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香港2047年問題~香港の未来を築く当事者は誰なのか?

国家安全法で火がついた「高度の自治」

市川速水 朝日新聞編集委員

 香港で2020年5月22日以降、民主派議員や市民を中心に、中国政府に対する反対デモが繰り広げられている。24日には、デモ隊と警察隊が香港島中心部の路上で衝突した。今回のデモの目的は、北京で開催中の全国人民代表大会(全人代)に提出された、香港に適用される国家安全法制への反対だ。

 香港の近現代史と中国共産党政権のこれまでの姿勢を顧みれば、ある意味、歴史の必然であり、「1国2制度」という世界初の実験国家にとって来るべき試練がついに来たといえる。自由か抑圧か、民主か独裁かといった政治・社会的枠組みを超えて、香港の未来がどうあるべきかを国際社会全体で考えなければならない契機が訪れた。

香港で2020年5月22日、民主派(左)のデモ行進をテープを張って遮る警官隊

植民地からの解放を嫌がる異様な光景

 筆者が香港特派員として赴任した1996年、中国への香港返還が1年後に迫っていた。

 香港人の間では日常使う広東語だけでなく北京語(普通語)を学び、話そうという人が急増し、大陸とのビジネス拡大に商機を見いだそうという人たちがいる一方で、中国の体制を信用できない人たちが米国やカナダに脱出し、移住する動きが相次いでいた。

香港返還を受けて中国国旗を先頭に駐留英軍総司令部を行進する人民解放軍兵士=1997年7月1日、香港・金鐘
 英国から植民地支配を受けていた人たちが、英国の撤退を残念がり、懐かしみ、植民地からの解放を嫌がるという異様な光景だった。それほどに香港人にとっては英国の統治になじむ一方で、中国共産党のイメージは悪かった。

 返還を前にした国際社会の雰囲気も、親大陸系メディアを除く香港内外メディアの論調も、「香港から自由が失われる」という視点に重きが置かれた。その7年前、1989年に起きた天安門事件で中国政権が民主化を要求する学生らを武力弾圧し、後になっても事件の詳細を明らかにしないことも、中国に対する不信感となって表れていた。

 しかし、返還後の香港の「運命」を決める枠組みは、そのはるか10余年前の時点で、すでに描かれていたのだった。

 香港を英国が支配した歴史を改めてひもとけば…。

 1842年、第1次アヘン戦争後の講和条約(南京条約)によって、香港の今の中心部・香港島が清朝から英国に割譲された。さらに第2次アヘン戦争でも英国が勝利し、1860年の北京条約で九竜半島の南端が割譲された。

 英国領となった2地域に加え、1898年、中国大陸へとつなぐ北方の新界地区が「99年間」の租借地となった。もらった土地と借り受けた土地、合わせて3地域が英国の統治下に置かれることになる。

不明確な「99年」と「50年」

 租借期間が「99年間」と定められた理由ははっきりしなかった。国際法上の「99年」は、ほぼ「永久」の概念に近いとされるが、中国が清朝から中華民国、さらに中国共産党政権の中華人民共和国に変わっても、中国は「99」という数字を忘れてはいなかった。ちなみに中国語で「9・9」の発音は「久・久」と同じなので、「99に永遠の意味をかけた中国流謎解きだろう」と語る外交官もいたが、真相は分からない。

 1970年代以降、「99年間租借」後の1997年以降の土地権利関係がどうなるのか、不動産業者らの不安を受けて、英国側が中国に「1997年以降の香港帰属問題」を協議するよう働きかける。

 膠着状態を打開したのがマーガレット・サッチャー首相と中国の最高実力者・鄧小平氏という現実主義者2人だった。サッチャー氏は1982年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利し、その勢いで直後に鄧氏と会い、有利に進めようとしたが、鄧氏は「香港はフォークランドではなく、中国はアルゼンチンではない」と「港人治港」(香港を治めるのは香港人)の原則を掲げて激しく応酬。英国が中国の言い分を聞かない場合、香港への武力行使や水の供給停止など実力行使もありうることを示唆した。

 租借地の新界はともかく、香港島や九竜は英国に割譲されたものだ、と英国が中国の返還要求を突っぱねることもできたかもしれないが、中国は「新界だけではない。香港全体が英国に占領された中国領土なのだ」と国際社会に向けて主張した。国連も加盟国も、武力で割譲を迫った帝国主義による植民地拡大の過去を正当化することを支持しなかった。

 こうして、中国の要求を英国がほぼ受け入れ、「大英帝国時代」は終焉を告げた。

香港返還の瞬間、喜びに沸く人たち=1997年7月1日午前0時、香港島・銅鑼湾

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