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『パラサイト』で日韓を考え抜く~ソン・ガンホの言葉とポン・ジュノの微笑

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

 COVID-19(コロナ・ウイルス)の「海に浮かぶ培養シャーレ」と呼ばれたクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号から下船した乗客たちが横浜駅から日本各地へ散って行った2月19日、私は東京・渋谷のシネマ・コンプレックスでスクリーンを見上げていた。

 スクリーンには、今全世界で話題沸騰中の映画『パラサイト・半地下の家族』が上映されていた。渋谷でも満席状態で、買える席は最前列しかなかった。

 振り返って見渡すとほんとんどの客がマスク姿。私も白いマスクをしてCOVID-19の侵入を極力防御しながら、まるで地下室から地上をのぞき見るようにして『半地下の家族』を鑑賞した。

 『パラサイト』はカンヌ国際映画祭の最高賞であるパルムドールを受賞、続いてアカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の4冠受賞。カンヌとアカデミー作品賞を制したのは実に64年ぶりという快挙だ。

便器より低い食卓を持つ半地下の住居

 監督のポン・ジュノは映画のプログラムの中で、「本作をご紹介頂く際、出来る限り兄妹が家庭教師として働き始めるところ以降の展開を語ることは、どうか控えてください」とネタバレ回避を「お願い」しているので、詳細を書くわけにはいかないが、この兄妹をはじめ主人公一家が暮らす家は、ソウルの低所得層家族が多く生活するビルの半地下。

 半地下の床よりも下水道管の方が高く通っているために、水圧の関係でトイレの便器は床より1.5メートルほど高く置かれている。

 食事の場所より便器の方が高いところにある生活というものはなかなか想像しにくいが、この地下生活のイメージは、以前から貧窮や社会の二極化と結びつけて考えられてきた。

高層マンション群の近くにある半地下の住居。道路と同じ位置に窓がある=2020年2月10日、ソウル

 韓国だけではない。ロシアの文豪ドストエフスキーの『地下生活者の手記』は、貧困の中にある最下層官僚が自閉気味に喘ぎながら地上の市民生活をのぞき見る話が背景になっている。

 20世紀ロシアの独裁者スターリンが少年時代に過ごしたジョージア・ゴリの貧しい実家にも半地下があった。スターリンの父親の靴職人はこの半地下から地上の喧噪を聞きながら、子どもや妻に暴力を振るっていた。

 私は、ソ連が消えてなくなる直前ゴリを訪ねて、地上から木造の窓越しにこの半地下をのぞき見たことがあったが、いかにも市民生活から抑圧された下層職人の仕事場だった。

 便器より低い食卓を持つ半地下の住居。もともとは朝鮮戦争休戦後、北朝鮮の攻撃に備えるために1960年代半ばから作り始めた各ビルの防空壕だった。韓国経済は同時にこのころから急成長を始め、ソウルへの人口急増をもたらした。

 1970年代から、人口急増と住居不足に対応するためにこの半地下を住居用に廉価で貸し出すようになった。1975年、韓国政府はこの実態を追認、法律を改正してこの半地下にも公然と住めるようになった。『パラサイト』が全世界的にヒットして、韓国政府はこの半地下住民の一部に補助金を支給することを決めた。

 「半地下生活者」が少なからず存在する韓国社会を歴史的に理解するためには、半地下室の元となった防空壕の由来、つまり国が南北に分かれ続ける朝鮮半島の緊張の原因を探らなければならない。

日本による韓国併合

 この緊張の原因をたどってみると、当然、1950年6月に勃発し、1953年7月に休戦協定が結ばれた朝鮮戦争に至り着くが、さらにその先を探ってみると1910年の日本による韓国併合が大きい要因として横たわっていることに気がつく。

 西欧列強に比べてはるかに遅れて近代化に乗り出した日本は、近代化や資本主義化の面でさらに遅れていた李王朝朝鮮を支配下に置いた。

 李王朝は中央集権国家だったが、その実、集権体制は弱かった。米国の歴史学者ブルース・カミングスによる歴史的な名著『朝鮮戦争の起源』によると、李朝朝鮮の支配体制はむしろ貴族階級である両班(ヤンパン)が実質的に握っていた。

 この両班階級による李朝朝鮮政府への侵食が国力を弱め、日本の支配に対する抵抗力を奪った。日韓併合条約とともに、実質的な植民地統治機構である朝鮮総督府庁舎がソウルに建設された。

