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朝鮮戦争への「協力」に抵抗した在日コリアンの挫折

朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」④米国に追随する日本の姿勢は変えられず

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

朝鮮動乱2周年記念日の1952年6月25日早朝、朝鮮戦争などに反対するデモ隊約千人が国鉄吹田操車場などを火炎ビンなどで襲った吹田事件で、米原発の通勤列車が吹田駅へ到着、乗り込もうとするデモ隊員を検束しようとして混乱するホーム=1952年6月25日、大阪府吹田市 国鉄吹田駅

 朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発して今年で70年。「連載・朝鮮戦争70年 日本の『戦争協力』」で、平和憲法ができて間がない日本における「戦争協力」の実態をみてきた。最終回の本稿では、朝鮮戦争時における国鉄の戦争協力(「朝鮮戦争と兵隊・武器・弾薬を輸送した旧国鉄の戦争協力」参照)に対する日本国内での抵抗運動について、在日の詩人として活躍する金時鐘(キム・シジョン)に焦点をあててたどってみたい。以下、2020年3月の筆者によるインタビューや時鐘の自伝、新聞記事などをもとにする。

「皇国少年」として育った金時鐘

 時鐘は世界恐慌がはじまる1929(昭和4)年1月17日、現在の北朝鮮元山市に生まれた。小学校に入る前に祖父のもとから済州島に住む両親のもとに移住。当時は日本の植民地統治下で、学校では朝鮮語ではなく日本語で話すことが強要され、朝鮮語を使うと、教師の激しいビンタ(平手打ち)がまっていた。「天皇の赤子になれ」と教育された時鐘は、特攻隊員にさえ志願する「皇国少年」として育った。

 父親は読書家で、多くの蔵書のなかには、革張りで金箔文字がうってある『トルストイ全集』があり、印象に残っているという。定職にはつかず、韓服をまとい毎日のように釣りに興じる人物だった。済州港の突堤で父の膝の上に座り、朝鮮語の歌詞で唄われる「いとしのクレメンタイン」(米国民謡)をよく聴かされた。

 16歳のときに終戦を迎える。町中に「万歳(マンセー)、万歳」という叫びが響きわたるなか、「自分だけが何か場違いのような気がしてならなかった」。日本に同化していた自分が、朝鮮の人間であることを突きつけられた瞬間でもあった。

 涙があふれた。済州島の海辺で繰り返し「海ゆかば」や「夕やけ小やけ」を口ずさんだ。そして、それからは必死で韓国語を覚えるようになった。

虐殺の島、済州島を脱出

 終戦まもないころ教師になるために学校に通ったが、すぐに学生運動に身を投じた。1946年も暮れかかったころ、朝鮮共産党を改編して生まれた南朝鮮労働党に入党。レポ(地下運動の秘密連絡員)要員として活動することになった。

 「厳しい情勢下で前衛組織の一員になれたことが嬉しくて、叫びだしたくなるくらい感激でした。これで私は生まれかわれのだと、しんそこ思ったものです。国が奪われたときも、『解放』されて戻ってくるときも何ひとつ関わることのなかった自分が、今は確信をもって祖国の命運に関わっていけるのだと、自分の青春がようやく開かれてくる思いでいっぱいでした」(『朝鮮と日本に生きる-済州島から猪飼野へ-』)と述懐している。

 当時、朝鮮半島は北緯38度線を境に米軍とソ連軍によって南北に分割占拠され、軍政が敷かれていた。南は親米の李承晩政権、北は金日成の北朝鮮労働党政権が地歩を固め、南北に分断されつつあった1948年、南朝鮮だけの単独選挙が決まり、それに反対する済州島の左派島民の民衆蜂起事件が起こった。

 在朝鮮米陸軍司令部軍政下にあった警察や軍と激しく衝突。4月3日に発生したことから「4・3事件」と呼ばれる凄惨な事件に発展し、政府軍や警察によって少なくとも3万数千人の島民が犠牲となった。南朝鮮労働党の予備党員であった時鐘も指名手配された。

 捕まれば殺害されるかもしれない厳しい逃亡生活を送り、1949年初夏、両親が大枚をはたき日本に脱出するための「闇船」といわれる漁船を手配してくれた。船に乗る前、母が用意した弁当箱や水の入った竹筒、着替え、50銭紙幣などを父から受け取った。父は「これは最後の、最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところでだけは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」と語りかけた。その後、両親に二度と会うことができず、今生の別れの父の言葉となった。

 数日後、船は松が茂る兵庫県の海岸に着いた。のちに松林の様子から、神戸の舞子の海岸あたりと分かった。

朝鮮戦争への協力阻止運動について話す在日詩人の金時鐘さん=2020年3月、奈良県生駒市で(徳山撮影)

生きるために兵器の部品を製造した同胞たち

 同胞が多く住む大阪市生野区の猪飼野に向かった。猪飼野で出会った見ず知らずの同胞に、長屋のローソク工場を紹介してもらい、住み込みの工員になった。工場といっても二坪ほどの裏庭を三和土(たたき)にした仕事場で、簡単な機械でローソクを製造した。当時は停電も多く、路地の長屋の多くがローソクの仕事をしていた。

 工場の廃業にともない、貧しい人たちが住む共同便所近くの「鶏舎長屋(タクトナリ)」と呼ばれる板間ひと間の同居人になり、石鹸工場の雑用係もした。在日朝鮮人のどん底の集落での苦しい生活だったが、地下活動をしていた済州島とは違い、生命の危険のない猪飼野での暮らしは、「それだけで困窮に耐えうるだけの有難さがありました。またそれだけに自分ひとり逃げを打ったという後ろめたさも、日を追ってつのってきていました」(『朝鮮と日本に生きる』)。

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