪志さん、この4人がまさに一緒になってガソリンの暫定税率の問題や地方交付税の規模の問題や、いろいろな予算の大枠の問題を話し合うんですよね。そして物事がスタッスタッと決まっていくんです。

 政府側と党側の事務方代表の政治家4人が話し合って予算の大枠を決めていくという形はまさに政治主導そのものではないでしょうか。名前はもちろん国家戦略局ではありませんが、これは実態としてはすでに国家戦略局の役割を果たしているんですよ。ということであれば、最初からこの形を目指せばよかったのではないか、と思いますね。

鳩山 政治主導とはまさにそういうものですよね。

「小沢さんは無罪の事件に巻き込まれ、総理になるチャンスを逃された」

――松井さんの回想によりますと、小沢さんの考えを予算案にあてはめていけば細かいところまで財務省の数字にはまっていったというのです。松井さんは、小沢さんのバックには必ず財務省がついているに違いないと想像していました。

 私はその後、小沢さんに確認してみました。すると、やはり小沢さんは当時の財務省主計局長だった勝栄二郎さんと話し合って、小沢さんが大きい方針を論理的に説明、指示していたということでした。

 こういうことを考えると、歴史に「イフ」はないと言われますが、小沢さんを閣内に入れて国家戦略局長の役割を担っていたら話は早かっただろうなと思いますね。松井さん自身も、小沢さんを閣内に入れていたらその後どういう展開になっただろうか、と指摘していますね。

鳩山 そうですね。しかし、当時私は外からの攻撃を一番心配していました。

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