朝日新聞の「秘蔵写真が語る戦争」(2009年4月30日発行)に掲載された植民地支配の拠点だった朝鮮総督府の庁舎=撮影時期は1926年の建設以降

 この庁舎は1945年の日本敗戦以降も韓国政府の中央庁舎の一部として使われていたが、1993年、金泳三政権によって取り壊しが指示された。

 庁舎を精しく調査した結果、地下に拷問室が存在することがわかった。部屋に排水路などが設えられていることから、水責めなどの拷問が行われたのではないか、と推定されている。

 カミングスによると、朝鮮総督府は朝鮮国家のあらゆるものから屹立していた。その支配体質は「全体主義的」という言葉でも穏健過ぎるもので、朝鮮人社会を巧妙に操って日本への協力者を増やし、朝鮮人同士の内紛を煽った。

 全体主義支配の常套手段devide and rule(分割と支配)で社会を押さえ込み、日本本土の利益のために朝鮮人社会の余剰を搾り取った。

 1940年代後半に南北に分かれていく朝鮮半島の淵源は、このような日本に対する抵抗運動の存在にあった。

分裂国家と戦前日本の傷跡

 日韓併合の前後から続いていた抵抗運動は、1930年代にいたって、満州・朝鮮国境地帯でひとりの抗日パルチザンに光を当てるようになった。現在の朝鮮労働党委員長、金正恩の祖父、金日成だ。

 金日成は数百人の朝鮮人遊撃隊を率い、日本軍から数多くの勝利をもぎ取った。日本が真珠湾を攻撃し日米戦争に突入すると、自らは満州とシベリアの国境地帯まで後退した。

 数多くの同志が命を落とし、日本軍に捕まってしまった中で、日本軍からの追跡、拘留を免れた。金日成はさらにソ連で教育、訓練を受け、戦後ソ連軍艦に乗って朝鮮半島に帰り、ソ連占領下の朝鮮半島北部で支配者の地歩を築いていく。

 戦後の朝鮮半島にとって不幸だったのは、1945年4月まで存命だった米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が、「朝鮮人もまだ独立政府を運営するだけの能力を身につけておらず、従って40年間は後見者の下における訓練を受ける必要がある」(カミングス前掲書)という理解しか持っていなかったことだ。

 朝鮮半島を南北に分けた北緯38度線も米国の陸海軍担当官が実質的に30分で決めた。独立政府樹立を目標に準備を進めていた朝鮮の建国準備委員会の人々の中には、やむなく北部に向かって出立する人もいた。

 北部はソ連と中国の後ろ盾を得て北朝鮮として独立し、南部は米国の全面協力の下に韓国として出発した。朝鮮戦争を経て、1989年の東西融和の後も朝鮮半島だけ分裂国家として残された。そして、その歴史と感情には戦前日本の傷跡がまだ生々しく残っている。

「徴用工判決」に流れる精神

 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金(旧日本製鐵、現日本製鉄)に対して、戦時中に強制動員させられた韓国人4人に、一人当たり1億ウォン(約909万円)の損害賠償金支払いを命じる判決を確定させた。

 このいわゆる「徴用工判決」に対して、安倍政権は姿勢を硬化させ、対韓貿易の規制を厳しくすることで対抗した。

 以来、現在に至るまで日韓関係の冬の時代は続いているが、安倍政権が「徴用工判決」を頭から拒否する理由は、「徴用工問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みだ。国と国との約束を守らないのは国際法に反する」ということに尽きている。

徴用工判決を受け、首相官邸で取材に応じる安倍晋三首相=2018年10月30日

 しかし、大法院判決を読めばよくわかるが、日韓請求権協定は単なる経済・財政補償協定に過ぎない。強制動員されて戦前日本の利益のために酷使された「徴用工」に対する個人的な慰謝は何らなされていない。

 日韓請求権協定にはこの慰謝は含まれておらず、慰謝を求める「徴用工」の個人的な請求権は残されているというのが大法院判決の趣旨だ。

 さらに、2018年の大法院判決の先触れとなった2012年5月24日の大法院判決は、「徴用工」の損害賠償請求などを認める理由として、1987年制定の韓国憲法を根拠として示している。

 韓国の自主独立を憲法の精神の根幹とし、それを妨げた戦前日本の植民地支配を不法のものとするという考え方だ。

 1965年の日韓請求権協定はこの植民地支配の不法性を前提としていないために、その見解は受け容れがたいとしている。

 恐らくは安倍首相自身をはじめ安倍内閣の面々は誰一人として大法院判決を読んでいないだろう。

 大法院判決を読解して、そこに流れる精神を理解すれば、「解決済み。国際法違反だ」という、日本の歴代政権に比べてもかなり後退した浅知恵の言い方は出てこないだろう。

ソン・ガンホの言葉

 安倍政権の浅知恵のために貿易やインバウンドを含め日韓関係は冷え切っている。

 この状況でさらにCOVID-19による中国との交流激減が加わった。日本の有権者が自ら選んだ安倍政権とはいえ、その外交失態は見るも無惨な結果を招来しつつある。

 2月23日午後5時、東京・内幸町のプレスセンター・ビル10階の記者会見場に二人の大柄な男性が現れた。

 モジャモジャ頭に黒いジャケットを着た『パラサイト』監督のポン・ジュノ、その後ろに黒いV字カットのシャツとオレンジ色のジャケットを羽織った『パラサイト』主演男優、ソン・ガンホだ。

 パルムドールとアカデミー作品賞など世界の映画賞を総なめにした映画監督と主演男優だが、満席の記者たちを前にして緊張気味に見えた。

 記者会見の最初にそれぞれが韓国語で挨拶した。伏し目がちな名優ソン・ガンホは、味わい深い声でこう語り出した。

 「『パラサイト』が日本の皆さんにも興味深く受け容れられ、評価していただけたことを大変うれしく思っています。20年前くらいでしょうか。2000年代初期のころ、韓国の映画が日本でも広く公開されていました。そういう時代はありましたが、その後、韓国と日本の交流は少なくなってしまったような気がします」

 「韓国と日本の間で交流が活発だった時期には、韓国と日本のそれぞれの優れた映画作品などに両国とも強い関心を持っていました。この時のように、互いの優れた作品に強い関心を持ち、互いに声援を送るような時代がまた訪れることを希望いたします」

 「韓国と日本は非常に近い国同士ですので、『パラサイト』が評価いただけたように、また互いの文化をあたたかく応援し合えるような関係になれればいいなと思っています」

 ソン・ガンホは、『パラサイト』では、半地下に住む兄妹をはじめとする一家の父親役で、悲劇を織りなす映画全体の主人公だ。

 監督ポン・ジュノの作品には多く出演しており、極めて高い評価を得た『殺人の追憶』や『グエムル-漢江の怪物』でも主人公を演じている。黒澤明映画における三船敏郎的な存在だ。

 そのソン・ガンホが、微妙な役作りの「コツ」を披露した。

 「私の役作りは、他の人と違うかもしれませんが、監督には聞かないんです。その役について、監督の考えはあえて聞かないで、自分の中で考え抜いて、その結果を出せるようにするんです」

 演出の中心となる監督に役の性格や演技について聞くということが、普通の俳優の考えるところだろう。しかし、ソン・ガンホは明らかにそれとは異なる考えを持っていた。

 自分自身で考え抜き、その考えが身体と表情に出るまで自分自身のものにするという演技法だ。

会見するポン・ジュノ監督(右)と主演のソン・ガンホさん=2020年2月23日、東京・内幸町のプレスセンター・ビル

ポン・ジュノの微笑

 そのソン・ガンホが満席の記者たちを前にして語った挨拶の言葉は、現在の日韓関係を考える上で非常に含蓄のあるものだった。

 私は、現代史の中でも難しい日韓関係について映画化するつもりがないかどうか、どうしてもポン・ジュノに質問してみたかった。

 しかし、不運にも私の挙手は記者会見の最後まで指されなかった。仕方がないので会見場を退席する二人についていき、エレベーターに乗るところで、ポン・ジュノに「一問だけ」と食い下がった。同じエレベーターに乗ることは主催者の担当者に阻まれてしまったが、ポン・ジュノは、両手を肩の上に広げて「仕方ないですね」という表情で微笑していた。

 私は質問することはできなかったが、微笑のメッセージについては自分勝手に解釈した。それは、映画『パラサイト』のラストシーンと同じメッセージだと理解した。

 ポン・ジュノ監督との約束で「ネタバレ」してはいけないので、ラストシーンについては少し抽象的に記すことにするが、最大の悲劇に襲われた父親役のソン・ガンホと息子役の俳優が試練を乗り越えて抱擁し合うシーンだ。

 息子はある遠大な夢の計画を立て、その計画の成就の後にソン・ガンホを迎えに行く。映画を見る人には、その夢は遠大過ぎて、まさに夢の中の抱擁にしか見えない。しかし、それにもかかわらず、その抱擁は美しく人の心を打つ。

 夢は遠大でも、それを見続けて努力する中で、その夢に近づく日が来るかもしれない。複雑な日韓関係について、ソン・ガンホの言うように2000年代初めに、夢に近づいた日々があった。

 今、性急にポン・ジュノに日韓関係について質問しても、ソン・ガンホ以上の言葉は出てこないだろう。しかし、その言葉を、名優ソン・ガンホのように自分自身の中で考え抜いてほしい。

 この記事のコンセプトを考え抜いているうちに、そういうメッセージが私の中に少しずつ広がっていくのが感じられた。